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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「七章 心」の前半を読みました。

これまで修行の実践論が述べられましたが、その主体は何なのでしょうか?修行は自己の心を浄めることと言いながら、一方では無我を説いているのは矛盾ではないか?という問題が持ち上がります。

実践の主体を心とし、六根(眼耳鼻舌身意)の意、五蘊(色受想行識)の識が同じものとされている。即ち、心=意=識。

心は、刹那ごとに生じては滅する存在、一瞬と言えども存続しない存在(刹那滅)である。生まれてから死ぬまでの間は刹那生滅を繰り返しながら、相続(意識の流れ)し、個人存在としての連続性が成り立っている。

《以下引用》
…『般若経』は第一義、究極の立場に立ってすべてをながめるので、その間に差別を見ない。もちろん『般若心経』にあるように、「色即是空」といってすべての特殊性を否定しながらも、「空即是色」とすぐにつづけて、空性に裏づけられた個別性の世界(色・受・想・行・識)を別の立場(世俗の立場、ことばの世界、仮)から承認はしている。しかし、その諸法のうちでの心と、その他の存在、つまり主観と客観の機能的相違点については、何ら言及することがなかった。

この心ともの(対象)、主観と客観との間の機能的対立性ということに目をつけて、新しい理論構築をはじめたのが、瑜伽行派の人たちであり、その唯識説であった。それは『般若経』の立場の解明を旨としたナーガールジュナ(龍樹)とその後継者たち、すなわち中観派の人びとの主張する「空」の説を受けつぎながら、それを一歩すすめ、発展させた説であった。その学説が所依の経典として求めたのが『華厳経』十地品であり、三界唯心の教えであった。唯識説は『華厳経』の唯心説の直接の後継者なのである。…
《引用終わり》

心、アーラヤ識について
《以下引用》
…われわれの存在は、過去から未来につらなる――あるいは、未来のものが現在化して次の瞬間に過去していくという動きをつづけている――意識の流れ(心相続)にほかならない。この意識の流れには、しかしもう一つ、潜在的な、表面に現われない流れがあり、それもまた表面に現われる意識の流れに影響を与えている。そうでなければ、業のはたらきを説明できない。この業をつくるはたらき「心」の機能に求め、またそれを、潜在的な形成力(種子=行=業)をたくわえる場所(貯蔵庫)に見たてて、アーラヤ〔阿黎耶、阿頼耶〕識と名づけた(alayaは蔵とか宅と訳される)。
現在機能した心は、何らかの印象を残す。それが次の刹那の心にはたらきかけるが、同時にその一部はそのまま心に貯えられて、一定の時間をへて発現することもある。…その主客いずれの印象も、アーラヤ識としての心に印象し、それが次後の心の性格を決定し、はたらきを決定する。この印象としての側面から見たとき、このはたらきを「熏習(くんじゅう)」といい、印象を「習気(じっけ)」とよぶ。…
《引用終わり》

心の「意」の側面、マナスについて
《以下引用》
…このアーラヤ識の流れ(相続、刹那滅の継起)に対し、われわれはそれがわれわれの自我だと思っている。すなわち、アーラヤ識を「我(アートマン)」と誤認している。この誤認するはたらきもまた、主観としての意識にほかならない。しかし、機能的には明らかにアーラヤ識とは別である。そこで、このはたらき「意」manasとよんだ。これが自我意識である。…自我意識は、自己の所有(=我所、わがもの)の意識のもととなるし、それはあらゆるものを自己中心に考え、そこに執着をおこす…これを我執、我所執という。それがまた業をひきおこし、結果としての苦を生み、輪廻をひきおこす。自我意識のあるかぎり、苦の滅は望めない。そういう意味でこの「意」は、「汚れたマナス」(染汚の意)とよばれる。
《引用終わり》

心の「識」の側面、対象認識について
《以下引用》
…われわれの「こころ」は潜在意識としてのアーラヤ識(=心)と、それを我と誤認する…機能としてのマナス(意)とを背後にもったうえで、対象認識(識)の機能を営んでいる。この対象認識は、…眼・耳・鼻・舌・身・意の六識にいずれかによって行われる。この機能がいわゆる主観の機能であるが、主観は客観に応じて六種に分かれるだけで、過去した場合は、いずれも意(マナス)の名でよばれる。つまり六識の別は現在だけにかかわるのである。さらに、それは善悪などの性格づけをされるが、それはその心といっしょにはたらく「心所」の機能による。そして、背景に「アーラヤ識」と「汚れたマナス」をもっている点で、善も悪も、一様に「輪廻生存」をつづける力になっている。結局、アーラヤ識→マナス→六識という立体構造をもつ心が、輪廻生存をおこす根元とされるのである。これが、「我(アートマン)」がなくても、何がどうして輪廻するのかという課題に対する最終的解答となった。
《引用終わり》

総じてわれわれの認識にのぼらないものは無いに等しい。われわれは各自が勝手に世界を構築して、そのなかで生きている。われわれが対象としている世界はわれわれの心が仮構したものであり、真実ではない。「唯識」とは「唯だ識のみである」ということで、識は「識によって知られたもの」つまり知識内容として表象の意味である。

われわれはそのような表象の世界に実在感をもち、執着をおこしているのであって、すべて「こころ」のなせるわざである。唯識説では、われわれの認識構造そのものを誤った見方と考え、「虚妄分別」と名づけている。

これによって見られ、知られた所取(識の対象)・能取(識のはたらき)の対立の世界を、仮に構築された世界と言う意味で「遍計所執性」(へんげしょしゅうしょう)と呼ぶ。

表象としての所取・能取を現わしだす虚妄分別そのものは、過去の無明、業の力で形成されたもの、縁起したものという意味で「依他起性」(えたきしょう)と呼ぶ(他に依るというのは、現在の識が過去無限の刹那の印象を受けて、その果として生起している点をいう。アーラヤ識という不変の実体があるのではない、という意味)。

虚妄分別としてはたらき、主客の世界を現出しているアーラヤ識をおいて、ほかに悟りの当体となる心があるわけはない。アーラヤ識がアーラヤ識のままであるかぎりは悟りはないが、それが別の状態になった(転依:てんね)とき、悟りが現われ、涅槃が実現する。

それは、アーラヤ識が虚妄分別としてはたらかず、主客の対立をあらわさないときである。識は能所の対立を表すのが仕事であるから、それは「識が識でなくなるとき」である。「主客が無二」とも、「識が真如と一つになる」とも言われるが、識の機能としてみれば「無分別智がはたらく」といい、「識が智に転換する(転換得智)」ともいう。

この状態は、経典に説かれる法を知り、修行を積んだあとで達成されるので、「完成された状態」という意味で、「円成実性」(えんじょうじつしょう)と呼んでいる。

遍計所執性、依他起性、円成実性を三性と呼ぶ。これは、こころのはたらき方に応じて相互に転換するものであって、決してそれぞれが別の世界ではない。

悟りの世界では無分別智が真如と一つとなってはたらき、対象を見ないと言ったが、仏はちゃんと衆生のことを知り、思いをかけ、その救済に限りないはたらきを示す。その場合、能所の区別はあり、主客による認識構造は具わっている。これを唯識説では、「無分別智の後で得られる清浄な世間智」略して「後得智」と呼ぶ。

仏の心は能所に分かれてはたらきつつ、しかも能所を見ない。

《つづく》