エチカの鏡で取り上げられた英才教育、くぼた式もヨコミネ式もなかなか衝撃的でした。
英才教育って何だろう?と最近考えます。
人間の体というのは、器官によっていろいろ違いはあるでしょうが、二十歳くらいで完成するようです。「完成」というのは、体の変化を「成長」と呼ばなくなることを意味します。それ以降の体の変化は「老化」と呼ばれることになります。
それはともかく、オギャー!と言い始めた後も私たちの体はどんどん作られ続けるということです。前に人間とパソコンが似ていると書きました。でも、工場出荷(つまり出産)の後も成長を続けるところは、人間のスゴイところかもしれません。(「女のお腹を生産工場と呼ぶのか!?」という批判はご容赦ください。そしたら、人間を機械にたとえた時点でアウトですから…)
人間は、工場出荷された後でCPUを決めることができます(もちろんCPU以外の部分もですけど)。それが英才教育ということなのかな?と最近考えます。
言葉や文字を早く覚えさせれば、まだ固まっていない脳の中に専用回路が作られるでしょうから、専用プロセッサを搭載したマシンのように、言語処理は速い人になるでしょう(あくまでも可能性があるということですけど)。
音楽を覚えさせれば、音声処理のプロセッサを搭載することになりますから、3歳で絶対音感ということも有り得るようです。
運動をどんどんさせれば、運動野が発達するでしょうから、専用プロセッサを搭載したようになり、幼稚園児が跳び箱10段ということも有り得るわけです。
ただ、脳細胞という資源には限りがあるということは忘れてはいけないでしょうね。
障害を持っている人が、ある分野でずば抜けた才能を示すことがあります。読字障害だったと言われる人たちの顔ぶれを見てみると、「字を教えない方がいいんじゃないか?」という気持ちにさえなります。障害のために使われない脳細胞が別のプロセッサに化けたのでしょう。
おそらく天才を造るためには、音楽なら音楽と決めてとことんやらせることなのでしょう。そうすればモーツァルトのようになるかもしれないけれど、音楽で花が咲かなかったら絶望的。これが天才を造る英才教育の功罪でしょうね。
一般的な英才教育は、「○○ができない!」という苦労を子どもにさせたくないという親心から始まるでしょうから、ヨコミネ式などが脚光を浴びてしまいます。「一通り何でも、しかしできたら人並み以上になって欲しい…」というスタンスでは、せいぜい秀才、下手すると何でもできるけど何が得意か分からない凡人になるのかもしれません。
でも、そういう凡人が一番無難ではありますけどね。何でも頼めばすぐにやってくれる人。子供が天才になんかなったら、親の方がかえって大変かもしれません。
それなのに…
はえば立て、立てば歩め、歩めば話せ、話せば読め、読めば書け、書けば泳げ、…無限に続くのが親心です。親バカというか、ただの欲張りなんですけどね。
英才教育って何だろう?と最近考えます。
人間の体というのは、器官によっていろいろ違いはあるでしょうが、二十歳くらいで完成するようです。「完成」というのは、体の変化を「成長」と呼ばなくなることを意味します。それ以降の体の変化は「老化」と呼ばれることになります。
それはともかく、オギャー!と言い始めた後も私たちの体はどんどん作られ続けるということです。前に人間とパソコンが似ていると書きました。でも、工場出荷(つまり出産)の後も成長を続けるところは、人間のスゴイところかもしれません。(「女のお腹を生産工場と呼ぶのか!?」という批判はご容赦ください。そしたら、人間を機械にたとえた時点でアウトですから…)
人間は、工場出荷された後でCPUを決めることができます(もちろんCPU以外の部分もですけど)。それが英才教育ということなのかな?と最近考えます。
言葉や文字を早く覚えさせれば、まだ固まっていない脳の中に専用回路が作られるでしょうから、専用プロセッサを搭載したマシンのように、言語処理は速い人になるでしょう(あくまでも可能性があるということですけど)。
音楽を覚えさせれば、音声処理のプロセッサを搭載することになりますから、3歳で絶対音感ということも有り得るようです。
運動をどんどんさせれば、運動野が発達するでしょうから、専用プロセッサを搭載したようになり、幼稚園児が跳び箱10段ということも有り得るわけです。
ただ、脳細胞という資源には限りがあるということは忘れてはいけないでしょうね。
障害を持っている人が、ある分野でずば抜けた才能を示すことがあります。読字障害だったと言われる人たちの顔ぶれを見てみると、「字を教えない方がいいんじゃないか?」という気持ちにさえなります。障害のために使われない脳細胞が別のプロセッサに化けたのでしょう。
おそらく天才を造るためには、音楽なら音楽と決めてとことんやらせることなのでしょう。そうすればモーツァルトのようになるかもしれないけれど、音楽で花が咲かなかったら絶望的。これが天才を造る英才教育の功罪でしょうね。
一般的な英才教育は、「○○ができない!」という苦労を子どもにさせたくないという親心から始まるでしょうから、ヨコミネ式などが脚光を浴びてしまいます。「一通り何でも、しかしできたら人並み以上になって欲しい…」というスタンスでは、せいぜい秀才、下手すると何でもできるけど何が得意か分からない凡人になるのかもしれません。
でも、そういう凡人が一番無難ではありますけどね。何でも頼めばすぐにやってくれる人。子供が天才になんかなったら、親の方がかえって大変かもしれません。
それなのに…
はえば立て、立てば歩め、歩めば話せ、話せば読め、読めば書け、書けば泳げ、…無限に続くのが親心です。親バカというか、ただの欲張りなんですけどね。