トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Category: オレは外ボクは内(推敲中)

Tくんは、考えてから話す。あるいは考えながら話す。もちろん、気心の知れた相手に分かり切ったことを話す場合は別だが。

Tくんの頭の中には「真実への道は複雑な過程をたどる」という考えが、いつの頃からかできている。どんなにシンプルなことを話すにしても、複雑な思考の裏付けがあるべきだと考えているのだ。

例えば目の前でリンゴが木から落ちたとすると、それはそれだけで真実である。きわめてシンプルな真実である。しかし、表層的な真実でしかない。ニュートンは、リンゴ以外の物体、星にまで対象を広げて、膨大な天体観測データまで研究・考察した。その結果、最終的にはF=maというシンプルな形に集約されたとしても、そこに至る過程は凡人には真似できない複雑な思考の連続だった。

真実への思考は複雑でなければならない。

例えば「サルも木から…の後は?」と問われた時、「落ちる」と分かっていてもTくんは即答しないのである。国語の問題の答えはそれとして…と考え込んでしまう。どのくらいの頻度で落ちるのだろう?チンパンジーとニホンザルで違いがあるだろうか?「落ちたんじゃなく飛び降りたんですぅ!」とサルが主張した場合は?等々、複雑な事情をいろいろ考えてしまう。

「わかっているのに答えないのはズルいですよ」と学校の先生に言われたこともある。それでも、これらの様々な事情が自分の中で統括されて一つのシンプルな結論に集約されるのを、Tくんは口を閉ざしたまま待った。一度その瞬間が訪れれば、Tくんの発言は別人のように強くハッキリしたものとなり、誰かが反論しようものなら即座に反論で応酬することができる。

そこまで至らない案件に関しては、Tくんの言葉はきわめて精彩を欠き、一言一言、考えながら絞り出すことになる。説得力のカケラもない。無理に嘘をついているようにしか見えない。

「昨夜8時頃、どこにいましたか?」と刑事さんに聞かれたら、Tくんはとても怪しげに答えるだろう。冤罪の被害に遭うのは自分のような人じゃないだろうかと、Tくんはいつも思っている。
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Tくんは、いつも小声で話す。大きな声が出せないわけではない。「声の出し方」みたいな本を読んで練習したら、すぐに大きな声は出せるようになった。でも、人と話す時には声が小さくなってしまうのだ。無意識のうちに声帯の辺りに変な力が入って、ボリュームを絞っているらしい。やはり自分は、相手に圧力を加えたくないのだとTくんは自己分析している。

力は真実をゆがめる…これが、Tくんの意識の中にしっかりと沁み込んでいる。

おそらくそれは、父親の影響だ。Tくんの父親は、典型的な昭和の父親。『巨人の星』の星一徹にそっくりだ。幸いTくんの父親は野球が好きではなかった。だから、Tくんは大リーグボール養成ギプスを免れた。それから、Tくんの家ではちゃぶ台を使っていなかった。だから、ちゃぶ台返しも免れた。

でも、それ以外はほとんど同じ。父親がいる時には黙って話を聞かなければいけない。自分の意見を言うことは許されない。Tくんが自分の意見の正当性を理路整然と説明しても、決して聞き入れない。父親は、論理的に間違っているにもかかわらず自分の意見を執拗に繰り返すだけ。再びTくんが反論すれば、平手打ちでぶっ飛ばされた。権力に屈さざるを得なかったガリレオ・ガリレイの気持ちがよく分かった。「王様は裸だ!」と叫んだ子供は、その後に処分されなかったのなら羨ましい。

力は真実をゆがめる…Tくんは、父親からしっかりと叩き込まれたのだ。

Tくんは、ウルトラマンが好きだったので、宇宙に興味を持った。そして、天文学や相対性理論へと興味は広がっていった。小学6年生のとき、相対論に関するブルーバックスの本を3冊ほど買って、夢中になって読んだ。数式はほとんど無く、概念的な説明をしているので、Tくんでも理解することができた。そこで、ハイゼンベルクの不確定性原理を知り、Tくんは大いに驚いた。

ある物体がどこにあるか、どんなふうに移動しているかを知るためには、光を当てたり、音波を当てたり、電波を当てたりしなければいけない。より正確に測るためには、光、音波、電波などを強くする必要がある。ところが、観測したい物体が非常に小さいものである場合、光などのエネルギーを受けて変化してしまうのである。だから、正確に測ろうとすればするほど、不確定な結果しか得られないというジレンマに陥る。これが、不確定性原理の大雑把な説明である。

これは、父ちゃんのことを言っている!とTくんは驚いたのだ。

Tくんの父親は、Tくんの考えを確かめると言って何度も問いただす時があった。途中から完全な誘導尋問になるので、父親の中にある正解は明らかなのである。「お前は○○だと思っているのか?」「本当にそう思っているのか?」と執拗に確認する。「そう思っているんだったら、タダじゃ置かないぞ!」ということが言外からハッキリと伝わってくる。

ハイゼンベルクのお父さんも強引な人だったに違いない…

さらに相対論では、重力が空間をゆがめることが示されている。重い物体の近くでは、物の長さや時間の進み方が変わるのである。

力は真実をゆがめる…人間が持つ魅力、会話力、目力、など諸々の力は真実を変えてしまう。父ちゃんのように、相手の自由を奪ってしまう。

この力によって積極的に相手を変えていこうという生き方もある。時代はむしろ、そちらの生き方を推奨していた。しかし、Tくんはそっちを選ぶことがどうしてもできなかった。

Tくんは力を忌み嫌い、それを行使することも、行使されることも嫌うようになっていった。そして、全く関係がないはずなのだが、物理の勉強をすればするほど、その傾向は強くなっていった。
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Tくんは子どもの頃から「相手の目を見て話しましょう」とよく言われた。それができないと「恥ずかしがり屋なんだね…」と決まって言われた。ドラマでは、相手が嘘を言っていないか確かめる時に「俺の目を見て、同じことが言えるか!?」なんて言う時がある。それを見るたびに、Tくんはドキリとした。自分は嘘つきだと思われているんだろうか?と焦った。

確かに自分は恥ずかしがり屋なのかもしれない。目が合うのが怖いような気持ちはある。でも、自分がアイコンタクトができない理由は他にもあるような気がする。

Tくんが考えている理由のひとつは、自分の言いたいことを正確に伝えたいから。間違いなく言語化するために、話している時には自分の頭の中に全神経を集中させるのだ。相手の反応には注意が向かない。ひたすら自分の内側を見つめている。

もちろん、意識すれば相手の目を見て話すことはできる。しかし、その分だけ言いたいことへの注意がおろそかになる。頭が真っ白になって、しどろもどろになったりする。それが恥ずかしいと感じて、顔が赤くなったりはする。この状況を見た人は、紛れもない恥ずかしがり屋だと思うだろう。でも、Tくんは相手の目を見たから恥ずかしいと感じたわけではないのだ。言葉が変になったことを恥ずかしいと感じたのだ。

もうひとつの理由は、素のままの相手の真実を聞きたいから。聞き上手の理由と重なるが、目力で相手に影響を与えたくないのだ。目力で何かを訴えてしまったら、相手の答えが変わってしまうかもしれない。Tくんのことだから不自然な表情になってしまい、相手に意味不明の圧力を与えかねない。それを恐れているのだ。
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Tくんは「聞き上手だね」と言われることがある。でも、特に喜びはしない。話し上手とはお世辞にも言えない無口な人を無理にほめるとしたら、そんな言葉になるだろうから。ただ、自分が本当に聞き上手である可能性は有ると思っている。

これについて、Aくんたちとの夕焼けの話で説明したい。Aくんは、TくんとBくんがほとんど同じことを言ったにも関わらず、全然違う反応を見せた。果たして、どっちが真実のAくんなのだろう?

傍目にはBくんとのやり取りの方が盛り上がっているから、その時のAくんが真実のAくんのように見える。しかし、Aくんが最初から夕焼けに感動していたら、Tくんに対しても同様の反応をしたはずだ。つまり、AくんはBくんの発言に影響を受けて変化したのだ。

Tくんは、素のAくんが真実のAくんだと考える。Bくんの影響を受ける前のAくんである。だから、Tくんは自分のほうがAくんの本音を聞き出せたと思う。これは、聞き上手ということではないか。

一方、Bくんは自分が夕焼けに感動したことを伝えて、Aくんをも感動させている。もちろん、上辺だけBくんに合わせたという可能性もあるけれど。いずれにしても、これを話し上手というのだろう。

聞き上手と話し上手。Tくんは聞き上手でありたいと思った。
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3人以上で話をしている時には、僕は滅多に発言しない。会話中の言葉に反応して、自分の世界に意識が飛んでしまったりするからである。そうなっていなくても、他の人たちの会話の傍聴人に徹してしまう。

こんな癖がついてしまったのは、いつからだろう。おそらく、あることに気づいてからだ。あることとは、みんなが自分の発言を聞いていないということ。

例えば、Aくん、Bくん、僕の3人が何となく一緒に歩いていたとする。夕焼け空が鮮やかに赤い。僕はちょうどいい話題だと思い、頑張って発言してみる。
「夕焼け、きれいだね!」
ところが、返ってくる反応は薄い。
「あー、そうだね…」と、まるでうわの空のAくん。

それから少しして、Bくんが叫ぶ。まるで、自分が初めて発見したかのように。
「うわっ!何この夕焼け、スゲェーきれい!」
すると、どうだろう。さっき気のない返事をしたAくんが、全く違う話題ででもあるかのように興奮して答える。
「ホントだ!こんなの生まれて初めて見たよ!」

僕は、ひとり反省する。声が小さかったのか?言葉が不適切だったのか?もっとアクセントを付けないといけなかったのか?

こういうことは他のメンバーでも何度かあった。
「それ、さっき、僕が言ったよね?」と詰め寄ったこともある。返ってくる反応は、たいてい「ん?そうだっけ?」

こんな経験を繰り返しているうちに、発言しても仕方がないと思うようになってしまった。一対一ならば、こういうことは起こらない。だから、僕は一対一で話すのが好きなのだ。

一対一というと「タイマン」とか「サシで」とか言い換えられるが、僕は別に決闘をしたいわけではない。
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だからと言って、僕は友達が欲しくないわけではなかった。友情に淡白なわけでもない。小学生の時も仲の良い友達はいた。その一人が父親の仕事の都合で転校すると聞いた時には、家に帰ってから泣いたほどである。

家に友達(転校したのとは別の人)を招いて遊んだ時は、とても楽しかった。しかし、その後がいけない。たまらなく寂しくて悲しくなるのだ。一緒に遊んだ玩具を見ては、思い出してつらくなる。また明日学校で会えるというのに、もう一生会えないみたいに悲しい。

そんなわけで、友達と遊ぶことをためらいがちになった。『北斗の拳』の聖帝サウザーの名セリフに「こんなに苦しいのなら、悲しいのなら…愛などいらぬ!」というのがある。ちょっとカッコ良すぎるが、これに似ていると思う。愛情や友情に鈍感なわけではない。むしろ、敏感なのだ。

そんなわけで、ただでさえ稚拙なコミュニケーション・スキルは全く磨かれないことになった。
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僕は小学生の頃から、一人でいることが好きだった。一人で空想をするのが好きだったのだ。夢中になっていたのはウルトラマン。昨日見たウルトラマンのストーリーを思い出したり、自分が考えたオリジナルのウルトラ戦士や怪獣を自分の頭の中で闘わせたり。

空想するための準備は何も要らない。いつでもできる。頭の中にある記憶を引っ張り出して、あれこれ考えたり、一人でツッコミを入れたり。だから、ボッチは全然退屈ではなかった。むしろ楽しかった。

友達と一緒にいると、空想に耽ることはできない。いや、普通ならできないだろう。でも、僕はやっていた。友達が目の前にいても、沈黙ができれば寸暇を惜しんで一人の世界に入り込んでいた。それだけ楽しかったのだ。だから、友達から話しかけられると、いつも「ん?」としか答えられなかった。

空想と現実を行ったり来たり。周囲からは常にボーッとしているように思われていたが、場面の切り替えが激しい芝居で一人二役をやっているようなもので、本人はなかなか忙しかった。

空想の世界では、僕はウルトラマンだ。時空を超えてどこにでも行ける。それに比べると現実は窮屈過ぎる。漱石は『三四郎』の中で書いている。「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より頭の中は広いでしょう」と。漱石の真意は分からないが、僕にはとてもしっくりくる言葉だ。空想の世界には何でもあるし、何でもできるからだ。だから、僕は空想に夢中になった。退屈している暇などなかった。

僕は空想のトレーニングを繰り返していたのかもしれない。

ルパン三世のテーマに「男には自分の世界がある」という歌詞がある。「その通りだ!」と僕は思った。自分のことを歌っているんじゃないか?と思うほどだ。「たとえるなら 空をかける ひとすじの流れ星」と歌は続く。2番では「たとえるなら 風をはらい 荒れくるう稲光」とある。この例えはよくわからないが、カッコいいから気に入っている。

かくして、僕はどんどんと自分の世界を築き上げていった。
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スーザン・ケインさんのTED講演を初めて見た時、僕は仰天した。感想は「こんなこと、言っていいんだ…」の一言に尽きる。例えるなら、ステージの上で「王様は裸だ!」と叫んでいるようなもの。ガリレオ・ガリレイが「それでも地球は回る」と言ったのにも匹敵する。それなのに聴衆は「何を言っているんだ!」というような批判的な表情は微塵も見せずに、笑顔で聞き入っている。僕は何度もつぶやいた。「こんなこと、言っていいんだ…」

スーザン・ケインさん(以下、心からの敬意と感謝を込めてスーさんと呼ばせて頂きます)が語っていたのは、もちろん王様の裸についてでも地動説についてでもない。内向型人間の本音である。これを見た僕は、一度にパンチを3発くらったような衝撃を覚えた。

その3発とは、
〆の世の中は外向型人間の論理で動いている
△修譴箸楼磴ζ盡型人間の論理がある
自分は内向型人間である

,砲弔い討蓮以前からうすうす感づいてはいた。世の中の論理が自分にはシックリ来ない、と。それは世の中が理不尽だからと片付けていた。しかし、それよりも自分に近い論理△あるとしたら、もっと生きやすくなるんじゃないか?と思った。なぜならスーさんの本音を聞く限り、自分も思い当たることがたくさんあったからだ。自分は内向型人間で間違いないようだ。これらの気づきが、まとめてやってきたのだ。

僕は子どもの頃から「ユニークだ」とか「変わっている」とか、よく言われてきた。だから、自分は「変わった人」なのだと思っていた。でも、スーさんの話を聞いて考えが変わった。内向型人間としてみると、僕はそれほど「変わった人」ではないのかもしれない。外向型人間として、うまくふるまえていないだけなのかもしれない。

スーさんの著書には、内向型人間として悩む多くの人たちが紹介されている。外向型人間と内向型人間の違い、脳科学・心理学的な研究成果、内向型人間としての身の処し方、その才能を発揮する方法、等々、たくさんの情報が、静かに控えめに語られている。その謙虚さの奥には、今も苦悩し続ける内向型の人たちを助け、埋もれている力を発揮させてあげたいという思いが感じられた。静かであるがゆえに、底知れぬ強さがある。これこそが内向型人間の情熱の現れなのだ!スーさんの本は僕の涙で濡れた。

僕が、このムーブメントの力になることはできないだろうか?この神輿の一端を担ぐことはできないだろうか?僕にできることは何だろうか?僕は、居ても立っても居られなくなった。

数年前、僕は自閉症の東田直樹さんが書いた『僕が飛び跳ねる理由』という本を読んだ。自分の頭の中の出来事を一生懸命に書いている。その本が自閉症の子を持つ父親の目に止まった。それを読んだ父親は、自分の子どもの心を理解できないという苦悩から救われた。

私はと言えば、東田さんが書いているのと似た出来事が自分の頭の中でも起きていることに気づいた。おそらく、自閉症の人とそうでない人との間に明確な境界などないのだ。一部の脳の活動が強すぎたり弱すぎたりして、全体としてのバランスが崩れやすいのだと思う。要は、そうなりやすいか、なりにくいかの違いだけなのだ。

スーさんも書いている。内向型人間と外向型人間との間に明確な境界はない。すごく内向型の人もいれば、かなり外向型に近い人もいる。内向型偏差値みたいなものがあったとして、僕がどのくらいハイスコアかは分からない。そもそも数値化できないから比べることも難しいのだ。だから、研究も難しいし、スーさんが断定的な表現を使えずにいるもどかしさをひしひしと感じる。

でも?だからこそ?僕は、自分のことを書くことにした。少しでも多くの内向型の人たちが自信を取り戻せるように。また、その周囲の外向型の人たちの理解が深まるように。スーさんとアプローチの方法は違うけれども、目指していることは同じはずだ。
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小学生の時に表彰されたことが
あります。

図書館の本を一番多く借りた人として!

図書係の人から取材を受けました。

「一番面白かった本は何ですか?」
「どんなところが面白かったですか?」

困りました!

時効なのでカミングアウトしますが、
全然読んでいなかった…

一番多く「借りた人」であることは
間違いなかったのですが、
一番多く「読んだ人」では
なかったのです。

図書の本を借りるという
手続きが楽しくて、
ルーチン化していました。

昨日借りた本を返して
今日新しい本を借りる…

自分のカードが
借りた本の名前で埋まっていく…

買い物ポイントが
貯まっていくような感覚でしょうか。

毎日一冊借りないと気が済まない…

依存症だったのかもしれません(笑)

宿題も有るし、
ウルトラセブンの再放送も見たいし、
本を読んでいる暇がありませんでした。

ゴメンナサイ


こんにちは!

スラスラ解る!
小林教室特別講師の

とがし としみつ です。


カミングアウトと言えば
ウルトラセブンの最終回。

ダンが自分の正体を
アンヌに告白します。

水戸黄門は毎回やってますね(笑)

水戸光圀公の場合、
カミングアウトしたくて
うずうずしています。

極めてレアなケース。

普通は、こんなこと言ったら
どう思われるか分からない…

受け入れてもらえるか
分からない…

だから、言えない…

そういう秘密を抱えています。

『内向型人間が無理せず
幸せになる唯一の方法』を読みました。
https://amzn.to/3P1BX0X

著者のスーザン・ケインさんは
読書好きな家庭に生まれました。

子どもの時、
サマーキャンプに行く彼女に
お母さんは本を何冊か
持たせてくれました。

彼女も、みんなと本を読んで
話し合う集まりだと思ったそうです。

ところが、
行われたのはチアの練習。

みんなで賑やかに騒ぐこと。

一人になって本を読んでいたら、
心配して声をかけてくれた
お友達がいたそうです。

これは、TEDの講演の冒頭で
紹介されたエピソード。

講演の動画は20分弱で
字幕表示も可能です。
https://www.ted.com/talks/susan_cain_the_power_of_introverts

私も子どもの頃、いろいろな行事の度に
同じことを感じていました。

もっとも、私が見たかったのは
本ではなくてウルトラセブンでしたが。

でも、それを言うことはタブー。

ずっと昔に封印していたので、
誰かに打ち明けたいなんて
思ったことはありませんけど。

なので、動画を見た時の解放感は
半端ない…

自分と同じような人が居たんだ…

こんなこと口に出して良いんだ…

しかも分厚い本まで出している…

スーザンが自由の女神に見えました。

外向型の人にしてみたら
「こんな人、世の中にいるの?」
という感じではないでしょうか?

著書のタイトルは英語の方が好き。

『Quiet : The Power of Introverts
in a World That Can’t Stop Talking』
(おしゃべりがやまない世界での
内向型人間の力)

この世界では、内向型人間は
希少とは言わないまでも
マイノリティです。
(本書によれば3人に1人)

内向型人間にとって、
一人で黙って物思いに耽るのは
至福の時。

おそらく、外向型人間にとっては
とてもつまらないことなのでしょう。

具合が悪いか、
嫌なことがあったか、
みんなに怒りや不満を抱いているか、
いずれかだと思われます。

心配して声をかけてくれる人に
「そっとしておいて欲しい」
なんて言ったらなおさら(笑)

私が若い頃、
自分がそういう性格だと言えば
「ネクラ」とか「ムッツリ」
という称号が与えられました。

最近は「私、コミュ障なんで…」とか
軽い感覚で言えるようです。

スーザンの寄与するところが
大きいのかもしれません。
(最初の日本語版が出たのは約10年前)

本書の表紙には
メンタリストDaiGoさんの応援の言葉
「リア充をぶっ潰せ!
内向的な人のほうが成功する方法が
ここに」

勇ましいですけど、
内向型vs外向型の闘争を
目指している訳ではありません。

内向型という在り方を
受けとめて欲しいだけ。

とはいえ、小学生の時に、心配して
遊びに誘ってくれた同級生たちには
今も感謝しています。

どうもありがとう!



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トトガメール集の第3弾です。
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