トトガノート

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キリスト教

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第九章 ロンチェンパ」(p175〜196)を読みました。

今回は、「法性のバルド」と言われるチョエニ・バルドについて。

《以下引用(p183)》
�ゥ船腑┘法Ε丱襯匹呂△覆燭凌粥憤媽�身)が造り出す微妙な色彩と光に充ちたイマージュの世界であり、神話や宗教的象徴が生まれてくる領域でもある。『死者の書』では、寂静尊(シ)と忿怒尊(ト)の顕現として描かれている。寂静尊はダルマ・カーヤ(法身)が空の世界から形をとって現れてきたものだが、それを同じ空を本性とするあなたの心が投影した幻影であると悟ることができたら、あなたはサンボガ・カーヤ(報身)を得て仏になる。しかしそれができなければ、今度はサンボガ・カーヤが忿怒尊に姿を変え、あなたの前に現れてくるだろうが、それもまた恐れることなくあなた自身の姿にほかならないと悟るべきである。�ゥ船腑┘法Ε丱襯匹妨修譴討�る怒りの神々(忿怒尊)に限らず柔和の神々(寂静尊)もまた輪廻するあなたの心が投影した幻影に他ならないと知ることが大切なのだ。見るものと見られるものが同じあなたの意識の現れであり働きだと知れば、あなたの身体(意成身)はこれらの神々とひとつに溶け合い、たちどころに悟りに至る。とはいうものの、それは生前の越し方(修行)と密接に関係しているのであって、多くの場合望むべくもない。機根つたなく、「五日と半日の間あなたは無意識の状態にある」。そして次に目覚めるとあなたは業(カルマ)が巻き起こす幻覚に駆り立てられ最後の�Ε轡弌Ε丱襯匹悗搬狹召靴討罎�。
《引用終わり》

意成身は微細身と同じなようで、ルーミーの章の描写と比べてみると分かりやすいかと思います。

法身と報身について水野弘元氏は「仏陀には、仏陀の本質としての原理的仏陀の面(法身)と、修養努力によって完全の域に達した理想的仏陀の面(報身)…」という説明をされていました。例として、毘盧舎那仏(大日如来)は法身であり、阿弥陀仏は報身ということでした。『死者の書』での用法と若干違うような気もします。

次回は��再生のバルド。

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今回は、「死の瞬間のバルド」と言われるチカエ・バルドについて。遺された人たちは「お葬式は急に来るから大変だ」などと失礼なことを言いますが、本人の動揺・恐怖・混乱はそんなものではありません。「死」に進むことを恐れ、消えつつある「自分」にしがみつこうとする…

その様子は、例えば「十字架の聖ヨハネ」の章に書いてありました。

《以下引用(p183)》
輪廻する人間の果敢なさ、空しさの根本原因が自己の真偽さえ明らかにできない無知(無意識)に起因していることに気づいている人は本当に少ない。「4日と半日の間あなたは無意識の状態にある」。そして目覚めてみるとそこがどこなのか、自分に何が起こったのか、死んだはずの自分がまだいる。もちろんこの時、生前の肉体(粗大身)はないが、心からなる意成身(微細身)は存続している。この場合の死は『死者の書』が目指していた�ぅ船�エ・バルドにおける悟りとはならず、ということはカーラチャクラ・タントラもいうように、誰もが死の瞬間に真の光明(オーセル)を体験しているわけではなく、肉体と魂(意成身)が分離したまでのこと。このような分離の体験ならこの地上においてもないわけではないが、�ぅ船�エ・バルドを経て肉体と魂が決定的に乖離すると、われわれがこれまで一度も経験したことのない異形の世界が現れてくる。よくも悪くもかつての自分は生きのび�ニ\�のバルドへと入っていくのだ。
《引用終わり》

「よくも悪くも」とあるように望ましくない展開なのでしょうが、次回は�ニ\�のバルド。

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以前もバルドについての内容がありましたが、今回はさらに詳しいです。

《以下引用(p181)》
輪廻転生の思想を簡単に言えば、われわれの生が単なる肉体の生命に限られるのではなく、死後最長でも49日の間、バルド(中有)をさ迷い、再び生まれるということだ。『チベット死者の書』はわれわれが辿るバルド(bar-do)には六種類の状態があるという。
�〆�生のバルド(キエネ・バルド)
�¬瓦離丱襯鼻淵潺薀燹Ε丱襯鼻�
�b堊曚離丱襯鼻淵汽爛謄鵝Ε丱襯鼻�
�せ爐僚峇屬離丱襯鼻淵船�エ・バルド)
�ニ\�のバルド(チョエニ・バルド)
��再生のバルド(シパ・バルド)
この中で『死者の書』は�せ爐僚峇屬離丱襯匹�ら�イ魴个騰�再生のバルドにある者に聞(トエ)による解脱を説く、文字通り死者のための書なのである。
《引用終わり》

おおまかな流れは…

《以下引用(p182)》
無明の闇を突き破って死の光明(オーセル)があなたの内なる実存を照らし出すとき、一瞬にして生の源泉は開示され、あなたの意識は色もなければ形もない空性の大楽に包まれる。この意識の根源的な状態は始めもなければ終わりもない永遠の光であり、仏性に他ならない。そして仏性とはあなたの本性であり、もしあなたがそれを悟ることができたら、あなたは不生のダルマ・カーヤ(法身)を得て仏になる。そしてそれ以後バルドはもちろんのこと、空しく輪廻(サンサーラ)の世界をさ迷うことなく涅槃(ニルヴァーナ)の世界に入る。そしてわれわれが生と呼んでいたものがこの永遠なる生の上に浮び上がった幻影に過ぎなかったと知るであろう。ゾクチェンは輪廻(サンサーラ)の根源(kun-gzhi)と涅槃(ニルヴァーナ)の根源(dharmakaya)を区別しながら、われわれを完全な悟りを意味するダルマ・カーヤ(真理の身体)へと誘うのだ。
《引用終わり》

興味深いところなので、詳しく見ていきたいと思います。

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《以下引用(p179)》
さて心は何に触れてもそれなりに反応し、言語化されて思考となる。われわれに様々な問題を投げかけてきたのもこの思考である。曰く、私は幸福にならねば、私はまだしにたくない……と、いろいろ手を尽すが、その背後には焦燥感にも似た思考が働き、われわれを行為へと駆り立てる。…

…思考はわれわれの過去の経験や知識が新しい状況と反応して構想された未来と言えるだろう。…思考は、…各人の過去の記憶(情報)に制約され、われわれはさして新しくもない経験を繰り返すことになる。また記憶は今生における経験や知識にかぎられるのではなく、数限りない生死を繰り返してきた太古にまで遡ることができるだろう。そして個人的なものから集合的なものまであらゆる記憶を内蔵している心があなたなのだ。一方、肉体もまたそれ自身の中に宇宙創造にまで遡る記憶(情報)をたずさえ、生物的(本能的)、知的な進化のプロセス全体を内蔵している。われわれ人間は心理的にも肉体的にも連綿と続く記憶の影響を強くうけ、制限されているのだ。このように記憶によって条件づけられた心、あるいは肉体をわれわれは自分と見なしているのである。
《引用終わり》

肉体の情報(DNA)に関しては、私も考えたことがあります。

《以下引用(p180)》
肉体的、心理的にプログラムされた人間は、つづまるところ記憶が新しい情報と反応し、シミュレートしたものを、それを思考(願望)というのだが、追体験しているだけということになる。創造性豊かとみられる新奇な事柄も、すべては過去の経験や知識に基づく修正に過ぎないのではということだ。事実われわれの思考の形式は変ってきたけれども、その内容に至ってはいつの時代も同じであり、たとえ新しい肉体をまとおうとも本質的にわれわれは同じことを繰り返している。…繰り返しプログラムされるうちに思考は習性(ヴァーサナ)をおび、知覚を通して入ってくる一定の情報に機械的に反応するようになる。つまり生物的、感情的、知的にプログラムされ、条件づけられた人間は自我の狭苦しい殻の中で同じ思考と行動パターンを繰り返す「籠の鳥」であるということだ。もっとも極めてソフィスティケイトされてはいるが……。
《引用終わり》

DNAについては解析がかなり進んでいます。世代を重ねる中で、個々の情報は個人的なものでもあり集合的なものでもあり、個体に対しては制約を与えるものであり、新しい情報と出会っては反応を繰り返し…上の文章の内容がそのまま当てはまるように思います。

肉体だけでなく心の次元においても同様のことが当てはまると考えてはいけないという理由は無いように思います。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第九章 ロンチェンパ」(p175〜196)を読みました。

《以下引用(p178)》
ゾクチェンは何よりも時空を越えて遍在する生の源泉、あるいは原初(gzhi)を教義の中心にすえている。それは誰もが生まれながらに具えている本性であり、それを悟るとき大いなる完成(ゾクチェン)があるという。が、その始まりを知ることは誰にもできない。というのもそれには始まりがないからだ。…そしてゾクチェンはこの原初へとあなたを連れ戻そうとする。…あなたがもと来たところへ再び立ち帰ることが生の目標といえば言える。というのも普通目標と言われるものはすべてあなたを原初から遠ざける。目標は常に未来にあるからだ。
《引用終わり》

私たちは何かを成し遂げようとすればするほど、根源的な生の目標から遠ざかる…だから、何も達成しなくていいし、達成しても空しくなるということでしょう。

《以下引用(p178)》
では原初とその間の違いをどう理解すればよいのか。原初は失われてはいないけれども現在せれは自覚されていない。…今もそれはあなたの根底にあるが、その経験は失われている。…(これを理解するには)目覚めている自分と夢を見ている自分を考えてみるのがいいだろう。
《引用終わり》

これは胡蝶の夢のような話。

《以下引用(p178)》
あなたは眠りにつくとありもしない夢を見始める。するとそこにもうひとりの自分がいる。夢の中に現れた自分が夢に一喜一憂している状況を想像してもらえばよい。夢を見ている最中にはこの自分しかいない。目覚めた状態にある自分のことなどすっかり忘れている。そして目覚めない限りあなたは夢の自分とかかわり、それを自分だと信じて疑わないであろう。これと同じようなことがあなた自身にも起こった。つまり原初とその間に形而上的眠りがあった。不覚にも眠りこけたために原初の経験は失われ、代わって心が造り出す様々な夢(欲望)を追い求める自分がそこにいると考える。この我ありとする迷妄が根本的な無明(ma-rig-pa)と言われるものだ。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第九章 ロンチェンパ」(p175〜196)を読みました。

《以下引用(p176)》
チベット密教ニンマ派(古派)に伝承されてきたゾクチェン(大いなる完成)は、他でもないあるがままのあなたを指す言葉なのだ。その意味をニンマ派を代表する思想家ロンチェンパ(1308-1363)を引合いになぞろうとするのだが、今回もまた言わずもがなの繰り言になるだろう。なぜといってあるがまま(ji bzhin nyid)を言い表す言葉などあろうはずがないではないか……。
《引用終わり》

愚痴ってるようなとこ、いいですね(笑)

さて、以下は「自分」という心の構造…

《以下引用(p176)》
われわれは常に自分を中心に事を計る。まるで自分なくして何事も始まらないかのようだ。しかし行為の中心にある自分がどこから生じて来たかを問う人は少ない。自分とは自ら分かれるという意味だ。では分かれて来たのはどこであろうか。それはあなたの真の本性、あるいは原初(gzhi)から離れたのだ。その結果として主客分裂する心(分別心)などというものを持つようになった。そしてその心を自分だというふうに考える。つまり、自分とは心が造り出すさまざまな観念(蘊)の巣窟に過ぎない。
《引用終わり》

以下は、夢の構造…

《以下引用(p176)》
ここから奇妙な、というよりも、自分の心に浮かんだ欲望や夢の実現に向けて努力する人間という構図ができる。しかし心を離れて自分がないのであれば、あなたは自分の影を捕らえようとして走り始めたのではないか。つまりあなたは自分が投影したものを自分で追いかける独り隠れん坊をしているのだ。このように心は経験するもの(主)と経験されるもの(客)に分れ、堂々巡りをしているのに、あなたはそのまやかしに気づいていない。
《引用終わり》

この文章を読んだら、高崎直道先生の唯識の説明を思い出しました。

夢を持ち、それに向かって邁進し、達成に歓喜する…これこそが生きる意味だ!という捉え方が一般的だと思うし、この捉え方をやめようとしてもなかなかやめられません。そういう捉え方に基づいたプラス思考・ポジティブシンキングを唱えるメッセージが巷に氾濫しています。

《以下引用(p177)》
どんな成功も失敗と同じようにあるがままのあなたの本質に何かを付け加えることもなければ奪うこともない。…どんな夢もひとたびかなえられると空しく思えてくるのも、求めるものと求められるものが同じ心の仮構した観念であり、それらが堂々巡りをしているだけで、あなたをどこへも連れて行きはしないからだ。そういう意味において達成とか成就という観念は極めて疑しい。とはいっても人はあるべき自分の姿を求めて夢を追い続けるであろう。とにかく現在の自分に満足などしておれないからだ。
《引用終わり》

本当は、何を達成する必要もないのに…。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第八章 シャンカラ」(p153〜174)を読みました。

これまでにも何度となく悟りへの過程を描いた文章を見てきましたが、今回はアートマンとブラフマンが出てきます。

《以下引用(p169)》
さて、覚醒のプロセスの中で確かにあなたは自分自身を失うことになるが、それは偽りの「私」であって、真我まで失うのではない。偽りとは、「私」はどんな夢(マーヤ)でも見るということだ。そして生死もまたあなたが見る夢の一つに過ぎない。…

因に、見ていたのは生死の夢だけだろうか。あなたは人間という夢をも見ているのではないだろうか。私は人間であるという夢。だが、人間であるあなたが、人間の夢を見るとは考えられない。ではあなたの夢を見ているのは一体誰であろうか。端なくもこんな疑問が脳裏をかすめるが、結論からいうと、究極の実在であるブラフマン(Brahman)があなたの夢を見ている。というよりは、あなたは夢を見ているブラフマンであるということだ。無限の多様性を見せる夢は、ことごとくブラフマンの宇宙的戯れ(コスミックリーラ)であり、人間もその一つなのだ。「私はあらゆるものを現象せしめているそれなのだ」。
《引用終わり》

これが無我の体験…。

《以下引用(p171)》
無我の体験なくして真の自己認識(Atmabodha)はない。アートマン=ブラフマンとなって初めて、あなたは自分がこれまで「私」と呼びならわしてきたものが何の実体もない、単なる言葉の綾であり、思考や感情が造り上げた虚構であったと知るのだ。…ともあれ、無我の体験は、一方では自己喪失の体験であり、あなたがアートマン=ブラフマンに至るために通過しなければならない試練なのだ。その意味は、広漠たる空(無)の中へと自分自身を解き放つことを許さないあなたがいる。生か死か、最後の命運をかけた自我のあがきがそこにある。…

無明長夜の夢を見続けるか、それを終わらせるかはあなた次第である。
《引用終わり》

「梵」=マクロコスモス、「我」=ミクロコスモスという表現もありました。前者(ブラフマン)と後者(アートマン)が一つとなる「梵我一如」の境地を目指し、仏教以前からインドでは修行が行われていました。

高崎直道氏の文章がうまくまとまっておりますので、再度引用したいと思います。
《「仏教入門」より引用》
仏教の特質をひとことでいえば、真理と一つになる、絶対との合一ということを目標とする点にあると言えよう。…絶対者との合一を目標とする思想はひろく神秘主義(mysticism)とよばれる。神秘主義はキリスト教やイスラム教の一部にもあるが、主流とはいえない。それに対しインドではヒンドゥー教も「梵我一如」の教えに見られるように絶対者との合一を説く。仏教はむしろ、このインド的伝統に根ざすものと言うべきだろう。なお、わが国の宗教的伝統も神人合一というか、神人未分というべき思想が強い。宗教学の姉崎正治はこの伝統を「神人合一教」と名づけ、キリスト教などの「神人隔絶教」から区別した。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第八章 シャンカラ」(p153〜174)を読みました。

本当は存在しないはずの「自我」。これを断捨離する。

《以下引用(p166)》
まず、実際に存在しないものをどうやって捨てるというのか。また、それでは自我を捨てましょうと、これ努めるのも同じ自我であってみれば、益々自我は肥大化してゆくばかりであろう。しかしこの不可能に道を開いたのが宗教であった。自我を放棄する直接の方法はない。如何なる努力も自我にエネルギーを注ぐことになるからだ。そこで不二一元論の哲学は、否定の道(Via Negativa)をとる。「私は誰か」と問いながら、Neti(私はこれではない)、Neti(私はこれではない)と外側(肉体)から、内側(心)へと否定を重ねてゆくのだ。…

ともあれ肉体でも心でもなければ、一体「私」は何であろうと、更に問うていくのだ。すると「私」という想念が立ち昇る意識の深層に到達する。それはあなたの経験や知識からなる記憶の貯蔵庫であり、進化のプロセス全体を含む集合意識である。この無意識の浄化と超越の中で、やがて「私」という意識(自我)が消え去る瞬間が訪れる。そこは多くの神秘家が表現の形式は様々であるが無(空)と呼んだものであり、そこではあなたの自我は自然に消え去る。
《引用終わり》

「空」の理論が否定的であることは、以前も「龍樹」のところで出てきました。

否定して、「私」という塵をふり払っていく…

《以下引用(p167)》
さて、真我の復活といっても、新しい何かになるのではなく、あなたの本性へ回帰したまでのこと。これはよく理解されねばならない。真我はあなたが達成したり、獲得するといった性質のものではなく、あなたの既得権であり、転生するあなたとは何の関係もない。…

宗教とは奇妙な要請である。あなたが達成(探求)しようとしているものと、すでに達成されているものを区別し、無達成の達成を説くのであるから。

あなたは何を達成する必要もない。あなた自身であればよいのだ。
《引用終わり》

この延々とつづく否定の旅は、「何を達成する必要もない。あなた自身であればよいのだ。」という大きな肯定へと、最終的には行き着く。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第八章 シャンカラ」(p153〜174)を読みました。

可藤さんの神に関する考え方は以前にも記述がありましたが、今回の内容は私が以前「祈り」に関して抱いた疑問にはっきりと答えた形になっているので、引用します。

《以下引用(p165)》
神に祈るとはどういうことか、よく考えてみる必要がある。あなたが神に祈る幸福(平和)が、あなたの夢に過ぎないとしたら、それに応える神など存在するだろうか。一体この世は夢から成り立っている。そんな果敢なくも消えゆくものに神は何のかかわりもない。あなたの願望や期待にそう神などいやしない。それなのに人は神(宗教)は、この現実に対して無力であり、何の意味もないなどという。この世界を何処かで支配し、時には愛の手を差し伸べてくれる神などいない。むしろ手を出し、口を挟むことによって益々混乱を来しているのはあなた自身なのだ。祈りが空しいのではない、あなたの夢(願望)が虚しい幻想なのだ。ある意味で、あなたは祈ることなどできない。どんな祈りもあなたの願望の反映であり、さらに幻影を造り出すことになるからだ。それはまた、夢がかなえられるかどうかという問題でもない。すべての夢から目覚め、一元性の世界へと帰りゆく。これこそあなたにかけられた神の唯一の祈りなのだ。
《以下終わり》

神聖であるはずの神に、俗っぽい願い事を頼み、これまた世俗の象徴たる金を積むなんて・・・どういう神経をしてるんだ?と疑問に思うのですが、これが何百年と続く世俗の習慣なわけです。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第八章 シャンカラ」(p153〜174)を読みました。

シャンカラの名前も今まで何度もお目にかかったような気がするのですが、残念ながらブログ内検索では検出されませんでした。

シャンカラは、686(?)年、南インドのバラモンの家系に生まれ、33年という短い生涯ながら、不二一元論(アドヴァイタの哲学)の理論大成者として、今日まで多大の影響を及ぼしている…と紹介されています。

《以下引用(p157)》
シャンカラの哲学は、生(主客分裂以後の生)を深い眠り(susupta)、夢見(svapna)、目覚め(jagarita)の三つの状態に分ける。深い眠りの中では「私」はいないが、夢と目覚めの中では「私」が現われてくる。…

三つの状態は、意識の相違としても理解することができる。それを便宜的に、無意識、潜在意識、(現象)意識というように区別してみよう。…

夢の世界は潜在意識の「私」が見ている世界であり、目覚めた「私」の意識が見ているのが現実といわれるこの世界なのだ。いずれの場合も、「私」が立ち現われると世界もそこにある。しかも意識の相違から、世界も異なる様相をとって現われてくる。ただ深い眠りの中では「私」が殆ど意識されていないために世界もまた現われてこない。その場合でも、過去から現在に至るまでの経験や知識の巣窟である意識の連続体(集合無意識)は、進化のプロセス全体を包みながらそこにあると考えるわけだ。

次に、意識と身体の関係はというと、経験からも分かるように、あなたは身体を夢と目覚めの中で自覚することになる。…夢の中では、単なるイメージにすぎない形姿(subtle body)を自分と考え、目覚めの中では、言うまでもなく肉体(gross body)を自分とみなすという違いがあるだけ。もし「私」という意識がなければ、身体も自覚されない。だから無意識の深い眠りの中では身体もまた現われてこないのだ。だからといって全くないとは言えない。なぜなら粗大身と微細身がそこから現われてくる原因になっているからだ(causal body)。

要するに身体は「私」という意識に伴って現われてくる。ところで「私」という観念が生じてくる根底には集合意識があるとしたのであるから、この無意識が存続する限り、繰り返し「私」は立ち現れ、それに伴って身体や世界も様々な形をとって現われてくることになる。

この連続体こそ、あなたの過去のすべての経験や知識を蔵し、つまり記憶の貯蔵庫として、現在から永劫の未来へとあなたを駆り立ててゆく根本原因なのだ。勿論、肉体はいつか朽ち果てるであろうが、この連続体まで終ってしまうのではない。
《以下終わり》

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