トトガノート

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キリスト教

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「総序」を読みました。

「瞑想の心理学」で述べられていたようなことが多く書かれています。時間に関する件が興味をひきました。

《以下引用》
…われわれが求める究極の真理は時間の中にはない。ということは、時間の中を動いている思考の中にもないということだ。真理はあなたの内なる実存に「本有の真源」としてある。それはかつて在ったし、今も在り、永遠に在り続けるものなのだ。従って真理は、今ここであなた自身が探りをいれるかどうかの問題であって、思考や努力によっていつか実現されるような性質のものでは決してない。もしそうなら永遠の真理が未来に存在するという不合理が生じてくるだろう。…
《引用終わり》

「永遠の真理」なんですから時間に依存するのは確かにおかしい。

《以下引用》
…真源は始まりもなければ終わりもない永遠であるが、あなたが「我在り」と自らを意識したとき、あなたの始まりは真源であり、終わりもまた真源になるということだ。なぜなら真源からさ迷い出たあなたはいつか真源へと帰る(還る)旅を始めることになるからだ。『十牛図』のプロセスの中に「返本還源」が組み込まれているのもそのためだ。…
《引用終わり》

例えば海面に発生した波。これを波動関数として表現することは可能でしょう。当然、時間tというパラメータを含む関数になります。時間tを代入しないと変位xは決まらないという見方をすれば、波はtに依存しています。逆に、時間tが何であってもこの関数は成り立つという見方をすれば、波はtに依存しているとは必ずしも言えなくなります(数学的には依存すると言うのが正しいのだろうが)。

「我在り」の瞬間に時間tが始まるとしても、時間tは我々が通常考えているような振る舞いをしない。ずーっと一定の速さで一定の方向に流れているのではない。悟りに近づくプロセスならば尚更…。

『十牛図』も階梯とはいえ、ただ順番通り見るだけでいいものではないかもしれません。向上門を描いた曼荼羅も向下門として逆に辿る見方がありました。

《つづく》
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悟りへの道 に参加中!
「自己認識への道」(法蔵館)
「プロローグ」を読みました。

デルポイの神殿に掲げられた「汝、自らを知れ」が、この本のテーマです。同著者による「瞑想の心理学」では大乗起信論から、その問いへアプローチしていました

この本では、「廓庵の十牛図」と「トマスの福音書」を手掛かりとして、つまり禅とキリスト教の立場から、この問いにアプローチしていくようです。

《以下引用》
…宗教は、ともすれば絶対者(神、仏)の信仰であるかのごとく思われてきた。確かに宗教が信仰で始まるという側面を持っていることは否めない事実であるが、アウグスチヌスも「信仰で始まり、見ることによって完成する」と言ったように、本来宗教は如何にして真理に目覚めるかということを主眼としている。

しかし、何が今のわれわれをして直ちに真理を目睹することを許さないのであろうか。それは真理を求めているわれわれ自身の無知(仏教はそれを「無明」と言う)に原因がある。もちろん、自己を知らなくとも、学問がそうであるように、真理の探求ということはあり得る。しかし、それは宗教がいう真理(真の知識)ではない。後者の場合、その無知ゆえに真理は見えていないという性質のものであり、自らの足元を照らす灯明が消えているために、本当に求むべきものの見分けもつかないまま、手探りで闇の中を探しているようなものなのだ。…
《引用終わり》

学問的な探求、特に科学的な探求がわれわれの中に浸透していくにつれて、宗教的なそれは排除されていったような気がします。それが現代の書物の内容が薄っぺらな感じがする原因だと、私は思っています。「私とは誰か」というような、素朴にして究極的な探求を忌み嫌い、「宗教」と聞いただけで毛嫌いしているが故に、かえって妖しげな新興宗教に対して鼻が利かず、装った仮面を見抜くことができなくなっているということはないでしょうか。

そんな仮面を見破り、巧みな布教を論破するためにも、素朴にして究極的な思索は必要だとは思いますが、それが第一目的ではもちろんありません。

私たちは、毎日、とっても忙しいです。愛する家族の顔をよくみる暇もないほどに忙しく働いている方々はたくさんいると思います。どうして、こんなに忙しくする必要があるのか。素朴にして究極的な疑問を避けて、私たちは、いつまで頑張れるのでしょうか?

科学の中でさえも、私たちは究極的な疑問を避けているように思います。例えば、二酸化炭素の増加を抑えるために電気自動車を開発しているけれども、発電は原子力に頼ることを一向に変えようとしません。二酸化炭素よりも劣化ウランの方がクリーンなのでしょうか?

ひとつ嘘をつくと、嘘の上塗りを繰り返さなければならなくなるように、ひとつの本質から目を背けているが故に、いくつもの本質に目をつぶらざるを得ない状況に追い込まれているような気がします。

ここは逃げないで、「自分」という問題に取り組んでみましょう。

《続きを読む》
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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第四章 釈尊、仏教」の前半を読みました。

まず、脳科学についての指摘。

《以下引用》…
脳科学は、様々な領域で科学理論が成立していく、その成立機構を解明するにすぎない。脳科学自身が主役となって、そこにすべての科学理論が収束するなどということはあり得ない。科学というものは、あくまで外界からの情報が材料となって作られるものであるから、それと無関係に脳が勝手に科学的世界を構築できるはずなどないのである。
最近は脳科学が過大評価されて、「すべての科学理論は、社会状況に応じて脳が作り上げる仮想の体系だ」と主張する人たちもいるが、それは違う。外界からの情報は確実な実在であり、それをもとに、脳が人間独自の解釈法で作り上げるのが科学理論なのである。
…《引用終わり》


私は外界の存在に懐疑的な気持ちも少しあります。が、外界くらいは実在と認めなければ科学自体がナンセンスなものになりますね…。「脳」は体の一器官に過ぎませんし、人体の中には潜在的(automatically)に動いている部分がたくさんある。「腸」は自律神経の支配も受けますが、結構独立した存在らしい。『腸は考える』(藤田恒夫著・岩波新書)という本があるくらいだから、「腸科学」というのがあってもいい(笑)。

《以下引用》…
仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい。科学の人間化を一本のベクトルとした場合、出発点にはキリスト教をはじめとした一神教世界があり、反対側の到着点に仏教がある。もちろん科学が最終的に仏教になるなどと言うのではない。両者はそもそも求める目的が違う。しかし、その目的を求めて我々が活動する、その活動の場が、仏教と科学では同次元なのである。
…《引用終わり》


この指摘は面白いですね。理学部に仏教学科があってもいいかもしれない…

《以下引用》…
仏教とは、そういう言葉のパレードをことごとく許容してしまう恐るべき寛容さ、もっと率直に言えば恐るべきいい加減さを含んだ宗教である。…「こだわらないこと」が仏教なら、仏教徒は脳天気な阿呆の集団になってしまうではないか。
まず大切なのは、仏教のそういったいい加減さというものは、仏教が本来持っていた特性ではないということを認識することである。…
ではなぜ、本来は「ある特定の教義を主張する一個の宗教」だったはずの仏教が、今のような「なんでもあり」の宗教になったのか。それは、そうならざるを得なかった歴史があるのである。
…《引用終わり》


確かに、矛盾する言葉をくっ付けて文を作ると、仏教的に聞こえます。

《以下引用》…
仏教という宗教は、二千五百年間にわたって東アジア全域で展開してきた宗教運動であるが、それは多様化の歴史でもあった。その中にはおよそありとあらゆる形の思想、アイデアが含まれている。
どんなことでもよいから好きな思想やアイデアをひとつ挙げてみてほしい。それと似たものは必ず仏教の中に見つかる。…華厳経フラクタルを見たり、法華経量子論をくっつけたり、宇宙論にマンダラを持ち込んできてもなんの意味もない。面白いかもしれないが、そこから何が生まれるわけでもない。ただの思考のお遊びにすぎない。むしろ驚くべきことは、なんでも見つかるその仏教の幅の広さである。これは…仏教が常に分化分裂を続けた結果、きわめて多様な形態を含み込んだ複合的宗教になったことが原因である。
…《引用終わり》


その多様さは、思想的な部分だけにとどまりませんね…

《以下引用》…
その多様な仏教のそれぞれの要素は、長い時間を経て生まれてきたものであるから、それぞれが独自の歴史的背景を持っている。…
たとえば釈尊時代の仏教の要素と後期密教時代の教義は、千年近くのずれがある。それをひとつにまとめて考えても実際は意味がない。ありもしない架空の仏教を想定することになるし、下手をすればとんでもない邪説を生み出してしまうことにもなる。
…《引用終わり》


イギリスによるインド植民地政策の話もとても面白いのですが、ここではパスします。

《つづく》
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