公文式に関して、よくいただく質問(FAQ)について、私なりに回答しています。事務局や、他の先生方や、私の妻が回答すればまた違った答えになると思いますので、その辺はおくみとりいただいてお読み下さい…
今回は、「教えてくれないのか?」という質問です。公文の先生は答えを教えるということは(原則として)しません。公文の宿題をしている子どもが「わからない!」と言うと、おうちの人は「先生に聞きなさい!」と言うでしょう。すると「聞いても教えてくれないもん!」と子どもが答える。「うちの子は教えてくれないから分からないのです。教えてくれないんですか?」という質問が出てきます。
公文の教材は普通の問題集とは違って、ヒントや例題が書いてあります。教えてもらわなくとも解けるようにできています。なぜなら、公文式が目指しているのは自学自習ができる人を育てることであって、単に問題が解けるようになることは二の次だからです。「公文式は学習塾ではない」というコピーは、そういう意味(のはず)です。
これは「魚を与えるか、魚の獲り方を教えるか」の問題に例えると分かりやすいでしょうか。「わからない」と言うからといって答えを教えてしまうのは、「お腹が空いた」と言われるたびに魚を与えてしまうのと同じです。しかし、いつまでも親が魚を与え続けるわけにはいきません。子どもにとって本当に必要なのは、魚を自分で獲る術を身に付けることなのです。
小さいうちから自分で魚を獲れるようになれば、狩りは上手になるはずだし、一生食べるのに困らなくなるだろう。そのためには、魚をすぐには与えずに自分で獲る工面をさせた方がいい。それこそが真の親の愛情というものだと思います。
公文式の教材には、ヒントが隠されています。だから、クイズとかなぞなぞの一種だと思って下さい。あるいは、推理小説だと思って下さい。「答え教えようか?」とか「犯人はね…」とか言うと、大抵は「待って!まだ、言わないで!」と言いますね。どうしてもわからなくても、すぐに「やっぱり答えを教えて!」とは言わないで、「ヒントちょうだい!」と言うはずです。
それは、自分で解いた時の快感を味わいたいからです。「わかった!」という瞬間を味わいたいからです。この瞬間に、言わば脳の中に電流が走って、この時に使った思考パターンが神経回路として固定されるのです。勉強とは、本来、この快感に満ちたものなのです。
この喜びを知って欲しいから、公文の先生は、すぐに犯人を教えるような野暮なことはしないのです。
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今回は、「教えてくれないのか?」という質問です。公文の先生は答えを教えるということは(原則として)しません。公文の宿題をしている子どもが「わからない!」と言うと、おうちの人は「先生に聞きなさい!」と言うでしょう。すると「聞いても教えてくれないもん!」と子どもが答える。「うちの子は教えてくれないから分からないのです。教えてくれないんですか?」という質問が出てきます。
公文の教材は普通の問題集とは違って、ヒントや例題が書いてあります。教えてもらわなくとも解けるようにできています。なぜなら、公文式が目指しているのは自学自習ができる人を育てることであって、単に問題が解けるようになることは二の次だからです。「公文式は学習塾ではない」というコピーは、そういう意味(のはず)です。
これは「魚を与えるか、魚の獲り方を教えるか」の問題に例えると分かりやすいでしょうか。「わからない」と言うからといって答えを教えてしまうのは、「お腹が空いた」と言われるたびに魚を与えてしまうのと同じです。しかし、いつまでも親が魚を与え続けるわけにはいきません。子どもにとって本当に必要なのは、魚を自分で獲る術を身に付けることなのです。
小さいうちから自分で魚を獲れるようになれば、狩りは上手になるはずだし、一生食べるのに困らなくなるだろう。そのためには、魚をすぐには与えずに自分で獲る工面をさせた方がいい。それこそが真の親の愛情というものだと思います。
公文式の教材には、ヒントが隠されています。だから、クイズとかなぞなぞの一種だと思って下さい。あるいは、推理小説だと思って下さい。「答え教えようか?」とか「犯人はね…」とか言うと、大抵は「待って!まだ、言わないで!」と言いますね。どうしてもわからなくても、すぐに「やっぱり答えを教えて!」とは言わないで、「ヒントちょうだい!」と言うはずです。
それは、自分で解いた時の快感を味わいたいからです。「わかった!」という瞬間を味わいたいからです。この瞬間に、言わば脳の中に電流が走って、この時に使った思考パターンが神経回路として固定されるのです。勉強とは、本来、この快感に満ちたものなのです。
この喜びを知って欲しいから、公文の先生は、すぐに犯人を教えるような野暮なことはしないのです。
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