トトガノート

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Tag:アメリカ

仙台で見てきた話は先日書きました。その時に考えたこと…「映画を見た時との違い」そして「怒るということ」。

この映画を見たのはテレビで、確か淀川長治さんが解説していたように思います。二十年くらい前でしょうか。今、この劇を見ると、最初に浮かぶのは裁判員制度です。が、これについて再び考えるのは疲れてしまいました。それよりも、この制度に対する自分の考え方、あるいはアメリカという国に対する考え方がすっかり変わってしまったことに気づいたのでした。

二十年前(もっと前かもしれない)、私の中にはまだアメリカという国への信頼とあこがれがありました。劇中のセリフの中にも、「自由の国」とか「民主主義の国」とか「フェアネス(公正さ)を重んじる国」としてのアメリカを誇っているニュアンスが感じ取れます。それにいちいちうなづいていました。「やはりアメリカはスゴイな」と。陪審員制度なんてあるんだからな…。日本ではそんなこと何年たってもできやしないだろう…。

今、裁判員制度が導入され、賛否はどうあれ、この制度のメリットは何なのか?まだよく分かりません。日本もそういう制度を導入できるようになった(せざるを得なくなった?)けれども、それが良いこととはとても思えない自分がいます。まして、アメリカが自由で公正な民主国家だなんて…。

ただ、このお話、「怒る」ということをなかなかうまく描いています。十二人の男が、それぞれの形で怒っています。貧民階級への偏見から生じる怒り、自分と対立している息子と被告をダブらせての怒り、何で赤の他人のために相談しなくちゃいけないんだという怒り、冷静にあるいは論理的にみんなが議論しないことに対する怒り、フェアネスの国にいてフェアな裁判をしようとしない人たちへの怒り…。

しかし、怒りはどれも、理不尽であり、強引である。やはり、人は「怒り」を原動力にして生きてはならないのだな、と思いました。
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ブログネタ
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「ザ!世界仰天ニュース」で、高松市議会議員岡野朱里子さんに関する内容(2月24日放送分)を見ました。例によって、よその家で。

拒食症を克服して市議会議員にまでなった岡野さんですが、固く閉じた心を開かせた最初のきっかけはオーストラリアの精神科医の一言でした。

「犯人捜しをするのはやめよう。君が悪いのでもない、お母さんが悪いのでもない、社会が悪いのでもない。今の君にとって最善の未来だけを見つめて生きよう。死ぬ前に…生きているうちに僕の前に現れてくれてありがとう。」

…というような言葉だったと思います。異国の人が異国の言葉で語りかけたのも良かったんでしょうね。日本の街角で突然出会ったオジサンにこんなこと言われたら気持ち悪いね。

結局そうは言いながらも、心を開いた朱里子さんは、幼いころにトラウマとなっていた母への不満をぶちまけるようになります。つまり、お母さんのせいになってしまいました。親を責める娘ほど怖いものは無いと思うのですが、それを真っ向から受け止めて耐え続けた母…すごいですね。

そんなわけで、キーワードのようで全然キーワードではなかったのが前掲の精神科医のセリフです。でも、なぜか、私には感動的に響きました。

犯人捜しをするのはやめよう。誰のせいでもない。もちろん、あなたのせいでもない。

別に悩みがあったわけでも、誰かを責めたり、自分を責めたりしていたわけでもないんですが、このフレーズを頭の中で繰り返すだけで心がグーッと緩んでいくような感じがしました。

現代社会では、問題が起こると、まず責任論から始まります。誰が悪いのか?

トヨタの問題でもそうでした。リコールの決定権はアメリカにあったのか、日本にあったのか。アメリカは、日本のせいであることを強調します。

思えば、竜馬の時代、幕府との交渉で、ペリーは幕府側の責任者が誰なのか不明確だと不満を言ったそうです。江戸幕府という組織では、責任の所在が明らかでなかったようなのです。

これは、未発達の組織であると言えるかもしれません。少なくともペリーはそう思っただろうし、今日の先進国の人々もほとんどがそう思うでしょう。

でも、責任の所在を明確にするということは、「責任者」が他の人に責任転嫁できなくなるということではありますが、「責任者」に責任者以外の人が責任転嫁する行為でもあります。「責任者」のせいにだけしてしまっていいのか?という良心の呵責のようなものが、幕府の組織としての発達を阻んでいたとは言えないでしょうか?

「だれかのせいにする」ということはビジネスの上では重要なのですが、病んだ人を癒すときにはタブーなのです。この「せいくらべ」が得意だったペリーの国と、「せいくらべ」が苦手だった江戸幕府の国とで、どちらが良い国だったかは一概には決められないように思います。

ただ、アメリカと同じアングロサクソンの国の精神科医が、「せいくらべ」をするのはやめようと言ったというのが、新鮮でもあり奇異でもありました。
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