トトガノート

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キリスト教

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第七章 ジャラールッディーン・ルーミー」(p131〜151)を読みました。

今回は「夢、その二」(p141〜151)から引用します。

『自己認識への道』の第二部「トマスの福音書」のとっておきの結末に相当するのが、この中間世界(barzakh)の話でした。そこでは、無身体もひとつの身体と数えて三つの身体と呼んでいました。

《以下引用(p149)》
…人間は粗大身(肉体)と微細身(魂)から成り立っている。粗大身が滅びるとき微細身が現れる。これを…小復活という。大復活が、今生において真理(神)の世界に目覚めるのと異なり、小復活によって、肉体の世界と真理の世界の中間に位置する魂の世界(barzakh)へと入ってゆく。さらにこの中間世界(バズラフ)は大きくは、天国と地獄の二つから成り立っている。この世界は肉体(物質)の枷が完全に取り除かれた純粋イマージュの世界であるため、ある意味では現実より一層リアル、かつカラフルな世界と言えるかも知れない。微細身は粗大身に比して感覚が鋭いことも挙げられる。

…粗大身(肉体)の内側へと辿り、微細身に達すると、そこは魂の中間世界である。微細身に入ることであなたは肉体の世界を超越する(小復活)。さらに内側へと辿ると、やがてこれまで外側に見ていた宇宙さえもが消え去る無の本源に行き着く。あなたは無化されてもういない。つまりあなたは無身体となるのだ。このようにあなただけではなく、森羅万象が無の中へと消え去る心象風景を終末という。終末はあなたの死(フアナー)の体験と密接に結びついているのだ。そして無身体に入ることであなたは中間世界をも超越する(大復活)。その時あなたは神を映す無の鏡として、神(の身体)となる。あなたは自己の中に全宇宙を見、全宇宙の中に自己を見ている。善も悪も、天国も地獄も、ことごとくあなたのものであり、ありとあらゆるものの中にあなたは存在する。つまりあなたは全宇宙(マクロコスモス)となるのだ。

このようにどこに存在するのでもないが、あらゆるところに存在する無境界の人を指して、スーフィズムは完全な人間と呼ぶ。人間は、いまだ進化の途上にあるが、完全な人間は、その頂点なのだ。これこそ人間の究極の可能性であり、また存在の意味である。
《以下終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第七章 ジャラールッディーン・ルーミー」(p131〜151)を読みました。

ルーミー(1207〜1273)は、「スーフィズムの偉大なシェイフ」と本文中で紹介されています。「夢、その一」(p133〜141)のデカルトの「cogito, ergo sum」に関する記述が面白いので、今回はそこを引用します。

《以下引用(p134)》
いずれにせよ、この命題は「私」の存在証明になっていない。せいぜい思考のプロセスが「私」だといっているに過ぎない。cogito, ergo sumに対する私の誤読(と言っておくが)、即ち、思考が「私」であるということは、われわれの世界については絶対的に妥当する。なぜなら、この世は「私」という思考が造り出すものしか見い出し得ない世界であるからだ(思考を越えた世界については後述)。心に浮かぶ思考のゆらめきは、具体的な像(イメージ)となって、やがては物質(広い意味では人間の行為)へと客体化されてゆく。われわれが目にしているものは、もとを辿れば思考以外の何ものでもない。思考は物質であり、物質は思考が付与した形(フォルム)なのだ。思考は、われわれが一般に考えているような抽象的な観念にとどまるものではなく、様々な想像の世界('alam al-mithal)や物質の世界('alam al-ajsam)を造り出している根本原因なのだ。
《以下終わり》

デカルトについては、私も自分なりに書いています(水準はかなり低いですが)

科学の分野から見ても、「私」というものの輪郭をぼやかすことは簡単であり、むしろ自然な結論でさえあります。逆に、「私」から離れ客観視を至上命題としているはずの科学も「私」の影響下から逃れることはできない、というのも事実です。

その点、仏教は…「仏教が世界を考える場合、経験するわれわれ主体の側も含めて理解していく。言い換えれば、世界はそれだけで存在しているのではなく、外的に存在すると見られる客観世界も、見る主体の心と密接に結びついているということで「三界唯心」と熟語されるところに大きな特徴がある。」ということでした。

それは、唯心論か唯物論か、という区別ともまた異なるものです。

可藤さんの本を読んでいると、究極の真理は、仏教もキリスト教もイスラム教も同じだということに気づかされます。そして、デカルトの思索がいかに表層的であるかも。

《以下引用(p135)》
さて、ひとたび「私(エゴ)」という中心が措定されると、「私」を除くすべてのものは外側へと客体化され、そこであらためて、あなたはそれらの事物(人、物、思想)と関わり、支配しようと奔走する。生とはそのための闘争であり、葛藤なのだ。というのも、今のところ「私」は無防備な裸の状態にあり、知識、権力、物、名誉なんであれ、色づけされるのでなければ、見わけもつかない抽象物であるからだ。

このような主客分裂したところから、あなたは様々な問題を造り出す。
《以下終わり》

これは、すっかり仏教書のような記述ですが…今回はイスラム神秘主義なのです。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第七章 ジャラールッディーン・ルーミー」(p131〜151)を読みました。

ルーミーという名も、これまで何度も出会っています。例えば、こんな引用…
…愛情ですら二元論の源である。そして、二元性の跡もなく、純粋一元性の世界も存在する。とすれば、その一元性の世界に到達した人は、愛も憎しみも共に超えた人でなければならない。その世界には二元性の入る余地は全然ないのだから、そこに至った人は完全に二元性を超越しているはずである。従ってまだ二元性の支配していた最初の世界、つまり愛情や友情の世界は、今やその人が移ってきた一元性の世界に比すれば、どうしても低級と言わざるを得ない。(『ルーミー語録』)

または、こんな解説で…
仮我の狭い境界を超え、宇宙に遍満する「法界の大我」という考え方は、容易にイスラーム神秘主義の「普遍的人間(al-insan al-kamil)」を思い起こさせる。この考えを受けてルーミーは、人間を世俗的人間と霊的人間の二種類に分け、それぞれミクロコスモスとマクロコスモスを当てる。彼は「普遍的人間」をマクロコスモス、すなわち時間と空間を超えた存在と捉え、それをわれわれ人間が達成すべき「完全な人間」と見なしている。

または、こんな引用も…
世間でいう学問とか技能とかは、いずれも海水を茶碗で量るようなもの。あらゆる技術で身を飾り、金もあり顔も綺麗だが、一番大切な「あのもの」を欠く人がたくさんいる。反対に、見かけはいかにも見すぼらしく、美しい言葉も力強い言葉も喋れないが、永遠不滅の「あのもの」だけは持っている人もいる。それこそは人間の栄光であり高貴さの源であり、またそれあればこそ人間は万物の霊長なのである。もし人間が「あのもの」に辿り着けさえすれば、それでもう己の徳性を完全に実現したことになる。が、もしそれができなければ、人間を真に人間たらしめる徳性とは縁なき衆生だ。(『ルーミー語録』)

そしてまた、こんな解説…
ルーミーが無になりなさいと言うとき、あなたが心の本源へと深く辿ることによって、このメタ宇宙的な無の空間('adam)に到達するならば、あなたの中で自然に古い人から新しい人への変容が可能になるという意味である。…

一元性の世界に到達した人、普遍的人間、マクロコスモス、完全な人間、メタ宇宙的な無の空間に到達した新しい人間…これらがキーワードとなりそうです。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第六章 イブン・アラビー」(p111〜129)を読みました。

このイブン・アラビーの章は、「死」(p112〜120)と「無」(p120〜129)という2つのテーマで区切られています。今回は「無」について。

「世界は幻想である」…みんなで造り上げている共同幻想。そしてその幻想を蓄積する貯蔵庫こそ「私」。

この幻想たる「世界」を、つまりは「私」を取り去ったとき、汚れを落とした鏡のように真実を映し始める。これは比喩こそ違うけれども、大乗起信論と同じことを言っているように感じます。

《以下引用(p124)》
神を映す鏡が、あなたの経験(感情、思考)が織りなす幾重ものヴェールに覆われて、見えなくされているのだ。あなたがそこに介在するとき、神は背後に隠れてしまう。「そこにあなたがある限り、神に至る道はない」とビスターミーも言う。しかし、これは神の顕現する場(トポス)まで失われたことではない。人間の創造の目的である鏡を手放すことは誰にもできない。自分の影に文字通り我を忘れて、あなたは自らの本性に気づいていないだけ。
《引用終り》

《以下引用(p125)》
無があなたの本性なら、どうあれ、あなたは無からやって来たのであり、そして再び無へと帰っていくしかないのである。…

人間はどこから来てどこに向かって去りゆくのであろうか。古来、この問いは永遠の謎として、われわれの脳裏に去来しては、確かな答えを得られないままにきた。何故であろうか。切実で、的を射た問題と思われているが、問いそのものが持つ誤った観念を一掃しておくのもあながち意味なしとしないであろう。

どこからどこへという観念が生死と関連していることは明らかである。ところで、生死はあなたが造り出した最大の幻想であると説明しておいた。生死が幻想なら、二義的なこの問いも同様に実体のないものである。ただ生死の夢を見ているために、どこからどこへというありもしない問題に取り憑かれることになるのだ。…

宗教的真理は、奇妙に思えるが、どこに行くのでも、また何になるのでもなく、変わらずここにいたという表明でもあるのだ。なぜ宗教が(勿論、私の考える)、このようなとるにたりないことを重要に考えるかというと、あなたはここがどこなのかを知らず、生死の夢をむさぼって果てしない悲喜劇を繰り返しているからだ。
《引用終り》

ただ、イブン・アラビーは真理の否定的・虚無的側面で終わっているわけではなく、真理の肯定的側面に着目しているようです。

《以下引用(p125)》
スーフィズムは、キリスト教神秘主義に見られるように、肉体の内側は神の寺院(メッカ)であるという思想に基づいている。あなたの内なる実存は神の存在可能性であり、「神の国に入るとは、あなた自身の中へと入ることだ」。…

ルーミーが無になりなさいと言うとき、あなたが心の本源へと深く辿ることによって、このメタ宇宙的な無の空間('adam)に到達するならば、あなたの中で自然に古い人から新しい人への変容が可能になるという意味である。…

だからといって新しい人は古い人の棲家を離れて、どこかへ行ってしまうのではない。新しい人も古い人と同様、この世界に存在している。しかし、変容体験に伴って、今や世界は真実の姿を顕したのだ。世界を変えようとしたわけでもないのに、魂(神)の目を通して内から外を眺めるとき、ここは神の愛と美のビジョンで満ちた世界なのだ。…

これを実現したもの(普遍的人間)は、人間として知り得る究極のものを体験したのだ。これを越えるものはほかに何もない。彼の中には全宇宙が包含されている。彼は自己の中に全宇宙を見、全宇宙の中に自己を見ているのだ。神とはこの全体(すべて)をいうのである。

「世界は幻想である」から始めた私は、図らずも全く逆の結論に到達した。しかし、これは矛盾でも何でもない。「世界は幻想であるとともに、また真実でもある」。この逆説の中にイスラーム神秘主義の奥義がある。そのいずれであるかは、あなた次第なのである。
《引用終り》

これが「有無中道の実在」ということなのかと思います。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第六章 イブン・アラビー」(p111〜129)を読みました。

このイブン・アラビーの章は、「死」(p112〜120)と「無」(p120〜129)という2つのテーマで区切られています。今回は「死」について。

「スーフィー的死」という言葉が出てきます。「スーフィー」とは神秘家の意、その「死」とは「大死」と同義です。そして、宗教とは、死の練習を通して、生きている間に自分自身の死を体験的に知り、実際に訪れてくる最後の瞬間にも不死なるものとして甦るためのものである…「死を自ら体験することなくして、(永遠の)生命に入ることはできない」。

《以下引用(p118)》
死の練習とはどのようなことか、ごく簡単に触れておこう。言うまでもなく、スーフィー的死は肉体の死について言ったものではない。肉体を自ら破壊することの愚かさと、いわゆる死が本質的には自殺と何ら変わらないこともすでに指摘しておいた。
《引用終り》

これについては、私は、アウグスチヌスの「告白」の中の一節が印象的です。

《以下引用(p118)》
そこで肉体に対するわれわれの姿勢は、肉体を責めたり、厭い捨てることでもなく、また、しがみついてもならない。もしそのどちらにも与することなく中庸を保ち、肉体の内側へと独り辿りゆくならば、自我は自然に消え始める。というのも、自我とは肉体を自分と誤って同一視する思惑(ドクサ)であり、その結び目が解き放たれるにつれて、自我も揺らぎ始めるからだ。そしてやがては無の中へと消えるしかない。が、さしもの自我も無の中に消滅するまさにその瞬間、それがあたかも死の如く思われ、恐れ戦くとしても何の不思議もない――これが死の中で実際に起こっていることなのだ――しかし、スーフィーはこの死を受け容れる。なぜならこの死はすべての終りではなく、むしろ生命の絶頂(クライマックス)、新しい生命の始まりでもあるのだ。それ故、勇気をもって死の練習に努めるなら、いつか自我のヴェールは拭い去られ、消滅するであろう。その時あなたは自分が単なる肉体的存在ではなく、永遠に生けるものであったと知る。このように死の練習とは、あなたの自我が消滅することであって(無我)、永遠のあなたまで消え去るのではない。あなたはそれを越えた神的我として甦るからだ(無我の大我)。「私は無の中へと消え去り、消滅した。そして見よ。私は永遠に生ける者であった――私は唯一の神を見たのだ」。
《引用終り》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第六章 イブン・アラビー」(p111〜129)を読みました。

『瞑想の心理学』では「一法界(法界一相)、あるいは一元性の世界に帰り行くこと、同じことであるが心真如(真心)を知ることが『起信論』全体の目的なのだ。イスラーム神秘主義(スーフィズム)の代表的な思想家であるイブン・アラビーが言う存在一性の世界もこれに当たる。」という形でイブン・アラビーの名が出てきます。

『自己認識への道』では「自己認識が神認識である(キルケゴール、そしてスーフィズムの思想家イブン・アラビーなどが好んで引用する「自己を知るものは主(神)を知る」というハディースを踏まえた成句)とは、自分自身を知るというのではなく、あなたが無の中に消え去り、神と一つになることによって、自分が神以外の何ものでもなかったと知ることなのだ。

井筒俊彦氏の御著書になりますが、『意識と本質』では、イブン・アラビーは「本質」肯定論の立場にあり、「有無中道の実在」という言葉を使っていると書かれています。大乗仏教は「本質」否定論に分類されているようですが、イブン・アラビーと同じ場所に「密教のマンダラ」も分類されています。

と、これまでを振り返った上で、この章を読み進んでいきたいと思います。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第五章 ディオニシウス・アレオパギタ」(p91〜109)を読みました。

「死」とは、「私」からの解放であり、自由である。但し、ここでいう「死」は生物学的・医学的ものとは異なります

《以下引用(p109)》
…観想は、あらゆる自己同一化(肉体、記憶、観念等)を否定してゆく過程の中で、究極においては虚偽に過ぎない「私」を全面的に神的闇(無)の中へと解き放ち、完全に終焉させてしまうことであるから、その時、果たして恐怖などあるだろうか。恐怖をそれとして感じていたのは「私」であり、その「私」が観想の中で完全に死に絶えてしまうなら、そこにどんな恐怖もないであろう。これを自由という。つまり自由とは「私」からの解放であり、「私」の終焉こそ、死の恐怖から逃れる唯一の道であったのだ。しかも観想における「私」の死は永遠の生命に目覚めることであるから、内なる死の恐怖もまた越えてゆけるだろう。…
《引用終り》

「私」がなければ、恐怖もありえない…

《以下引用(p109)》
「私」の死と呼ばれるものがあり、そこから開かれてくる可能性を神秘という。それは眼に見える現実ではないが、真実である。そこに行き着くということはあっても、それを汲み尽くすことは誰にも出来ない(源は窮まれども、水は窮まわらず)。事実、そこに到達した人は、この神秘は知り尽くせないと知るのを常としている。知るものは黙し、無知なるものはいつの世も饒舌である。それにもかかわらず、自分にはまだ知るべきことが無限に残されていること、それを言い表す言葉はないとはっきり知りながら、なお神秘家が口を開くとすれば、そこにあなたが存在しているからではないだろうか。
《引用終り》

悟った者は、さりげなく衆生(あなたがた)の中に入って、本源へと導く…

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第五章 ディオニシウス・アレオパギタ」(p91〜109)を読みました。

《以下引用(p107)》
「神はすべての原因であるが、それ自身は無である」とディオニシウスは言う。神が無であるとはどういう意味であろうか。この無を、有に対する無と考えるのは誤りである。そういう意味において、神は有でもなければ無でもない。神はいずれをも超えている。無からの創造という場合も同様である。…
《引用終り》

これは、「空」ということではないのか?

《以下引用(p107)》
観想においては、知覚や思考から離れ、深い静寂と沈黙の中で神を見るのであるが、対象として神を認識する「私」が完全に神的闇の中に消え去った、なおその後に残る開かれた空間(スペース)を無と呼んだまでだ。勿論、その時、私(とも言えないが)は何も見ていない。パウロが「何も見なかったとき、私は神を見たのである」という逆説は、この消息を物語っている。認識する「私」がいないとき、存在に関するあらゆる概念(妄想)は消え去り、その後に在りて在るもの(神)だけが存在する(「彼(パウロ)はすべての被造物が無であるところに神を見た。彼はすべての被造物を無と見たのだ」)。…
《引用終り》

消え去った、その後になお残る「私」の残滓…識の転変を思い出しました。

《以下引用(p107)》
神秘神学において、まず神を知るという場合、極めてわずかではあるが、いまだ「私」の残滓のようなものがあって、何か神の属性(美、愛、歓喜など)を見ている。一方、無として神を知るという場合、知る「私」は完全に払拭されているのである、神を知ったことさえ知らない。言い換えると、神を知るに至ったけれども、そこに知る「私」がいなかったので、神を知ったとは正確には言えない(無知の知)。神を知ったという人は神の属性を見ていたのであり、神自身を知るに至った人は、その足跡(Vestigium)さえ留めていないのだ。約すると、神を知ったという人は神を知らず、神を知らないとする人は神を知ったということになろうか。
《引用終り》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第五章 ディオニシウス・アレオパギタ」(p91〜109)を読みました。

観想の実況的なところ。アウグスチヌス聖ヨハネと読み比べたいところです。

《以下引用(p104)》
観想という本源に回帰する旅の初めは、様々な記憶、欲望、思考が行き交う混沌であるだろう。しかし、それに干渉することなく見続けていると、やがてイマージュの流れは止み、精神(こころ)は次第に静まって、深い沈黙の中へ入ってゆくかのよう。さらに精神の裡に何ものも投影することなく、深く本源へと辿ってゆくと、そこはディオニシウスのいう「神的闇」であり、観想者が遭遇する「最後の抗争」の場であり、魂の荒野なのだ。その闇の中では「私」などかつて一度も存在しなかったかのように砕かれ消されてゆくように感じられる。眼もあやな、神的闇の空間に飲み込まれ、「私」が消え入ろうとする瞬間、もし退くことなくその中へ飛躍したならば「私」は死滅してしまうであろうことを感じとって、恐怖のあまり「私」という観念にしがみつこうとする。「人間は私(神)を見ることはできないであろう。なぜなら私を見るものは死んでしまうであろうから」。神の一瞥があなたの死を意味しているということ、これが宗教の世界に入る場合の、第二の理由にして最も難しい問題なのだ。
《引用終り》

死んで仏になる瞬間…

《以下引用(p104)》
しかし、「神を見るという幸運にめぐまれた人達は、この闇の中へと入っていった」。「私」の死に直面して、なお闇の中に自らを解き放ち、内なる死を受け入れることが、宗教的自己否定(放棄)と言われるものなのだ。深い観想の中で遭遇する死の危機を通り抜ける勇気ある人だけが、神の光に浴することができる。というのも神的闇は、実のところ、われわれの光(理性の光等)を遥かに凌駕する、あまりにも偉大な神の光そのものがもたらした闇(divina caligo lux)であり、「光は闇のうちに輝いている」のである。このように観想が辿るプロセスを、ディオニシウスは要約して「われわれは完全に自分自身から離脱して、神の中に生まれるのでなければならない」と言う。
《引用終り》

宗教的「虎穴に入らずんば虎子を得ず」ですかね…

《以下引用(p105)》
再生(復活)とは「私」が連続的に神の中へ移行し、存続してゆくことではなく、むしろ完全に「私」が終焉することによって、神の生命に目覚め、古い人から新しい人へと質的変容を遂げることである。この質的変容を進化というが、これはあなたの本源への回帰であり、本源からさ迷い出たあなたが再び本源に帰着したまでのこと。再生にはその意味も含まれている。従って、進化とはいうものの、実際には新しい何かになるのではなく、本来の自己に目覚めたに過ぎない。そして目覚めてあなた自身の本源に帰入するとき、あなたは自分が誰なのかを知る。というよりは、そこに「私」が介在しないとき、神だけがあると知る。このような意味において自己認識が神認識となっているところに、真の宗教の隠された奥義があるのだ。

あなたが目覚める覚醒の瞬間、内側から込み上げてくる言い知れぬ歓喜がある。それをエクスタシーという。
《引用終り》

神認識については聖ヨハネのところにもありました。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第五章 ディオニシウス・アレオパギタ」(p91〜109)を読みました。

前回引用部のバッチリ続きなのですが、観想とは?宗教とは?に対する説明が良かったので、またまた引用します。

《以下引用(p101)》
ディオニシウスは、若いティモテに自分の祈りを語って聞かせる。そこには若者への温かい配慮が感じられるとともに、神に至る確かな道を歴史の上に刻もうとする揺ぎない自信が漲っている。「ティモテよ、観想に取り組むときには、知覚や知性の働きを一切止め、それらを越えた、かの者と一つになるために無知(agnosia)の中を可能な限り昇って行きなさい」。彼のいう観想の秘儀とは、知識を頼りにしたり、思考をめぐらすことではなく、人間が造り出した神の観念をも捨て去り、精神の働きを息め、できる限り神の光へと辿るというものである。知識や経験は、日常的な問題に対処するには必要であるかもしれないが、真理(神)に至るための手段となり得ないばかりか、かえって障害になるのだ。

宗教は、学問の本来の意味である知識や情報の操作とは何の関係もなく、主体性の問題、つまり認識する私とは一体誰か、どのようにして私が意識されるようになるのか、また自意識を構成するものは何かという、およそ日常性の中では問われない問題を提起したのが宗教であった。この私の理解をめぐって、宗教は単に倫理の問題になり下がったりもするのである(事実そうなっているのであるが)。
《引用終り》

アウグスチヌス聖ヨハネの観想の説明と合せて読み比べたいところです。

聖なるものを俗界に留まらせるための努力というか執着が、宗教を変質させ、別なものになってしまうことは前回と重なります。「死んで仏になる」という誤解と比べるのも面白いかと思います。

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