Category:★仏教 > 「仏教と現代物理学」
三世諸仏(仏物23)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第六章 迷悟は我にあり」(p299〜334)を読みました。
『般若心経』の「三世諸仏」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p314)》
三世とは、過去・現在・未来をいうなり。仏とは、覚者なり。一切有情、皆覚性を備えたり。迷うが故に衆生といい、悟るを仏というなり。自心の外に仏なし。人々自心即ち仏なれば、これを諸仏というなり。三世というも、遠きことにあらず。前念すでに滅したれば過去、後念未だ生ぜざるは未来、その中間のすでに起こりたる当念は現在なり。過去仏、現在仏、未来仏なり。過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得なれば、ただ一念一仏にして、二心二仏あることなし。不去不来、三世常住なり。
《引用終わり》
仏教では、時間をどうとらえているか、ということですが…。
《以下引用(p324)》
…人は独り生まれ、独り死んで逝く。この余りにも当たり前の事実を、いつでも、どこでも忘れず(もちろん元気盛んに仕事に従事しながらも)、自らの心の襞深く繰り返し刻み込むならば、それはもう立派な瞑想(samma-sati)となろうが、多くの人はまた独り肉体を纏ってこの世(四次元時空)に生まれ来ることを「独死独来」という。
世の中の生死の道につれはなし
たださびしくも独死独来 『一休道歌』
しかし仏教(『般若心経』)は、勝義として、生死も輪廻も無い。つまり私たちは、初めより、生まれもせず、死にもせずということであった。そうすると、種々に顛倒迷妄する人間に、仏教は何を説こうとしたのであろうか。それを的確に詠んだものが先に引用した一休の「ひとり来てひとり帰るも迷いなり 来たらず去らぬ道を教えん」なのだ。人間は独り生まれて独り死ぬというのも迷いなら、生死の此岸から不生不滅の涅槃の彼岸に到るというのも本当は(勝義としては)正しくない。なぜなら、私たちは常に涅槃の床に住し、そこから一歩も離れたことはなく、ただ「無明の眠り」の中で「生死の夢」(今は人間という夢)を見ているがゆえに生死を言い、また涅槃を言うことになるからだ。
これについては、あなたも知っている、弘法大師空海の姪を母にもち、延暦寺の第五代天台座主として、また園城寺(三井寺)を再興し、天台寺門派の祖として、仏教の隆盛に尽力した智証大師円珍(814−891)を引き合いに出すのがいいだろう。
衆生の一念は生死涅槃の源底なり。故に一念三千の法門は顕現し、生死涅槃の二相出生するなり。然りと雖も、心性の本源に於いて全くこれ無し。ただ衆生、迷惑する(迷い惑う)に依りて、生死を説き、涅槃を説き、一念を説き、三千を言う。しかるに、本心を知見すれば、すべて生死涅槃の相を見ず、悉く寂然と無相の妙理あるのみ。生死涅槃の二相は悉く幻化の法なり。
智証『生死本源集』
「衆生の一念」、即ち無明の一念の迷い(心のゆらぎ)に因って、生死と涅槃の二相が生じてきたのであって、心を尽くして「心性の本源」、つまり「本心」を知れば、生死も涅槃も無く、ただ「無相の妙理」(真空の実相・真空妙有)があるのみ。しかし、生死に惑う私たち衆生を本来の場所(無相の妙理)に連れ戻すために、方便として仮に生死・涅槃を言うだけであって、それも「幻化の法」(方便)に過ぎないのだ。
《引用終わり》
仏教は輪廻からの解脱を目指す教えという捉え方もあると思うのですが、そこは初級編のツカミであり、方便なのですね。
《インデックス》
『般若心経』の「三世諸仏」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p314)》
三世とは、過去・現在・未来をいうなり。仏とは、覚者なり。一切有情、皆覚性を備えたり。迷うが故に衆生といい、悟るを仏というなり。自心の外に仏なし。人々自心即ち仏なれば、これを諸仏というなり。三世というも、遠きことにあらず。前念すでに滅したれば過去、後念未だ生ぜざるは未来、その中間のすでに起こりたる当念は現在なり。過去仏、現在仏、未来仏なり。過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得なれば、ただ一念一仏にして、二心二仏あることなし。不去不来、三世常住なり。
《引用終わり》
仏教では、時間をどうとらえているか、ということですが…。
《以下引用(p324)》
…人は独り生まれ、独り死んで逝く。この余りにも当たり前の事実を、いつでも、どこでも忘れず(もちろん元気盛んに仕事に従事しながらも)、自らの心の襞深く繰り返し刻み込むならば、それはもう立派な瞑想(samma-sati)となろうが、多くの人はまた独り肉体を纏ってこの世(四次元時空)に生まれ来ることを「独死独来」という。
世の中の生死の道につれはなし
たださびしくも独死独来 『一休道歌』
しかし仏教(『般若心経』)は、勝義として、生死も輪廻も無い。つまり私たちは、初めより、生まれもせず、死にもせずということであった。そうすると、種々に顛倒迷妄する人間に、仏教は何を説こうとしたのであろうか。それを的確に詠んだものが先に引用した一休の「ひとり来てひとり帰るも迷いなり 来たらず去らぬ道を教えん」なのだ。人間は独り生まれて独り死ぬというのも迷いなら、生死の此岸から不生不滅の涅槃の彼岸に到るというのも本当は(勝義としては)正しくない。なぜなら、私たちは常に涅槃の床に住し、そこから一歩も離れたことはなく、ただ「無明の眠り」の中で「生死の夢」(今は人間という夢)を見ているがゆえに生死を言い、また涅槃を言うことになるからだ。
これについては、あなたも知っている、弘法大師空海の姪を母にもち、延暦寺の第五代天台座主として、また園城寺(三井寺)を再興し、天台寺門派の祖として、仏教の隆盛に尽力した智証大師円珍(814−891)を引き合いに出すのがいいだろう。
衆生の一念は生死涅槃の源底なり。故に一念三千の法門は顕現し、生死涅槃の二相出生するなり。然りと雖も、心性の本源に於いて全くこれ無し。ただ衆生、迷惑する(迷い惑う)に依りて、生死を説き、涅槃を説き、一念を説き、三千を言う。しかるに、本心を知見すれば、すべて生死涅槃の相を見ず、悉く寂然と無相の妙理あるのみ。生死涅槃の二相は悉く幻化の法なり。
智証『生死本源集』
「衆生の一念」、即ち無明の一念の迷い(心のゆらぎ)に因って、生死と涅槃の二相が生じてきたのであって、心を尽くして「心性の本源」、つまり「本心」を知れば、生死も涅槃も無く、ただ「無相の妙理」(真空の実相・真空妙有)があるのみ。しかし、生死に惑う私たち衆生を本来の場所(無相の妙理)に連れ戻すために、方便として仮に生死・涅槃を言うだけであって、それも「幻化の法」(方便)に過ぎないのだ。
《引用終わり》
仏教は輪廻からの解脱を目指す教えという捉え方もあると思うのですが、そこは初級編のツカミであり、方便なのですね。
《インデックス》
無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顛倒無想 究竟涅槃(仏物22)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第六章 迷悟は我にあり」(p299〜334)を読みました。
『般若心経』の「無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顛倒無想 究竟涅槃」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p300)》
というは、真実相の上には、元来生滅なき故に、生死の恐れあることなし。顛倒無想とは、一切の有為の法は、夢の如く、幻の如くにして、実にあることなし。しかるを、凡夫は迷いて、実にありと思えるは、あだなる夢をまことと思えるが如し。これ顛倒無想なり。もし一念空ずる時、一法も得べきなし。これ即ち遠離なり。究竟とは、きわまり尽きたる義なり。万法、皆涅槃を至極とするなり。涅槃とは、不生不滅のところなり。円満清浄の義なり。清浄とは、空の異名なり。
《引用終わり》
解説としては、「仮我の死」と「肉体的な死」は違いますよ!という件を引用してみますと…
《以下引用(p309)》
…私たちは今、生死の二つに隔てられ、生まれることもなければ、死ぬこともない本分の自己(真実の我・本来の面目・金剛の正体)を知らず、世俗の我(五蘊の仮我)を自分と見なす妄執(我執・思惑)ゆえに生死流転しているのであるから、この仮我(妄執)はいつかどこかで終わらなければならない。それではと、仮我を力づくで終わらせ(例えば、自死などによって)、涅槃を得ようとしてはならない。それは鏡に映った自分の姿(「鏡中の像」)を消し去ろうとするようなもので、仮我を終わらせるどころか、かえって「無明の闇」(業縁)を深めることになる。というのも、この身体(仮我)は心が仮に形を結んだものであるから、直接身体に手を掛けるのではなく、つまり苦行をするのでもなく、向かうべきは心であるからだ。
《引用終わり》
以前「死亡したら仏にはならない」という記事を書きましたが、これに対応すると思います。
《以下引用(p312)》
…盤珪は「迷いも涅槃の迷い、悟りも涅槃の悟りなり。迷いて涅槃を出でず、悟りて涅槃に入らず」と言ったが、これは真正の覚者ならではの卓見であろう。すると仏と衆生に優劣・上下の区別はなく、本来無二平等でありながら、違いは「無明生死の夢」から目覚めるかどうか(覚・不覚)であり、しかも目覚めたところが、仏と同じ不生不滅の涅槃の楽界(涅槃の床)であるから、そのためにことさら何かをする、即ち親鸞のいう「自力修繕」(『正像末和讃』)ではないのだ。
《引用終わり》
この後、龍樹の『中論』に触れていきます。「生死即涅槃」を『中論』で初めて知ったときは、私も衝撃を受けました。
《インデックス》
『般若心経』の「無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顛倒無想 究竟涅槃」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p300)》
というは、真実相の上には、元来生滅なき故に、生死の恐れあることなし。顛倒無想とは、一切の有為の法は、夢の如く、幻の如くにして、実にあることなし。しかるを、凡夫は迷いて、実にありと思えるは、あだなる夢をまことと思えるが如し。これ顛倒無想なり。もし一念空ずる時、一法も得べきなし。これ即ち遠離なり。究竟とは、きわまり尽きたる義なり。万法、皆涅槃を至極とするなり。涅槃とは、不生不滅のところなり。円満清浄の義なり。清浄とは、空の異名なり。
《引用終わり》
解説としては、「仮我の死」と「肉体的な死」は違いますよ!という件を引用してみますと…
《以下引用(p309)》
…私たちは今、生死の二つに隔てられ、生まれることもなければ、死ぬこともない本分の自己(真実の我・本来の面目・金剛の正体)を知らず、世俗の我(五蘊の仮我)を自分と見なす妄執(我執・思惑)ゆえに生死流転しているのであるから、この仮我(妄執)はいつかどこかで終わらなければならない。それではと、仮我を力づくで終わらせ(例えば、自死などによって)、涅槃を得ようとしてはならない。それは鏡に映った自分の姿(「鏡中の像」)を消し去ろうとするようなもので、仮我を終わらせるどころか、かえって「無明の闇」(業縁)を深めることになる。というのも、この身体(仮我)は心が仮に形を結んだものであるから、直接身体に手を掛けるのではなく、つまり苦行をするのでもなく、向かうべきは心であるからだ。
《引用終わり》
以前「死亡したら仏にはならない」という記事を書きましたが、これに対応すると思います。
《以下引用(p312)》
…盤珪は「迷いも涅槃の迷い、悟りも涅槃の悟りなり。迷いて涅槃を出でず、悟りて涅槃に入らず」と言ったが、これは真正の覚者ならではの卓見であろう。すると仏と衆生に優劣・上下の区別はなく、本来無二平等でありながら、違いは「無明生死の夢」から目覚めるかどうか(覚・不覚)であり、しかも目覚めたところが、仏と同じ不生不滅の涅槃の楽界(涅槃の床)であるから、そのためにことさら何かをする、即ち親鸞のいう「自力修繕」(『正像末和讃』)ではないのだ。
《引用終わり》
この後、龍樹の『中論』に触れていきます。「生死即涅槃」を『中論』で初めて知ったときは、私も衝撃を受けました。
《インデックス》
依般若波羅蜜多故 心無罣礙(仏物21)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第六章 迷悟は我にあり」(p299〜334)を読みました。
『般若心経』の「依般若波羅蜜多故 心無罣礙」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p300)》
というこころは、菩薩、般若の空智によって修行す。故に、心は虚空界の如くなることを悟りて、一切の業障にさえられず。
《引用終わり》
これに対する解説は以下の通り。
《以下引用(p301)》
いずれにせよ、生死の二つに隔てられ、種々に顛倒迷妄する私たち有情(衆生)が生死を離れ、仏(菩薩)と成るべく定められていることを示したものであるが、菩薩(観自在菩薩)は「般若波羅蜜多に依るが故に」(依般若波羅蜜多故)、小さき心(小心)を尽くして、虚空の如き大心(本心・本性)を悟り、今や「心に罣礙(障り)が無い」(心無罣礙)ことを一休は、「般若の空智によって修行す。故に、心は虚空界の如くなることを悟りて、一切の業障(業縁)にさえられず」としたが、般若の智慧(その智慧もまた、知るもの(人)もいなければ、知られるもの(法)もない空であるから、般若の空智と言い換えている)によって、心は本来空(心空・無心)であると悟れば、人・物すべて(一切の諸法)が皆空となる(「我が心、空なるが故に、諸法もまた空なり」慧海『宛陵録』)。
《引用終わり》
「神秘主義の人間学」の文章と併せてお読み下さい。
「見るもの(人我)と見られるもの(法我)が消え去るところを空という。そして空の体験なくして真実は現われてこない。それは見ているあなたが消えて初めて起こり得ることなのだ。」
《インデックス》
『般若心経』の「依般若波羅蜜多故 心無罣礙」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p300)》
というこころは、菩薩、般若の空智によって修行す。故に、心は虚空界の如くなることを悟りて、一切の業障にさえられず。
《引用終わり》
これに対する解説は以下の通り。
《以下引用(p301)》
いずれにせよ、生死の二つに隔てられ、種々に顛倒迷妄する私たち有情(衆生)が生死を離れ、仏(菩薩)と成るべく定められていることを示したものであるが、菩薩(観自在菩薩)は「般若波羅蜜多に依るが故に」(依般若波羅蜜多故)、小さき心(小心)を尽くして、虚空の如き大心(本心・本性)を悟り、今や「心に罣礙(障り)が無い」(心無罣礙)ことを一休は、「般若の空智によって修行す。故に、心は虚空界の如くなることを悟りて、一切の業障(業縁)にさえられず」としたが、般若の智慧(その智慧もまた、知るもの(人)もいなければ、知られるもの(法)もない空であるから、般若の空智と言い換えている)によって、心は本来空(心空・無心)であると悟れば、人・物すべて(一切の諸法)が皆空となる(「我が心、空なるが故に、諸法もまた空なり」慧海『宛陵録』)。
《引用終わり》
「神秘主義の人間学」の文章と併せてお読み下さい。
「見るもの(人我)と見られるもの(法我)が消え去るところを空という。そして空の体験なくして真実は現われてこない。それは見ているあなたが消えて初めて起こり得ることなのだ。」
《インデックス》
菩提薩埵(仏物20)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第六章 迷悟は我にあり」(p299〜334)を読みました。
『般若心経』の「菩提薩埵」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p300)》
これは天竺のことばなり。悟れる有情という義なり。即ち観自在菩薩なり。
《引用終わり》
《以下引用(p301)》
「菩提薩埵」はインドの古語bodhisattva の音訳で略して菩薩という。それを一休は悟れる有情と解釈し、観自在菩薩を指すとした。ただ有情と衆生は同義(新訳と旧訳の違い)であるから、悟れる有情とは先に彼が菩薩を悟れる衆生というに同じである。また、白隠は菩薩を「大心の衆生」(『毒語心経』)としたが、「大心」とは一休が提唱の初めに、心を大心(Mind)と小心(mind)の二相に分け、前者は一切衆生の我々の上に、元来備わりたる本性とし、大というこころを知らんとならば、先ず我が小さき心を尽くすべしと言ったことを思い出していただければ、一休と白隠が同じ心の理解であったことが分かる。
《引用終わり》
「菩薩」という言葉が多用されているので、「菩提薩埵」の略だと初めて知った時はかなり驚きました。
《インデックス》
『般若心経』の「菩提薩埵」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p300)》
これは天竺のことばなり。悟れる有情という義なり。即ち観自在菩薩なり。
《引用終わり》
《以下引用(p301)》
「菩提薩埵」はインドの古語bodhisattva の音訳で略して菩薩という。それを一休は悟れる有情と解釈し、観自在菩薩を指すとした。ただ有情と衆生は同義(新訳と旧訳の違い)であるから、悟れる有情とは先に彼が菩薩を悟れる衆生というに同じである。また、白隠は菩薩を「大心の衆生」(『毒語心経』)としたが、「大心」とは一休が提唱の初めに、心を大心(Mind)と小心(mind)の二相に分け、前者は一切衆生の我々の上に、元来備わりたる本性とし、大というこころを知らんとならば、先ず我が小さき心を尽くすべしと言ったことを思い出していただければ、一休と白隠が同じ心の理解であったことが分かる。
《引用終わり》
「菩薩」という言葉が多用されているので、「菩提薩埵」の略だと初めて知った時はかなり驚きました。
《インデックス》
無智亦無得 以無所得故(仏物19)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第五章 初転法輪」(p281〜298)を読みました。
『般若心経』の「無智亦無得 以無所得故」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p282)》
というこころは、般若の智を以て、五蘊・十二処・十八界・十二因縁・四諦等を観ずるに、畢竟、皆空なり。その智も空なれば、一法の得べきなし。これを人空・法空というなり。
《引用終わり》
八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)による瞑想の説明を見つけたので、メモっておきます。
《以下引用(p284)》
…正見とは四法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦)ということになり、この正しい見解と方向を見据えてこそ、意・口・身の三業が正され、正思、正語、正業となる。一般的には身・口・意の三業というが、行為の初めに意志(意)があり、それが言葉(口)となって表れ、ついには体(身)で以て実際の行動に移るから、意・口・身の順になっている。この三業が正されれば自ずと生活全体も整い(正命)、さらに一念発起して仏道(般若波羅蜜多)に専ら努めるならば(正精進)、八正道の鍵概念である正念を通して正定に入り、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到るであろうというのが八正道のおおまかなプロセスである。
《引用終わり》
正念について、さらに詳しく…
《以下引用(p285)》
そこで正念と正定ということであるが、正念(samma-sati)のsammaとは正しいという意味であり、satiは念、憶念、想起などの言葉が充てられるが、憶念(例えば、すべては無常・苦・空・無我と深く思い定めて忘れない)、あるいは、想起(例えば、自心即ち仏なることを忘れず、常に思い起こす)というニュアンスに近い。また、英語ではmindfulness、awarenessなどと訳されるようであるが、この世の一切の法(人・物・事)は、夢の如く、幻の如く、実際には存在しない空・無我であり、生死すら夢と深く心に留めておくというのが正念(sati)の基本であるが、さらに弟子のアジタが「煩悩の流れ(欲多く、悩み・不安が絶えないこと)をせき止めるものは何ですか」と尋ねたとき釈尊は次のように答えたという。
アジタよ、世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは正念(sati)であると私は説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。 『スッタニパータ』
《引用終わり》
正定については…
《以下引用(p285)》
心は感覚(五官)を通して、厳密に言えば、第六意識(心)は五根・五識を通して、外から入ってくるさまざまな情報(刺激)に反応して妄りに動くが、それを心のさざ波として、是非・善悪・好悪などを妄りに分別するのではなく、ただ観ていれば(心を観るという意味で天台では「観心」というが、心を心で以てただ観察することが瞑想の基本である。提唱に沿って言うと、自心即ち仏であるから、心を観察することは、自心の仏を想起することでもある)、風が止むと波は自然に収まり、元の静かな海に戻るように、妄道する心(煩悩の流れ)も次第に収まり、やがて元より生ぜず滅せず、それゆえかつて生死の流転を受けたことのない本心・本性(一心の本源)へと入って行く。それを正定(samma-samadhi)、即ち三昧に入るというが、そのとき智慧に目覚め(〈定慧一体〉の瞑想を説いた慧能を思い出していただきたい)、煩悩の流れは塞がれる。もちろん、ここでいう智慧は世間の智慧ではなく、私たちを生死の苦界から涅槃の楽界に渡す出世無漏の智、すなわち般若の智慧(真智)である。したがって、八正道は正念、正定から正智に到って完成し、かくて私たちは「この世(現世)とかの世(来世)」を共に超えた「不死の境地」に住まうことになる。
想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨てる 『スッタニパータ』
《引用終わり》
《インデックス》
『般若心経』の「無智亦無得 以無所得故」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p282)》
というこころは、般若の智を以て、五蘊・十二処・十八界・十二因縁・四諦等を観ずるに、畢竟、皆空なり。その智も空なれば、一法の得べきなし。これを人空・法空というなり。
《引用終わり》
八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)による瞑想の説明を見つけたので、メモっておきます。
《以下引用(p284)》
…正見とは四法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦)ということになり、この正しい見解と方向を見据えてこそ、意・口・身の三業が正され、正思、正語、正業となる。一般的には身・口・意の三業というが、行為の初めに意志(意)があり、それが言葉(口)となって表れ、ついには体(身)で以て実際の行動に移るから、意・口・身の順になっている。この三業が正されれば自ずと生活全体も整い(正命)、さらに一念発起して仏道(般若波羅蜜多)に専ら努めるならば(正精進)、八正道の鍵概念である正念を通して正定に入り、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到るであろうというのが八正道のおおまかなプロセスである。
《引用終わり》
正念について、さらに詳しく…
《以下引用(p285)》
そこで正念と正定ということであるが、正念(samma-sati)のsammaとは正しいという意味であり、satiは念、憶念、想起などの言葉が充てられるが、憶念(例えば、すべては無常・苦・空・無我と深く思い定めて忘れない)、あるいは、想起(例えば、自心即ち仏なることを忘れず、常に思い起こす)というニュアンスに近い。また、英語ではmindfulness、awarenessなどと訳されるようであるが、この世の一切の法(人・物・事)は、夢の如く、幻の如く、実際には存在しない空・無我であり、生死すら夢と深く心に留めておくというのが正念(sati)の基本であるが、さらに弟子のアジタが「煩悩の流れ(欲多く、悩み・不安が絶えないこと)をせき止めるものは何ですか」と尋ねたとき釈尊は次のように答えたという。
アジタよ、世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは正念(sati)であると私は説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。 『スッタニパータ』
《引用終わり》
正定については…
《以下引用(p285)》
心は感覚(五官)を通して、厳密に言えば、第六意識(心)は五根・五識を通して、外から入ってくるさまざまな情報(刺激)に反応して妄りに動くが、それを心のさざ波として、是非・善悪・好悪などを妄りに分別するのではなく、ただ観ていれば(心を観るという意味で天台では「観心」というが、心を心で以てただ観察することが瞑想の基本である。提唱に沿って言うと、自心即ち仏であるから、心を観察することは、自心の仏を想起することでもある)、風が止むと波は自然に収まり、元の静かな海に戻るように、妄道する心(煩悩の流れ)も次第に収まり、やがて元より生ぜず滅せず、それゆえかつて生死の流転を受けたことのない本心・本性(一心の本源)へと入って行く。それを正定(samma-samadhi)、即ち三昧に入るというが、そのとき智慧に目覚め(〈定慧一体〉の瞑想を説いた慧能を思い出していただきたい)、煩悩の流れは塞がれる。もちろん、ここでいう智慧は世間の智慧ではなく、私たちを生死の苦界から涅槃の楽界に渡す出世無漏の智、すなわち般若の智慧(真智)である。したがって、八正道は正念、正定から正智に到って完成し、かくて私たちは「この世(現世)とかの世(来世)」を共に超えた「不死の境地」に住まうことになる。
想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨てる 『スッタニパータ』
《引用終わり》
《インデックス》
無苦集滅道(仏物18)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第五章 初転法輪」(p281〜298)を読みました。
『般若心経』の「無苦集滅道」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p282)》
これは四諦を空ずるなり。四諦とは、即ち苦諦・集諦・滅諦・道諦なり。先ず苦諦とは、過去の業障によって、今この身を受けて、種々の苦あるを、苦諦というなり。集諦とは、集はあつむると読めり。これは過去に諸々の悪業をの因を集め持ちたるをいうなり。滅(諦)とは、一切の煩悩妄想を滅し尽くすをいうなり。道(諦)とは、煩悩を滅して、不生不滅の涅槃の楽界に到る修行のところを、道というなり。これを取り合わせていうときは、先ず今この界へ生まれ、色々の苦を受くる、いかなる因縁ぞというに、過去にて悪行・煩悩を集め持ちたる故に、その因を以て、今この苦を受くる身をまねき得たるなり。さるほどに、この苦を厭い、出離を求むるには、先ず悪業・煩悩を滅する道を修行して、さて、不生不滅、寂滅為楽のところに到る。苦・集の体、元来自空なる間、滅すべき苦・集もなく、修行すべき道もなきが故なり。
《引用終わり》
「諦は真理を意味する」ということですが、釈尊による纏めがありますので、メモっておきます。
《以下引用(p284)》
苦しみを知り(苦諦)、また苦しみの生起するもとを知り(集諦)、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り(滅諦)、また苦しみの消滅に達する道(道諦)をも知った人々、彼らは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。彼らは輪廻を終滅させることができる。彼らは生と老いとを受けることがない。 『スッタニパータ』
《引用終わり》
さらに、苦しみのもととなる無明については次のようにまとめているそうです。
《以下引用(p285)》
,匹鵑紛譴靴澆生ずるのも、すべて無明に縁って起こるのである。
¬橘世残りなく消滅するならば、苦しみは生ずることがない。
このように二種を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。すなわち現世における悟りか、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。 『スッタニパータ』
《引用終わり》
現世における悟りとは、即身成仏ということでしょうか?
《以下引用(p286)》
二つの果報のうち「現世における悟り」を成し遂げたものを無余涅槃とするならば(これを親鸞は無上涅槃と言ったが、「余」とは身体に伴う煩悩のことであり、「無余」とはそれが無いこと)、いまだ身体を纏っているために、それに伴う煩悩を完全に拭い去ってはいないが、今生のこの身が最後(最後身)となり、再び「この迷いの生存に戻らない」ことから、それを有余涅槃という。親鸞はそれを「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」(『教行信証』)と言ったが、後者も身体を脱ぎ捨てる死の時、無余涅槃(無上涅槃)に入るであろうという含みがある。
《引用終わり》
密教と浄土教について、ちょっとだけ考えた記事を以前書いています。これと併せ読みながら、やはり親鸞の思想について学ぶ必要があると感じました。
《インデックス》
『般若心経』の「無苦集滅道」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p282)》
これは四諦を空ずるなり。四諦とは、即ち苦諦・集諦・滅諦・道諦なり。先ず苦諦とは、過去の業障によって、今この身を受けて、種々の苦あるを、苦諦というなり。集諦とは、集はあつむると読めり。これは過去に諸々の悪業をの因を集め持ちたるをいうなり。滅(諦)とは、一切の煩悩妄想を滅し尽くすをいうなり。道(諦)とは、煩悩を滅して、不生不滅の涅槃の楽界に到る修行のところを、道というなり。これを取り合わせていうときは、先ず今この界へ生まれ、色々の苦を受くる、いかなる因縁ぞというに、過去にて悪行・煩悩を集め持ちたる故に、その因を以て、今この苦を受くる身をまねき得たるなり。さるほどに、この苦を厭い、出離を求むるには、先ず悪業・煩悩を滅する道を修行して、さて、不生不滅、寂滅為楽のところに到る。苦・集の体、元来自空なる間、滅すべき苦・集もなく、修行すべき道もなきが故なり。
《引用終わり》
「諦は真理を意味する」ということですが、釈尊による纏めがありますので、メモっておきます。
《以下引用(p284)》
苦しみを知り(苦諦)、また苦しみの生起するもとを知り(集諦)、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り(滅諦)、また苦しみの消滅に達する道(道諦)をも知った人々、彼らは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。彼らは輪廻を終滅させることができる。彼らは生と老いとを受けることがない。 『スッタニパータ』
《引用終わり》
さらに、苦しみのもととなる無明については次のようにまとめているそうです。
《以下引用(p285)》
,匹鵑紛譴靴澆生ずるのも、すべて無明に縁って起こるのである。
¬橘世残りなく消滅するならば、苦しみは生ずることがない。
このように二種を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。すなわち現世における悟りか、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。 『スッタニパータ』
《引用終わり》
現世における悟りとは、即身成仏ということでしょうか?
《以下引用(p286)》
二つの果報のうち「現世における悟り」を成し遂げたものを無余涅槃とするならば(これを親鸞は無上涅槃と言ったが、「余」とは身体に伴う煩悩のことであり、「無余」とはそれが無いこと)、いまだ身体を纏っているために、それに伴う煩悩を完全に拭い去ってはいないが、今生のこの身が最後(最後身)となり、再び「この迷いの生存に戻らない」ことから、それを有余涅槃という。親鸞はそれを「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」(『教行信証』)と言ったが、後者も身体を脱ぎ捨てる死の時、無余涅槃(無上涅槃)に入るであろうという含みがある。
《引用終わり》
密教と浄土教について、ちょっとだけ考えた記事を以前書いています。これと併せ読みながら、やはり親鸞の思想について学ぶ必要があると感じました。
《インデックス》
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽(仏物17)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第四章 縁起―無明の業」(p237〜280)を読みました。
『般若心経』の「無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p238)》
これは十二因縁を空ずるなり。
十二因縁というは、一つには無明なり。これは本心・本性を明らめずして、道理に暗きを以て、迷いを起こすをいうなり。一切の煩悩の根元は、無明より始まるなり。
二つには行なり。これは無明の心が起こりしより、一切善悪の業を作るをいうなり。
三つには識なり。これは妄想・妄念を以て、父母に愛着の念を起して、初めて母の胎内に宿るをいうなり。
四つには名色なり。胎内に宿りて、目口鼻手足などのかたちが出来て、受想行識の四蘊の備わるをいうなり。名色の名とは、四蘊の心のわざなれば、目に見えぬものなる間、名をつけて呼ばざれば、あらわれがたし。かるが故に、名というなり。色は目に見るところの眼耳鼻舌身などをいうなり。心法と色法の二つをかねて、名色というなり。
五つには六入なり。これは心識が眼耳鼻舌身意の六根に行き入りて、六根となるなり。
六つには触なり。これは六根と六塵の相対するをいうなり。眼は色に対し、耳は声に対し、鼻は香に対し、舌は味に対し、身は寒熱・痛痒に対し、意は法に対して相触るる故に、触というなり。
七つには受なり。これは善悪の事を心に受け入れるをいうなり。楽を楽と受け、苦を苦と心に受け入れるをいうなり。
八つには愛なり。これは五蘊などの楽を心に受け入れて、さて、それに愛着の心を起こすをいうなり。
九つには執なり。これは愛着の心によって、深く執着するをいうなり。
十には有なり。これは執着の因縁によりて、未来の身を受くることあるを、有というなり。
十一に生なり。これは前の有の因縁を以て、終にまた生まれ来るをいうなり。
十二には老死なり。これは生まれてより、またやがて年寄りて、死するをいうなり。
これを十二因縁の流転というなり。
過去の無明の業縁によって、今現在に苦を受くる身と生まれ、また今この現在にて作る業縁によりて、未来世にまた生を受け、死しては生まれ、生まれては死し、三世の因果絶えず、三界に流転し、無量の苦を受けて、終に止むことなし。これ皆最初の無明の一念の迷いによって、種々の苦を受くるをいうなり。さるほどに、般若の真空の智を以て、無明は本より空にして、実性あることなし。夢幻の如くと観念をなせば、一切の煩悩妄想、畢竟、皆空にして、種々の夢、覚めたるが如くにて、過去の心も不可得、現在の心も不可得、未来の心も不可得。三世の因果、一念に空じ、六道の輪廻、一時に止むなり。
《引用終わり》
十二因縁については、このブログ内を検索しましたら、『龍樹』を読んでいる時にメモっている記事がありますので、ここにまとめておきます。
論敵の縁起説(龍樹8/20)
『中論』の縁起説(龍樹9/20)
ブッダとは(龍樹14/20)
さて、可藤さんによる解説ですが、まず、△痢峭圈廚里箸海蹐気に入りました。どれだけ意味がかぶるか分かりませんが、先日の「サンスカーラ」です。
《以下引用(p238)》
…不生不滅の道理に暗く、真空の実相に背きて、無時間から時間へ迷い出た輪廻の土台ないし基盤である阿頼耶識(無明の心)から自我意識(末那識)が芽生え、独立した個としての自己を行使するところが、△痢峭圈廚覆里澄6饌療には、無明の心が起こりしより、一切善悪の業を作るとあるように、無明(の心)は悪しき行為だけではなく、善き行為もまた無明から生じてくる。
《引用終わり》
無明により心が起動すると、私たちは一元性の世界から生死・善悪をはじめとする二元性の世界へと入る。
これと対をなしている感じなのがの「有」です。
《以下引用(p258)》
有には本有・死有・中有・生有(しょうう)の四有があるが、本有(今生)で終りかというとそうではなく、ただ死を厭い生に執着して(生を好み死を怖れて)、波羅蜜多の意味する、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到るという観念もなく、死から次の未来の身(順次生)を受くるまでの間、死有・中有・生有の三有をさ迷うところが「有」である。
《引用終わり》
死有とは正に死の瞬間で、そこを過ぎて中有へ入っていきます。中有(バルドもしくはバズラフ)については、「チベット死者の書」による詳しい説明がありました。
《以下引用(p259)》
生処とは次に生まれる処という意味で、具体的には、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄(六道)のいずれかをいう。そうして、中有が死有と生有の「中間」に位置し、本有で纏っていた色身(粗大身)ではなく、神通力を備えた微細な四大・五蘊(「死と生との二有の中の五蘊」)からなる「中有の身」(微細身)が、いまだ至るべき未来の身(順次生)を得ていないので生(生有)とはいわず中有という。…ともあれ、三有(死有・中有・生有)を経たあなた(中有の身)が錯乱の果てに辿り着く一つの可能性が子宮(母胎)であり、かくてあなたは再び地水火風の四大からなる色身(粗大身)を纏い、物質からなるこの世界(四次元時空)へと舞い戻ってくることになる。
《引用終わり》
《インデックス》
『般若心経』の「無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p238)》
これは十二因縁を空ずるなり。
十二因縁というは、一つには無明なり。これは本心・本性を明らめずして、道理に暗きを以て、迷いを起こすをいうなり。一切の煩悩の根元は、無明より始まるなり。
二つには行なり。これは無明の心が起こりしより、一切善悪の業を作るをいうなり。
三つには識なり。これは妄想・妄念を以て、父母に愛着の念を起して、初めて母の胎内に宿るをいうなり。
四つには名色なり。胎内に宿りて、目口鼻手足などのかたちが出来て、受想行識の四蘊の備わるをいうなり。名色の名とは、四蘊の心のわざなれば、目に見えぬものなる間、名をつけて呼ばざれば、あらわれがたし。かるが故に、名というなり。色は目に見るところの眼耳鼻舌身などをいうなり。心法と色法の二つをかねて、名色というなり。
五つには六入なり。これは心識が眼耳鼻舌身意の六根に行き入りて、六根となるなり。
六つには触なり。これは六根と六塵の相対するをいうなり。眼は色に対し、耳は声に対し、鼻は香に対し、舌は味に対し、身は寒熱・痛痒に対し、意は法に対して相触るる故に、触というなり。
七つには受なり。これは善悪の事を心に受け入れるをいうなり。楽を楽と受け、苦を苦と心に受け入れるをいうなり。
八つには愛なり。これは五蘊などの楽を心に受け入れて、さて、それに愛着の心を起こすをいうなり。
九つには執なり。これは愛着の心によって、深く執着するをいうなり。
十には有なり。これは執着の因縁によりて、未来の身を受くることあるを、有というなり。
十一に生なり。これは前の有の因縁を以て、終にまた生まれ来るをいうなり。
十二には老死なり。これは生まれてより、またやがて年寄りて、死するをいうなり。
これを十二因縁の流転というなり。
過去の無明の業縁によって、今現在に苦を受くる身と生まれ、また今この現在にて作る業縁によりて、未来世にまた生を受け、死しては生まれ、生まれては死し、三世の因果絶えず、三界に流転し、無量の苦を受けて、終に止むことなし。これ皆最初の無明の一念の迷いによって、種々の苦を受くるをいうなり。さるほどに、般若の真空の智を以て、無明は本より空にして、実性あることなし。夢幻の如くと観念をなせば、一切の煩悩妄想、畢竟、皆空にして、種々の夢、覚めたるが如くにて、過去の心も不可得、現在の心も不可得、未来の心も不可得。三世の因果、一念に空じ、六道の輪廻、一時に止むなり。
《引用終わり》
十二因縁については、このブログ内を検索しましたら、『龍樹』を読んでいる時にメモっている記事がありますので、ここにまとめておきます。
論敵の縁起説(龍樹8/20)
『中論』の縁起説(龍樹9/20)
ブッダとは(龍樹14/20)
さて、可藤さんによる解説ですが、まず、△痢峭圈廚里箸海蹐気に入りました。どれだけ意味がかぶるか分かりませんが、先日の「サンスカーラ」です。
《以下引用(p238)》
…不生不滅の道理に暗く、真空の実相に背きて、無時間から時間へ迷い出た輪廻の土台ないし基盤である阿頼耶識(無明の心)から自我意識(末那識)が芽生え、独立した個としての自己を行使するところが、△痢峭圈廚覆里澄6饌療には、無明の心が起こりしより、一切善悪の業を作るとあるように、無明(の心)は悪しき行為だけではなく、善き行為もまた無明から生じてくる。
《引用終わり》
無明により心が起動すると、私たちは一元性の世界から生死・善悪をはじめとする二元性の世界へと入る。
これと対をなしている感じなのがの「有」です。
《以下引用(p258)》
有には本有・死有・中有・生有(しょうう)の四有があるが、本有(今生)で終りかというとそうではなく、ただ死を厭い生に執着して(生を好み死を怖れて)、波羅蜜多の意味する、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到るという観念もなく、死から次の未来の身(順次生)を受くるまでの間、死有・中有・生有の三有をさ迷うところが「有」である。
《引用終わり》
死有とは正に死の瞬間で、そこを過ぎて中有へ入っていきます。中有(バルドもしくはバズラフ)については、「チベット死者の書」による詳しい説明がありました。
《以下引用(p259)》
生処とは次に生まれる処という意味で、具体的には、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄(六道)のいずれかをいう。そうして、中有が死有と生有の「中間」に位置し、本有で纏っていた色身(粗大身)ではなく、神通力を備えた微細な四大・五蘊(「死と生との二有の中の五蘊」)からなる「中有の身」(微細身)が、いまだ至るべき未来の身(順次生)を得ていないので生(生有)とはいわず中有という。…ともあれ、三有(死有・中有・生有)を経たあなた(中有の身)が錯乱の果てに辿り着く一つの可能性が子宮(母胎)であり、かくてあなたは再び地水火風の四大からなる色身(粗大身)を纏い、物質からなるこの世界(四次元時空)へと舞い戻ってくることになる。
《引用終わり》
《インデックス》
無眼界乃至無意識界(仏物16)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第三章 仏教の意識論」(p154〜236)の「1.六塵の境界」(p155〜185)を読みました。
『般若心経』の「無眼界乃至無意識界」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p155)》
これは十八界を空ずるなり。前の六根・六塵を合せて十二処という。この十二処に六識を加えて十八界というなり。六識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識なり。眼に青黄赤白黒の色、大小長短のかたちを分別するを、眼識というなり。耳に種々の音声を聞き分くるを、耳識というなり。鼻によき匂い、悪しき匂いを嗅ぎ分くるを、鼻識という。舌に五味を甞め知るを、舌識というなり。身に暑さ寒さを触れて覚え、痛さ痒さを分かち知るを、身識という。意に一切の是非・善悪を種々に分別するを、意識というなり。十八界というこころは、物の境かぎりあるを、界というなり。眼は声を聞かず、耳は色を見ず、その司るところの格別なる故に、眼界・耳界というなり。
《引用終わり》
十八界については前にまとめたのがありました。
ところで…
《以下引用(p172)》
…身識について言っておきたいことがある。
一休は最晩年に盲目の森女と出遇い、78歳からほぼ十年間、逢瀬を楽しみ、この間「吸美人婬水」(美人の婬水を吸う)、「美人陰有水仙花香」(美人の陰に水仙花の香り有り)など、彼女との親密な関係を窺わせる漢詩をいくつか残したとされ、彼の人となりを俎上に載せる場合、格好の資料となっているようであるが、確かに読み物としては面白いかもしれないが、それで終わらせては詮も無い。…
一休が坐禅(〈定慧一体〉の瞑想)に専心するあまり顔色は憔悴し、それを見かねた弟子たちがお伺いをたてたところ、彼は次のように認めたという。
「本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ」
「我のみか釈迦も達磨も阿羅漢も この君ゆえに身をやつしけれ」
世の人恋という事は性肉的愛恋のみと知るも、霊の愛恋こそ霊界の偉人を産出する原因となる事を知らず。
山崎弁栄『光明の生活』
愛(恋)にも二つがあり、いわゆる男女のそれ、もう一つは「霊界の偉人」たちが身を焦がした「君」、即ち本来の面目(真実の我)である。一休は自らも含め、かつて世に現れた釈迦、達磨、阿羅漢など、多くの聖賢たちは、この「本来の天真仏」(衆生は本来、先天的に仏であるが、今は客塵煩悩ゆえに生死に迷う迷道の衆生になっている)を知って身をやつしたのではないか。否、彼はその美の映しを盲目の森女の中にも見ていたのではないか。ところが世の人は「人恋」のみに終始し、そうであってはならないことを、弁栄は一休を例に挙げているのだ(私は性肉的愛恋を無下に貶めているのではない、むしろ私たちは「人恋」を通して「霊の愛恋」へと進むと言っておきたい)。「この君」を親鸞は阿弥陀仏(阿弥陀仏は我が心の異名であり、その心は「明々たる本心」を指していた)、空海は本より私たちの心の中央(心王)に坐す大日如来(遮那)とした。
遮那(しゃな)は中央に坐(いま)す
遮那は阿誰(たれ)の号(な)ぞ
本是(もとこれ)我が心王なり
《引用終わり》
一休さんにもスキャンダルがあったのですね。ただ、あこがれの「君」は、釈尊と呼ぶも良し、阿弥陀と呼ぶも良し、大日如来と呼ぶも良し…我が心王であるわけです。
最後に『ルーミー語録』からの引用をメモっておきます。
《以下引用(p174)》
神の御書(みふみ)の写しなる汝よ
王者の美を映す鏡なる汝よ
この世なるすべてを内に蔵した汝よ
自らの内面にこそ探し求めよ
これぞ我がものといいたいものがあるならば。
《引用終わり》
《インデックス》
『般若心経』の「無眼界乃至無意識界」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p155)》
これは十八界を空ずるなり。前の六根・六塵を合せて十二処という。この十二処に六識を加えて十八界というなり。六識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識なり。眼に青黄赤白黒の色、大小長短のかたちを分別するを、眼識というなり。耳に種々の音声を聞き分くるを、耳識というなり。鼻によき匂い、悪しき匂いを嗅ぎ分くるを、鼻識という。舌に五味を甞め知るを、舌識というなり。身に暑さ寒さを触れて覚え、痛さ痒さを分かち知るを、身識という。意に一切の是非・善悪を種々に分別するを、意識というなり。十八界というこころは、物の境かぎりあるを、界というなり。眼は声を聞かず、耳は色を見ず、その司るところの格別なる故に、眼界・耳界というなり。
《引用終わり》
十八界については前にまとめたのがありました。
ところで…
《以下引用(p172)》
…身識について言っておきたいことがある。
一休は最晩年に盲目の森女と出遇い、78歳からほぼ十年間、逢瀬を楽しみ、この間「吸美人婬水」(美人の婬水を吸う)、「美人陰有水仙花香」(美人の陰に水仙花の香り有り)など、彼女との親密な関係を窺わせる漢詩をいくつか残したとされ、彼の人となりを俎上に載せる場合、格好の資料となっているようであるが、確かに読み物としては面白いかもしれないが、それで終わらせては詮も無い。…
一休が坐禅(〈定慧一体〉の瞑想)に専心するあまり顔色は憔悴し、それを見かねた弟子たちがお伺いをたてたところ、彼は次のように認めたという。
「本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ」
「我のみか釈迦も達磨も阿羅漢も この君ゆえに身をやつしけれ」
世の人恋という事は性肉的愛恋のみと知るも、霊の愛恋こそ霊界の偉人を産出する原因となる事を知らず。
山崎弁栄『光明の生活』
愛(恋)にも二つがあり、いわゆる男女のそれ、もう一つは「霊界の偉人」たちが身を焦がした「君」、即ち本来の面目(真実の我)である。一休は自らも含め、かつて世に現れた釈迦、達磨、阿羅漢など、多くの聖賢たちは、この「本来の天真仏」(衆生は本来、先天的に仏であるが、今は客塵煩悩ゆえに生死に迷う迷道の衆生になっている)を知って身をやつしたのではないか。否、彼はその美の映しを盲目の森女の中にも見ていたのではないか。ところが世の人は「人恋」のみに終始し、そうであってはならないことを、弁栄は一休を例に挙げているのだ(私は性肉的愛恋を無下に貶めているのではない、むしろ私たちは「人恋」を通して「霊の愛恋」へと進むと言っておきたい)。「この君」を親鸞は阿弥陀仏(阿弥陀仏は我が心の異名であり、その心は「明々たる本心」を指していた)、空海は本より私たちの心の中央(心王)に坐す大日如来(遮那)とした。
遮那(しゃな)は中央に坐(いま)す
遮那は阿誰(たれ)の号(な)ぞ
本是(もとこれ)我が心王なり
《引用終わり》
一休さんにもスキャンダルがあったのですね。ただ、あこがれの「君」は、釈尊と呼ぶも良し、阿弥陀と呼ぶも良し、大日如来と呼ぶも良し…我が心王であるわけです。
最後に『ルーミー語録』からの引用をメモっておきます。
《以下引用(p174)》
神の御書(みふみ)の写しなる汝よ
王者の美を映す鏡なる汝よ
この世なるすべてを内に蔵した汝よ
自らの内面にこそ探し求めよ
これぞ我がものといいたいものがあるならば。
《引用終わり》
《インデックス》
無色声香味触法(仏物15)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第三章 仏教の意識論」(p154〜236)の「1.六塵の境界」(p155〜185)を読みました。
『般若心経』の「無色声香味触法」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p154)》
これを六塵という義は、この六塵も皆空なりと説きたまうなり。六塵という時は、皆塵の字をつけていうぞ。色塵・声塵・香塵・味塵・触塵・法塵、これなり。塵は、ちりと読めるは、物を汚すものなり。目も耳も、いまだ物の色を見ず、声を聞かざる以前は、元来清浄にして、無念無想なるものなれども、色を見、声を聞くことによりて、うつくしきものを見ては、欲しく思い、おもしろき声を聞いては、心をとられ、見ること、聞くことに迷い、貧着の思いを起こす故に、煩悩の汚れに染むを以て、塵というなり。しかるに、般若の智を以て、皆空なりと観ずる時は、六根・六塵ともになきものなり。なしというとも、今までありつる物を払い捨てて、今よりはじめてなしというにあらず。この六根・六塵の自体、元より空なるが故に、なしというなり。
《引用終わり》
解説です。
《以下引用(p164)》
まず、六根が身心(私)に備わる感覚ないし知覚器官であったのに対して、六塵は六根・六識の対象(対境)として、それぞれ対応している(この点では塵と言うよりも、境の方がその意味をよく表している。以後、適宜使い分ける)。また六根・六識を認識の主体とするならば、六境(六塵)は認識の客体ということになり、六根・六識と六境(六塵)は主客の関係にある。…
…色声香味触法の六塵などと聞くと、六境それ自身が汚れた塵のような印象を受けるが、一休の理解はそうではない。眼(眼根・眼識)と色(色境=色塵)の関係で示せば、ただ見るだけならば何の問題もないが、私たちは見た物(対象)が実際に存在すると思い、なおかつ自分かってに意味や好悪・美醜・価値(主観)を押し付け、実際の行動に移る。…
それを一休は見ることに迷うと言ったが、それは見ることにかぎったことではなく、色声香味触法のすべてが本来清浄な心(大心・本心・仏心)の鏡に積もる塵(客塵煩悩)となって、私たちは真実が観えていないだけではなく、三界・生死の世界を巡る「迷道の衆生」となっているのだ。ここに『般若心経』の底流にある「行」の必要性が生じてくる。提唱に沿って言えば、小心(人心)を尽くして、大心(仏心)を明らかにし、元より後者に備わる般若の智慧(般若の空智)で以て観る時、六根・六識が捉えていた「六塵の境界」(妄境界)はそこにはなく(般若の智を以て、皆空なりと観ずる時は、六根・六塵ともになきものなり)、その後から一真実(真実空相)の世界が了々と立ち現われてくるということだ。
《引用終わり》
「六塵は六根・六識の対象(対境)」という説明は分かりやすいですね。空海の言に「六塵ことごとく文字なり」というのがありましたが、またひとつシックリきました。
《インデックス》
『般若心経』の「無色声香味触法」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p154)》
これを六塵という義は、この六塵も皆空なりと説きたまうなり。六塵という時は、皆塵の字をつけていうぞ。色塵・声塵・香塵・味塵・触塵・法塵、これなり。塵は、ちりと読めるは、物を汚すものなり。目も耳も、いまだ物の色を見ず、声を聞かざる以前は、元来清浄にして、無念無想なるものなれども、色を見、声を聞くことによりて、うつくしきものを見ては、欲しく思い、おもしろき声を聞いては、心をとられ、見ること、聞くことに迷い、貧着の思いを起こす故に、煩悩の汚れに染むを以て、塵というなり。しかるに、般若の智を以て、皆空なりと観ずる時は、六根・六塵ともになきものなり。なしというとも、今までありつる物を払い捨てて、今よりはじめてなしというにあらず。この六根・六塵の自体、元より空なるが故に、なしというなり。
《引用終わり》
解説です。
《以下引用(p164)》
まず、六根が身心(私)に備わる感覚ないし知覚器官であったのに対して、六塵は六根・六識の対象(対境)として、それぞれ対応している(この点では塵と言うよりも、境の方がその意味をよく表している。以後、適宜使い分ける)。また六根・六識を認識の主体とするならば、六境(六塵)は認識の客体ということになり、六根・六識と六境(六塵)は主客の関係にある。…
…色声香味触法の六塵などと聞くと、六境それ自身が汚れた塵のような印象を受けるが、一休の理解はそうではない。眼(眼根・眼識)と色(色境=色塵)の関係で示せば、ただ見るだけならば何の問題もないが、私たちは見た物(対象)が実際に存在すると思い、なおかつ自分かってに意味や好悪・美醜・価値(主観)を押し付け、実際の行動に移る。…
それを一休は見ることに迷うと言ったが、それは見ることにかぎったことではなく、色声香味触法のすべてが本来清浄な心(大心・本心・仏心)の鏡に積もる塵(客塵煩悩)となって、私たちは真実が観えていないだけではなく、三界・生死の世界を巡る「迷道の衆生」となっているのだ。ここに『般若心経』の底流にある「行」の必要性が生じてくる。提唱に沿って言えば、小心(人心)を尽くして、大心(仏心)を明らかにし、元より後者に備わる般若の智慧(般若の空智)で以て観る時、六根・六識が捉えていた「六塵の境界」(妄境界)はそこにはなく(般若の智を以て、皆空なりと観ずる時は、六根・六塵ともになきものなり)、その後から一真実(真実空相)の世界が了々と立ち現われてくるということだ。
《引用終わり》
「六塵は六根・六識の対象(対境)」という説明は分かりやすいですね。空海の言に「六塵ことごとく文字なり」というのがありましたが、またひとつシックリきました。
《インデックス》