トトガノート

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Tag:キリスト教

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

般若心経のマントラ(真言)に関しては以前にも取り上げました。その時の解説と比較してみて下さい。

《以下引用(p265)》
私はここに空海の思想のエッセンスが纏められているように思う。彼の多くの著作はこの詩頌の脚注と見ることができる。

…どんな人も真の安らぎの場を求めているのであろうが、ここ(三界)は客舎であって、あなたがいつまでも留まるべき本当の場所ではない。旅の途次、家を構える人などいないであろうが、われわれがしていることはそれと変わらないのだ。そして、何度も試みては、壊れていった。その哀しみをわれわれは幾度も経験している。われわれ自身がどこにも身体を休めることができず、生死去来しているまろうどであるとも知らず、客舎を飾って、どれだけ長く留まれるものであろうか。そう、われわれ人間は心の内側に帰るべき永遠の故郷があることをすっかり忘れているのだ。「久しく方(みち)を還源(げんげん)に迷うて、長く境を帰舎に酔えり(空海『性霊集』巻第七)」。

そこはわれわれが現れ出てきた本源(原初)であるが故に帰るべき故郷なのだ。初めに原初があり、終りに原初がある。人間は二つの原初(gzhi)の間で悲喜こもごも生死の夢を見ているのだ。

心の本源(一心)は、もとより静寂で、至福と安らぎに充ちている。何ら欠けるものはない(円寂)。いつも変わらずそうなのだ。ところが、あなたは本源に背き、末節に向かうが故に生死の苦海に自ら身を淪め、遠き異郷の地をさ迷い始めたのだ。そして、あなたがこの地上で捨身しなかったところを探し出すのは難しい。これ以上どこへ行くことも、また何をする必要もない。ただ、あなたは自分の内側へと深く、より深くへと入り(行行)、自分も世界もすべてが銷殞する(去去)、原初へと辿り着けさえすればよいのだ。そこがあなたの永遠の故郷であり、真に安らぐ涅槃の都(本居)であるからだ。…

…「衆生は狂迷して本宅を知らず、三趣に沈淪し四生に趻跰す。苦源を知らざれば還本に心なし(空海『十住心論』第一異生羝羊心)」。…

さらに空海は「末を摂して本に帰すれば、一心を本となす。一心の性、仏と異なることなし(空海『遺誡』)」と言う。彼は心の本源(一心)が仏であると言うのだ。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p262)》
…主客の実在論的二元論の構造が根底から崩れ、あらゆるものが銷殞するとき、初めて真理の一瞥が可能になるということだ。これを「人と法との二種において無我になることを知るを謂う。能取と所取とに体有ること無きを知るに由るが故なり」。(無著『大乗荘厳経論(随修品)』)
《引用終わり》

「銷殞」という言葉、好きです。p258にも出てきましたが、『十牛図』の説明でも出てきました。

《以下引用(p262)》
この場合の真理はその都度、単独者の主体的な体験として、各々が自ら獲得しなければならないものである。宗教が組織や団体になると形骸化が避けられないのも、宗教的真理のこの特異性にある。宗教が単独者の主体の問題であるといわれて、それに耐えられる人は多くないからである。
《引用終わり》

宗教の問題点ですね。これについては5章でも触れられていました。8章では、聖職者が凡夫の俗っぽい祈りを導いているおかしさが指摘されていました

《以下引用(p262)》
主客の実在論が捉えるいわゆる科学(客観)的真理と宗教(主体)的真理の違いは今述べた認識の形式にある。私が学問とはひとつの仮説に過ぎないというのも、観察するものと観察されるものがいずれも空から生じた仮有であり、主客の妄執が構築した理論(もの)であって、それには終るということがあるからだ。もっとも共同幻想の世界に生きる限り、その仮説にも意味はあろうが……。
《引用終わり》

これは科学(学問)の問題点ですね。学問と宗教の違いについて、もう少し詳しく書いているのがこちらです。

《以下引用(p262)》
このように摂末帰本の道を辿り、見るもの(人我)と見られるもの(法我)が消え去るところを空という。そして空の体験なくして真実は現われてこない。それは見ているあなたが消えて初めて起こり得ることなのだ。だから空海は「人我の空を解(さと)らずして、何ぞ法空の理を覚らん。この故に生死に流転して涅槃を得ず」(『十住心論』「第四唯蘊無我心」)と言うのだ。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p260)》
間違ってはならないのは、虚妄なる世界にわれわれが迷い込んだのではない。本源を運んで「三界を画作」しているのはあなた自身なのだ。もしそのように考えるなら世界(世間)を超える(超過三界道)という宗教的要諦が、この世界を離れたどこかに真実の世界を探し求めるというとんでもない間違いを犯すことになる。虚妄の世界と真実の世界が二つ存在しているのではない。本源に徹し、覚ることができれば虚妄は真実ともなる。「是の如く真諦(真実)と俗諦(虚妄)は但だ二義のみ有って二体あることなし」。法蔵『華厳五教章』(「所詮差別」)より
《引用終わり》

このことは今までにもいろいろ出てきましたが、5年ほど前に「龍樹」から引用している記事がありました。懐かしい…。

《以下引用(p261)》
しかし、ここに奇妙なことがある。それはあなたが自らの実存に深く入っていくと、あなたは自分が消えていくように感じるだろう(人無我)。それだけではない、あなたがこれまで見ていた世界もまた消える(法無我)。何故であろうか。それはわれわれの内なる本源が本より空(無)であるからだ。逆に言えば、あなたを含むあらゆるものが空から生じた仮有であり、実際には存在しないにもかかわらず連綿と形をとって現象してきているのだ。「空はすなわち仮有の根なり。仮有は有にあらざれども有有として森羅たり」。空海『十住心論』(「第七覚心不生心」)より
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p259)》
人間は意識・無意識を問わず共同幻想の中に生きている。そして、人の一生は問題に継ぐ問題であるように思われるが、それらはすべて冗々として事、麻の如き共同幻想の中にのみ存在するものなのだ。存在の意味を共同幻想の枠組の中でいくら考えても見い出せないだろう。考えるほど泥沼の深みに嵌るのが落ちだ。

「世間虚仮」(聖徳太子)、「三界唯心夢幻空華」(臨済)、「三界虚偽唯心所作」(馬鳴)。このように彼らはいずれも同じ世界認識に到達している。共同幻想を生きているわれわれが世界は虚妄(夢のように仮有実無であるということ)であるなどと言うはずはないし、また言えない。当然、このように見たのは共同幻想から目覚めた覚者ということになる。しかし彼らは、われわれが今見ている世界が虚妄であると言ったのであって、世界そのものが虚妄であるとは言っていない。まして世界が自ら虚妄であると言うはずもない。

「三界は自ら我れは是れ三界なりと道(い)わず」(『臨済録』)。
《引用終わり》

他にも「三界虚妄」(『華厳経』)、「三界虚偽」(『起信論』)、「三界如幻」(『楞伽経』)というのがあります。

《以下引用(p260)》
事実、覚者の目には同じ世界がことごとく真実と映っている。ただ、われわれの目にそう見えていないだけ。つまり、われわれ人間の中で奇妙な転倒が起こっているのだ。…

「誠にこれ本に背き末に向ひ、源に違して……、幻野に荒猟して帰宅に心なく、夢落に長眠す。覚悟何れの時ぞ」(空海『吽字義』)。本源に背き末節に流れるが故に、夢の如き世界(夢落)に、長き眠りをむさぼって、一向に目覚めようとしない。これが人間の偽らざる姿なのだ。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p258)》
数ある仏教の教義の中で、瞠目すべき教えは無我の思想であろう。五蘊の仮我が消えたところが無我であり、その後に現成してくるものを空海は大我(真我)と呼んだのだ。しかし、その大我にも実体はなく、あたかも雫が大海に溶け、一味となるように、あなたはどこにいるのでもないが、遍く存在して、ついに終るということがない。仮我が銷殞して無我の大我となる。これこそ空海が「我が理趣」を求めて行き着いた実践的結論であった。

人間に真我と仮我があるところから出発したが、ではその違いは一体どこから生じてくるのであろうか。結論からいうと、私の本源、それはまた全宇宙の本源でもあるのだが、それを見てとれないために(不覚)、人は妄りに生死の夢を見、自ら衆多の生を重ねることになるのだ。「世間の凡夫は諸法の本源を観ぜざるが故に、妄に生ありと見る。所以に生死の流れに随って自ら出ずること能わず」空海『吽字義』。

仮我と真我、生死と涅槃、虚妄と真実、世間と出世間、衆生と仏……これらの相違は本源(gzhi)の覚・不覚に依るのだ。しかし、あなたがいかなる状況にあろうとも、言い換えれば、覚・不覚にかかわりなく、本源を失うことはないのだが(「諸仏の真源は衆生の本有なり」廓庵『十牛図』)、その不覚ゆえに、自ら造り出した虚妄の世界(三界)に自ら淪み、妄りに生死を繰り返す。「自ら諸法の本源を運んで三界を画作して還って自らその中に没し、自心熾然にして備に諸苦を受く」空海『吽字義』。

分かるだろうか。われわれ人間が自ら泥濘に落ち込み、そこから抜け出せないブーツストラップ状態が如何に矛盾に満ちたものであるかが。われわれはこんなところで人生を語り、夢を描くが、自ら造り出した(画作)、如夢如幻の世界(三界)で、さらに夢を重ねてどうしようというのだろう。「一体この世界は幻想の上に成り立っている。それなのにこの世界を人は現実と呼ぶ。それが目に見え、直接感覚に訴えてくるからだ。そして、この世界の存在の源となる形而上的なものを幻想と呼ぶ。本当は正反対なのだ。この世界こそが夢幻である」ルーミー語録(井筒訳)。
《引用終わり》

「本当」の世界には…
すべての物があって、すべての者がいる。そして、すべての状態がある。


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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p257)》
仮我は様々な姿をとって現れ、状況が変われば如何ようにも変化する。その背後に同じ真我を宿していることを知らないで、人は敵対し、憎悪をあらわにするけれども、いずれも仮我と仮我が利害をめぐって対立し、仮想の敵に戦いを挑んでいるに過ぎない。しかし、この無知と狂気ゆえに人類は今日に至るまで、どれほど多くの血を流し、悲嘆の涙にくれたことであろう。

仮我の本源に真我(大我)があることを知らず、仮我が紡ぎ出す如夢如幻の世界で存在の不条理を託つ人間。堂々巡りをするばかりでどこに行き着くのでもない行き場のなさこそ現代人が漠然と感じている不安なのだ。

五蘊の仮和合である私が自らの業(カルマ)に随って生死海に淪んでいる。それならばと肉体を放棄して、サンサーラの悪循環から逃れ、真我に到達しようと短絡的に考えてはならない。また殆どの人の場合がこれにあたるが、単なる肉体の死が仮我を捨てて、真我に帰し、永遠の生命にあずかると考えてもならない。「人死するとき、必ず性海に帰し、大我に帰して、更に生死の輪廻なしと云うは、外道の見なり」。
《引用終わり》

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「死んで仏になる」ということを当たり前のように言い、亡くなった人はみんな仏になるようなことをお葬式の時にはお坊さんまでが言うようです。可藤さんや、他の方々が書かれた仏教書を読むと、このことがすごく引っかかるようになります。死ねば誰でも仏になれるのなら、何の努力も要らないし、仏のありがたみも皆無です。

「外道の見」とは凄まじい…でも、仏教の根本に矛盾しているのですから、全くその通りなのですが。

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《以下引用(p257)》
人は美しいものには愛情を覚え、醜いものには憎悪をいだく。しかし、無始よりこのかた六道・四生の間を往還するうちに、私たちが経験しなかったような愛と憎しみなどあるだろうか。敵と見、味方と見えたものはすべて仮我が演出した仮の姿ではなかったか。今、あなたが疎ましく思う人が、かつてあなたを慈しみ、育ててくれた両親であったかも知れないのだ。「吾、是れ無始より已来、四生六道の中に父と為り、子と為る。何れの生をか受けざらん。何れの趣にか生ぜざらん。若し慧眼を以て之を観れば、一切の衆生は皆是れ我が親なり」。
《引用終わり》

出典は『性霊集』(巻第八)。『歎異抄』にも「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」という一節があるようです。

ただ、これは「孝」が廃れてしまった現代では、疎ましく思う人が両親だったかもしれないと言われると、余計に疎ましくなったりするかもしれません(笑)。我が子だったかもしれないという方がいいかもしれません。

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《以下引用(p256)》
真我と仮我、不生不滅のあなたと生滅するあなたの違いをよく理解しておかねばならない。本来不生であるにもかかわらず、生死去来しているものがある。それを適確に表現したのはヴィマラキールティであろう。「死(没)とは虚誑(こおう)の法の敗壊の相と為す。生とは虚誑の法の相続の相と為す」※1。真実ならざるもの(仮我)だけが、生・住・滅を繰り返す。この転変極まりなきものを彼は「虚誑の法(いつわりのもの)」と呼んでいるのだ。しかし、人間はこの無常なるものの内側に決して損なわれることのない真実なるものを蔵している。いわば時間と永遠の綜合として人間は存在している。これを法蔵は不思議常という。「是れ即ち無常に異ならざるの常にして不思議常と名づく」※2。
《引用終わり》

出典は※1『維摩経』(「見阿閃仏品」)、※2法蔵『華厳五教章』(「所詮差別」)です。

ヴィマラキールティとは維摩経の主人公のようです。

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《以下引用(p255)》
如夢如幻の苦身を六道の辻に運び、輪廻しているのはこの仮我(幻我の子)なのだ。仮我ゆえに、私はどこから来て、どこへ行くのかという問いに悩まされるのであって、真我には(それを空海は「無我の大我」と呼ぶ)、そういった問いは一切ない。だからといって私は、パスカルやプランクを責めるつもりは毛頭ない。こういった問いをえ深めることもない多くの人々の中にあって、彼らの真摯な人間存在への問いかけに私は率直に敬意を表する。ただ、彼らは問題はもっと深いところにある、つまりそう問うものの真・仮(真我・仮我)にまで遡る問題であることに気づかなかっただけなのだ。私に真仮の二種があることを空海は次のように述べている。

「若し我が理趣を求めば則ち二種の我有り。一つには五蘊の仮我の理趣を求めば、則ち仮我は実体なし。実体無くんば何に由ってか得ることを覓めん。若し無我の大我を求めば、則ち遮那の三密即ち是なり……」。
《引用終わり》

出典は『性霊集』(巻第十)のようです。

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《以下引用(p255)》
 ところで、殆どの人は自分といえば身(色)と心(受・想・行・識)からなると考えているだろう。自分を身心と考え、それと同一視している限り、死んだら私はどこへ行くのだろうと、心は不安にかられ、独り死にゆく自分を哀しく思うようになるのだ。しかし、身心(五蘊)のどこに私と呼べるようなものがあるだろうか。あなたは自分自身と対峙し、しばらく観察と分析を続けるならば、私などどこにも見出せないだろう。そして、私とは心が生み出した観念であり、実体のない仮名に過ぎないと知るだろう。しかるに、われわれはそれを自分と思い、かたくななまでに自己を守ろうとする。空海はそれを「五蘊の仮我」と呼んだ
 そして、人は仮我の養いのために波々として人生を渡る。水面に浮ぶ泡沫のように生々死々を繰り返し、六道・四生の流れに随って様々な苦しみを受けてもきた。

「天獄の県に苦楽し、人畜の落(さと)に憂喜す。歎く可し、歎く可し、幻化の子……三界の業報、六道の苦身、すなわち生じ、すなわち滅して、念々不住なり、幻の如く影の如し」。
《引用終わり》

弘法大師の名文を見つけると、引用せずにはいられません。出典は『性霊集』(巻第八)、『吽字義』のようです。

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