トトガノート

All about TOTOGA

アンビバレント

人間はそれほど単純ではない。自分の気持ちをひとつに表せるものではない。常にアンビバレントなものだと思う。その心の多様性は、種族の保存に遺伝的多様性が寄与したのと同じ機序で、個体の保存にも寄与するんだと思う。

「日本の力を信じてる」という宣伝。ウンザリするほどよく見かけるのだが、大戦の後に復興したように何とかなるだろう(もちろん、望ましい国の形で復興するとまでは期待してないが)と思ってる擬似楽観主義者の私にとって、この宣伝はむしろ不安を煽ってるように見える。「信じてる」ってこんなに執拗に呼びかけるのは、広告主がとっても不安なのだろうなと思う。つまり心の中には悲観論が渦巻いているんだろうなと思う。

心の中に楽観がある私にしてみたら、グラついてる今が良い機会だから、もう少しグラつかせて、こんな政治でいいのか?こんな管理能力のない国民が原発なんか持っていいのか?こんなに世界に迷惑をかけて恥ずかしくないのか?ということを問いかけて、日本が更生して真っ当な国になる方向に持っていきたい。

でもそれが逆に不安を煽っているように見えるらしい。この私が、不安でアタフタしてわめき散らしているとでも言うのか?

「お前はどうしようもないバカ野郎だ!」と言われて、「この俺がどうしようもないなんてことがあるか!」と悔し涙で踏ん張って成長し、苦言を呈してくれた恩師に感謝するというような人生を送ってきた我々と、「大丈夫!大丈夫!」と褒められて育ってきた世代との違いなのかとも思う。

私のやり方はこうだ。

大丈夫な人に「大丈夫だ」なんて言わない。「お前はもっとこうしなさい!真面目にやれよ、バカ野郎!」と言う。それが、そいつを信じるということだと思う。

ダメな人に「ダメだ」なんて言わない。「大丈夫だよ。君は強い人だ。何とかなるさ。」と言う。それは、そいつを諦めるということだと思う。

それが、私なりのアンビバレントだ。

でも世の中にはいろんな人がいて、いろんな考えがなければならない。多様性の無い社会は脆弱である。アンビバレントを持たない個人も脆弱である。要は、異論を持つ人同士が敵対せずに話し合うことだと思う。それぞれの持論は主張すべきである。それが愛国というものである。

しかしながら、そろそろ私も、「大丈夫だよ。日本は強い国だ。何とかなるさ。」と言うべき段階にきたのかな、と思い始めている。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
遺伝子というか、DNAというか…

「自分」とは何か?と聞かれた時に、医学的には一番間違いのないもの。

「自分」を指し示す最も純粋な情報かもしれない。

でも、こいつらは、次の世代に乗り移ろうという時に、半分しか自己主張しない。

「自分」を半分に分けて、もうひとつの半分になった別の「自分」と組になり、新しい「自分」になる。

半分は自己主張し、半分は相手に委ねる。

「自分」を半分にしない生物たちより、「自分」を半分にする生物たちの方が、複雑な生を営み、地球上で繁栄している。

だから…ということでもないんだが…

半分は「自分」に固執するのもいいかもしれない。

でも、半分は相手にゆずるべきだ。

それが、「自分」を本当に生かす道なのかもしれない…

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
福田政権下でねじれ国会が大騒ぎされていたころ、ある論説を読んでなるほどと思いました。衆参両院が違った意見を持ってこそ両院の存在意義があるのだし、ねじれが無かったら独裁政治の危険性が出てくるわけだから、「ねじれ国会」は民主主義としては望ましい形なのではないか?という意見。

自民党内でのねじれ、政官のねじれをむしろ演出し、逆手にとって積極的に活用していった小泉さんに比べると、雲泥の差だと思います。民主党の偽メール事件があった時に永田さんがストレスを理由に国会に出てこなくなったのですが、この時に小泉さんは「この程度のストレスは、私なんか毎日ですよ」というようなことを言ったと思います。思わずテレビに向かって拍手したのを覚えています。

そもそも世の中というのは、国会に限らず、ねじれが有って当たり前なんじゃないでしょうか?むしろそれが健全な形なんじゃないかと最近思うようになりました。家庭でも同じこと、親と子の世代間のねじれ、嫁姑のねじれ、夫と妻のねじれ…その対立の中でより良い選択を模索していく。

美輪明宏さんの有名な結婚観を思い出しました。「結婚=幸せ」なんていう大嘘を周りが吹き込むから、みんな結婚して失敗したと思うのだ!昔は「結婚=不幸せ」と教えて泣きながら嫁に出したから良かったのだ!

世の中全体が、今、そうなんじゃないでしょうか?スイッチを押せば電気がつくのが当たり前という感覚で家族や仕事先の人にも接するから、ちょっとでも思い通りにいかないとストレスになる。遠足の日は天気になるのが当たり前だと思っていれば、天気にさえもストレスを感じるようになる。

いろんな意見、違った意見の並存状態・アンビバレントな状態を当たり前とする感覚を、仏教徒だった昔の日本人は持っていたのではないかと思います。そこを出発点として、どうやってうまくやっていくかが思案のしどころ。そこに人生の醍醐味がある(んじゃないだろうか)。

ところが、今の人はその出発点で諦めたり、キレたりするのが当たり前だと思っているような気がする。「ご破算で願いましては…」という、まさにこれから始めましょうという段階で本当に「ご破算」にしてしまう人が多い。

若者に限りません。安倍さんも福田さんもそうでしたから。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ambivalent…この言葉、最も好きな言葉のひとつです。宇宙の本質を言い当てているような気がするから。

光は波なのか粒子なのか…小学生の時、百科事典で調べました。どちらも本当とのこと。実験によって波の性質が観測できるものと粒子の性質が観測できるものとがある。つまり、答えは尋ね方によって違う。光とは気難しいものだなあ。

私は波なのか粒子なのか…同級生に光君がいました。私の名前にも光が付く。そして私も含めてこの世のものは全て原子という粒子でできているらしい。でも、これも実験のやり方で波の性質が出てくると習った。私も尋ね方によって、波になったり粒子になったりするらしい。そもそもそんな実験をしなくても、私は気難しいらしいが(家内談)。

おそらく、宇宙というのは何も無いのだ。有るとも無いともおぼつかない媒質くらいは有るだろう。それが振動している。振動が止まれば、私たちは宇宙ごと雲散霧消してしまう。そんな空しい存在。まして、そこに境目など無い。同じものが振動しているだけの波に境目などあるわけがない。

でも、生まれ落ちるとは境目をつけること。境目をつけることによって、自分という存在を確認できる。私たちは必死になって境目をつける。これは私、それはあなた。これは私のもの、それはあなたのもの。これは私がしたこと、それはあなたがしたこと。私たちは必死になって妄想を創り上げていく。

それは、境目のないものを区別する空しい作業。全ての苦しみはそこから生まれる。波と知りつつも、時として粒として生きなければいけない。でも、それがこの世の掟。この世に生まれ落ちるということ。

波としての自分と、粒としての自分。アンビバレントなまま、人は揺れ動く。それがこの世を生きるということ…

露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ