トトガノート

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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「三章 法」の前半を読みました。

まず、法の原意を示すものとして、サーリプッタ(舎利弗)が仏弟子になるきっかけとなった言葉(縁起法頌または法身偈)をノートしておきましょう。

《以下引用》
何であれ諸々の事物(諸法)は原因より生ずる
それら(諸法)の因を如来は語られた
また、それら(諸法)の止滅をも
このように大沙門は語られた

諸法従縁起
如来説是因
彼法因縁尽
是大沙門説

諸法は縁より起こる
如来はこの因を説きたまう
かの法は因縁にて尽く
是れ大沙門の説なり
《引用終わり》

仏教で言うところの「法」を現代流にまとめると、
《以下引用》
(1)教え(教法、宗教)
(2)真理(悟りの内容)
(3)性質、とくに善なる性質(功徳)
(4)存在(有形・無形の、心的・物的な諸現象、概念〔意識の対象となるもの〕
《引用終わり》

ブッダは縁起の理を観じて法を悟り、初転法輪において四諦・八正道の教えを説いたということになっています。

《以下引用》
…してならないことが二つある。…一つは諸々の欲望において欲楽に耽ることである。…他は自ら苦しめることであり、いずれも聖ならず、ためにならない。如来はこの両極端に近づくことなく、中道を悟ったのである。
…中道とは何か。それは八支よりなる聖なる道である。すなわち、正見、正思惟、正語、正行、正命(正しい生活)、正精進、正念、正定である。…

…苦という聖なる真理(苦聖諦)は…生まれが苦であり、老も、…病いも…死も苦しみである。いやな人に会うのは苦であり、愛するものと別れるのも苦であり、欲しいものの得られないのも苦である。要約すれば、執着の素材としての五蘊は苦である。

苦の生起の因という聖なる真理(苦集聖諦)は…喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるもの、すなわち欲への渇愛、生存への渇愛、および生存を離れることへの渇愛である。

苦の止滅という聖なる真理(苦滅聖諦)は…上述の渇愛が完全に除かれた止滅である。すなわち、捨、放棄、解脱、無執着(アナーラヤ)である。

苦の止滅にいたる道という聖なる真理(苦滅道聖諦)は…聖なる八支よりなる道である。
《引用終わり》

ブッダの立場として十四無記について述べてあります。以前も十無記として書いたものです。ここでは「毒矢の喩え」をノートしておきます。
《以下引用》
人が毒矢に射られたとしよう。さっそく医者がよばれてやってきたが、もしその医者に向かって、その人が、「誰がこの矢を射たのか、それが解らない間は矢を抜くな」と言ったとしよう。また、「その人は大きいか小さいか、色が黒いか白いか、その使った弓は弩かどうか、弦は植物製か動物製か、矢羽は鷹か鷲か等々、わからない間は治療してはならない」と言ったとしたら、その人は、それらのことがわかる前に死んでしまうだろう。まず大事なことは、毒矢を抜いて応急処置することだ。
《引用終わり》
ブッダの立場は応急処置をする医者であり、十四無記に挙げられる問題は「?」のままで、治療に専念するのである。

仏教の旗印として「四法印」について述べてあります。スローガン、あるいは要約とも言えます。4つの命題の形になっています。

《以下小生要約》
(1)諸行無常
無常は実感だと言っても、実際にはそう受けとっていない場合が多い。第一にわが身の死。人は死ぬものとわかっていてもわが身も死ぬものとはだいたい思っていない。だから、いざ死が近づくと人は恐怖にさらされる。そこに死が苦となる。無常であるものが無常と知られないところに、苦があるということが、仏教が説こうとする人生の真実である。

(2)諸法無我
「我」とは「自由になるもの」「(病などにかかって)変化しないもの」という見方を前提とすると、色(形あるもの・肉体)受(苦楽の感覚)想(イメージを思い浮かべる作用・表象化)行(意志のはたらき)識(認識・判断のはたらき)のいずれも「我」ではない。

我と呼べるものがないのに、我があると思うところに、苦しみがあるというのが仏教の説かんとすることである。我があると思うのは「我執」である。この我執にこそ、ブッダは諸悪の根元を見出したのである。そして我執が「わがもの」という所有欲を生むと見る。それの達成されないうらみが求不得苦(ぐふとくく)である。

我に常住永遠の存在という規定が含まれているように、無我であるということは無常であることに帰着する。無常とは生滅のあることであるから、われわれに生老病死のあることが無我の証拠となる。

しかし、仏教はまったく個人の役割を否定したかといえば、そうではない。無常と観じて、自らつとめ励むところに涅槃がおとずれる。実践の主体性が一方で強調されているは忘れてはならない。

(3)一切皆苦
苦とは感覚であり、楽と対立し、苦と楽は相対的なものである。人間社会は楽をめざしての進歩であり、現代日本人には苦の種はなど無いはずである。しかし、現実はそうではない。それを見通すがごとく、仏教では、無常であり無我であるものは、みな苦をもたらすと見る。

何ゆえ苦であるのか。ブッダの追求の果てに見出されたものは、一つは渇愛とよばれる欲望や執着、そしてさらにさかのぼると「無明」にいたりつくとされた。無明とは(真実に対する)無知である。すべてが無常であり、無我であるということを知らないことが苦の原因の大もとである。

諸法無我・諸行無常はすべての現象についての本性(諸法の法性)であり、変更を許さない。一方、苦は所与の現実としては真実であるが、そのままであってよいものではない。滅せられるべきものである。ここが前掲の2命題と異なる点である。

人生の苦楽とは次元のちがうところでの、苦ならざる状態、すなわち「楽」を理想と見ることになる。これが「涅槃寂静」である。

(4)涅槃寂静
生滅の止滅、停止とは、生滅が文字どおりなくなることではなく、生滅性のもの(諸行無常)と知ることによって生滅を超越することである。そこに苦滅すなわち涅槃が実現する。それが、寂静とか寂滅といわれ、楽とよばれている。その獲得こそが仏教の目的である。
《要約終わり》

《つづく》
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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「二章 仏の本質」を読みました。

入滅と共にブッダの神格化が始まります。
《以下引用》
神格化はまずブッダに対する呼び名の制限や神聖な名称の付加からはじまり、偉大さの根源を過去世における善根功徳の蓄積に帰し、さらに八十歳入滅をもって方便と考えて、永遠のブッダを想定するようになる。…

教祖がしだいに神格化される点で、キリスト教と仏教は興味ある対応を示すが、ただキリスト教の場合、イエス・キリストの出現の一回性(歴史性)を強調するに対し、仏教ではブッダの特殊性・歴史性がうすめられ、本質が普遍的な絶対者に還元されると同時に、ブッダ体験が万人に可能なものとして一般化されていくところは、きわだった相違点である。
《引用終わり》

当時、教祖が亡くなった後は、神格化するのが自然だったでしょうし、後継者として教団を運営していく上で必要なことだったでしょう。でも現代においては、たとえ世界宗教の教祖であれ「一人の人間」だと捉えた方がずっといい、と私は考えます。

神格化の流れについては、仏教の歴史として、私は割り引いて受け止めています。ただ、割り引き方もいろいろあります。「一つの世界には一時に一仏のみがある(一時に二仏は存在しない)という規定」などは、私は真っ先に割り引いていい箇所だと思うのですが、学界ではかなり重要視されているらしい…。仏教学者にならなくて本当に良かったと思っています。

ブッダならば、真っ先に昭和天皇のように人間宣言するんじゃないだろうか…。

《以下引用》
「仏の身が法より成っている」ということは阿含のなかに見られる。そこでは法は梵(ブラフマン)と対比されていて、梵に代わる絶対的存在としての「法」、そして、梵の人格化としての梵天に代わる、法の人格化としての「仏」という類比が成り立つが、そこでは「法」が何を意味するかは必ずしも明白でない。…

戒・定・慧・解脱の四法と、そしてそれらの知という五つが仏の資格として語られている。最後のものは後に「解脱知見」といわれるものだろう。この五つはアビダルマの教義で「五分の法身」といわれる。そして「法身」とは法の集まりで、戒などの五つの部分よりなる法の集まりとは結局、教法の全体をさすと解せられている。その意味するところは、仏の死後、仏に代わるものは、仏の残した教法であるという解釈(たとえば『遺教経』のいうところ)で、これが「法身」という語のもつ第二の意味である。
《引用終わり》

亡くなった方は亡くなった方として、その教え(法)を引き継げばいいと思うのですがね…。「この世で仏になれる人は何人?」とか「何をすればなれるんですか?」とか「私はまだ成れてないんでしょうか?」とか、何事にも野心的な人は居るものです。

《つづく》
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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「序章 仏教とは何か」を読みました。

きちんと入門書から勉強したいというのが当初からの願いでしたが、書店で見かけるのはどうも物足りなくて読まずにいました。今回やっと、しっかりした入門書を見つけましたので、じっくり取り組んでみたいと思います。もとは駒沢大学の学生用教科書であったものに加筆修正したものだそうです。

《以下引用》
仏教の特質をひとことでいえば、真理と一つになる、絶対との合一ということを目標とする点にあると言えよう。…絶対者との合一を目標とする思想はひろく神秘主義(mysticism)とよばれる。神秘主義はキリスト教やイスラム教の一部にもあるが、主流とはいえない。それに対しインドではヒンドゥー教も「梵我一如」の教えに見られるように絶対者との合一を説く。仏教はむしろ、このインド的伝統に根ざすものと言うべきだろう。なお、わが国の宗教的伝統も神人合一というか、神人未分というべき思想が強い。宗教学の姉崎正治はこの伝統を「神人合一教」と名づけ、キリスト教などの「神人隔絶教」から区別した。
《引用終わり》

この世の全てと一つになるということ。神の視点の下降は、「神人隔絶教」から「神人合一教」への移行と言えるかもしれません。

ここでまた「大乗非仏説」の話が出てきます。高崎先生も「学問的常識として当然」と言いながらも、佐々木先生とはニュアンスが違います。

《以下小生要約》
「阿含」といえども仏説のままではない。それぞれの部派が「阿含」を伝承しているうちに独自の解釈を加えるようになり、ブッダの教えとはだいぶ隔たりを生じてきた。大乗仏教はむしろ、そのような従来の諸教団の学説がブッダの真意をそこねていると考え、ブッダの立場への復元をめざして、その運動を展開した。
《要約終わり》

部派の教学をアビダルマ(abhidharma)と言います。「龍樹」のところで出てきましたが、何だか分かりませんでした。ダルマ(dharma)すなわちブッダの教えに対して(abhi-)これを研究するという意味。

《以下小生要約》
時の流れとともに、仏の教え、すなわち「法」はしだいに理解しがたい点が生じた。また、ブッダの教えは対機説法を旨とし、「八万四千の法門」と言われるほどさまざまに説かれたので、往々にして表現上の差異や矛盾と見える教説もあった。そのため、整理分類する必要が生じて「アビダルマ」の動きが出てきた。西洋でいえば、スコラ哲学に匹敵する。
《要約終わり》

法は教えの基本線という意味で「経」(スートラ)、アビダルマは註釈解説という意味で「論」(シャーストラ)、これに教団の規則「律」を加えて三蔵となる。

《以下引用》
大乗経は…総じて大乗仏教の成立に呼応して、しだいにできたもので、歴史的には教主シャーキヤムニの説法とは何のかかわりもない、後世の産物である。その意味では「大乗非仏説」にちがいないが、ただ大乗経典の作者の自負においては、これこそ仏の教えの真意を伝えるものであるとして、阿含経よりも深遠で究極的な教えである。それを「仏説」と表明したのは、単なる権威づけというよりは、作者の信念の表白と見るべきだろう。事実、大乗仏典はいくたの発展した教義をふくみ、それが仏教を思想的に深め、高めた点で、絶大な価値を有している。
《引用終わり》

こういった経緯を踏まえれば、「偽経」も、内容的に仏教として一貫性があり、すぐれたものであれば経とみなしてかまわないだろう。また、日本の各宗の祖師たちの著作も「お経」と呼んで差し支えないだろう。…ということです。

「仏教としての一貫性」ってなんだろう?とも思いますが、穏便なお人柄にホッとしております。「仏」を学ぶ人は、こうでなくちゃね…。

《つづく》
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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの思想」の「6縁起」の「2アビダルマの縁起説」まで読みました。
『中論』の中心思想と目される縁起ですが、これもまず論敵の側から見ています。

ここで、十二因縁というのが出ていますので、とりあえずメモっておきます。

《以下引用》…人間の苦しみ、悩みがいかにして成立するかということ考察し、その原因を追及して、以下のような十二の項目の系列を立てたもの。(1)があるから(2)があるというように観ずるのを順観、(1)が滅びたときに(2)が滅びるというように観ずるのを逆観という。
(1) 無明(無知)
(2) 行(潜在的形成力)
(3) 識(識別作用)
(4) 名色(心身)
(5) 六処(心作用の成立する六つの場:眼・耳・鼻・舌・身・意)
(6) 触(感官と対象との接触)
(7) 受(感受作用)
(8) 愛(盲目的衝動)
(9) 取(執著)
(10) 有(生存)
(11) 生(生まれること)
(12) 老死(無常なすがた)
…《引用終わり》


この章の最後に中観哲学との対比のためのまとめがあるので、それをメモって今回は終わりとします。

《以下引用》…
1. 有部においては『大毘婆沙論』以後四種の縁起が認められていたが、有部が最も力説したのは「分位縁起」であり、後世になれば、縁起とは衆生の生死流転する過程を述べるこの胎生学的な解釈がほとんど他の説を駆逐するに至った。
2. 『品類足論』において、縁起とは一切有為法をさすというために、後世、問題の中心となり、種々の方面に影響を及ぼしている。
3. これに反して縁起を無為法なりと主張する派もあった。
4. 「これがあるとき、かれがある。これが生ずることから、かれが生ずる」という縁起の共通趣意を示すことの文句は有部においても保存されていたが、ただしこれは「縁によって生ずること」という時間的生起関係を意味しているとされていた。
…《引用終わり》


《つづく》
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