トトガノート

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「空海の風景」

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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十五」を読みました。

《以下引用》
…密教的成仏たるや、他の仏教体系なら人間が成仏するなど気が遠くなるほどに可能性が小さいにもかかわらず、密教にあってはそのまま“即身”の姿で成仏できる。つまり仏教一般の通念からいえばありうべからざるほどに異様なダイナミズムを持っているはずであるのに、唐の朝廷ではそのことにさほどの関心をもたなかった。繰りかえすようだが、密教の壮大な形而上学や即身成仏などという観念上の果実をよろこばず、ごく現実的な行者の呪力のほうをよろこんだ。
《引用終わり》

このことは、金剛智不空善無畏の生涯を見たところにも出てきました。

《以下引用》…
道教はもともと単に鬼神を祀って招福を祈ったり禍福を占ったりする程度のものだったが、仏教の渡来とともに大胆にその教説、とくに宇宙構造の説を剽窃するようになった。

…仏教もまた中国化して中国という思想風土に根付くにおいては、道教に負うところが多かったということはいえる。たとえばサンスクリットの形而上的なことばを翻訳するにあたって、多くの造語もおこなわれたが、似たような言葉が中国に存在する場合は、それが借用された。そういう言葉の中には…老荘の哲学用語が多く、つまりは老子を権威として教祖であると称している道教と、当然、多くの術語が共通してくる。このためもあって、唐の時代になれば道といい仏というが要するに両者似たようなものではないかという印象が中国世界では一般化され、となれば似たものである以上、中国の固有である道教を重んずるほうがよろしかろうという気分がつよくなったということがいえるかもしれない。
《引用終わり》

中国で「空」と「無」をごっちゃにしているような話がありましたが、これと関係あるかもしれませんね。

《以下引用》…
ともかくも、盛唐以後の唐朝にあっては、道教の宮廷勢力が大きかった。これに対抗するのに、金剛智も善無畏もあるいは不空も、呪術をもって渡り合わざるをえなかったのは当然であっただろう。これがために金剛智や善無畏の将来した純粋密教が、せっかくぼう大な思想体系をもちながら、その宮廷に対する接触面においては呪術や加持祈祷、さらには西胡(イラン)の幻戯のようなまねまでせざるをえなかった。純密が中国に渡来するにあたって、呪術性という点で似たような道教が存在したということは、密教にとって、逆縁としても順縁としても、不幸であったといえる。
《引用終わり》

空海がこれからもたらす密教に対して日本の朝廷はどうだったのか…先が楽しみです。

《以下引用》…
空海が長安に入ったこの時期、密教はすでに退潮気味であった…。事実、恵果の晩年のこの時期には、すぐれた若者が密教を志さなくなっていたのではないか。
《引用終わり》

恵果を五カ月近くも「置きっぱなし」にしている間に、長安での空海の評判は高まっていきました。その者はなぜ自分のところに来ないのか?という思い、また己の死期の近いことを悟っての焦り。それらが恵果の中で膨らみきったところに、空海は現われます。

異国より訪れた初対面の空海に、何の試問も行わず、すべてを与えてしまうという奇跡が、かくして実現します。

《つづく》


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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十六」を読みました。

《以下引用》
…インドにおいては、その後の人類が持ったほとんどの思想が、空海のこの当時までに出そろってしまっているが、それらの思想は、当然、言語に拠った。厳密に整理され、きびしく法則化されてきたサンスクリット語によって多くの思想群が維持され、発展してきたが、空海がすでに日本において学びつくした釈迦の教えやそれをささえているインド固有の論理学や認識学も、さらに蘊奥を知るには中国語訳だけでなくこの言語に拠らねばならない、ということは、インド僧だけがそういうのでなく、インド的体温のまだ冷めないこの時代の唐の仏教界では中国僧もそう思っていたにちがいない。
《引用終わり》

恵果に会わずに「置きっぱなし」にしていた5カ月間、空海は、世界中のものが揃っていた長安という都において、その好奇心と吸収力を存分に発揮したようです。そして密教習得に不可欠なサンスクリット語(梵語)も、インドの僧から習っていたようです。

《以下引用》
…恵果の空海に対する厚遇は、異常というほかない。
空海をひと目みただけで、この若者にのみ両部をゆずることができると判断し、事実、大いそぎでそのことごとくを譲ってしまったのである。空海は日本にあってどの師にもつかずに密教を独習した。恵果は空海を教えることがなかった。伝法の期間、口伝の必要なところは口伝を授け、印契その他動作が必要なところはその所作を教えただけで、密教そのものの思想をいちいち教えたわけでなく、すべて空海が独学してきたものを追認しただけである。空海の独学が的外れなものでなかったことを、この一事が証明している。
《引用終わり》

奇跡のような偶然の積み重ねが空海という一点に集結し、密教は日本にもたらされました。余りにも偶然が重なり過ぎているがゆえに、何か大きな「必然」に見えてしまいます…。

《以下引用》
…空海は、恵果から、一個人としてゆずりうけたのである。…
空海の帰国後の痛烈さは、こういうことにも多少理由があるであろう。かれは、その思想が宇宙と人類をのみ相手にしているというせいもあって、国家とか天皇とかという浮世の約束事のような世界を、布教のために利用するということは考えても、自分より上の存在であるとは思わず、対等、もしくはそれ以下の存在として見ていた気配があるし、また国務でもって天台を導入した最澄に対し、空海の天台体系への仏教論的軽視ということはあるにせよ、ごくつまらぬ存在であるかのようにあつかったのは、このあたりに根のひとつを見出しうるかもしれない。
空海は、極端にいえば私費で、そして自力で、密一乗を導入した。
《引用終わり》

空海の奇跡はまだまだ続きます。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十七」を読みました。

空海の長安滞在中に、日本国から使者が来ました。遣唐使ではなく、単なる使者。この人たちと空海は帰国することになります。留学生としては20年くらいは滞在することになっていましたから、二年にも満たない滞留で帰って来るのは異例中の異例。罰せられてもおかしくないことだったようです。

しかし、空海は帰ってきます。桓武天皇による度重なる遷都などで国家財政は疲弊し、次の遣唐使をいつ出せるか分からないという状況でした。空海は既に入唐の目的を達成しており、すぐに帰って日本で活動したいと主張し、それが認められたということでしょう。実際、その後30年間、遣唐使は途絶えており、このタイミングで帰らなければ、空海は二度と帰国できなかったと考えられます。

帰国は唐の皇帝の許しも必要になりますが、「朕はこの僧をとどめて自分の師にしようと思っていた。しかしひきとどめるわけにはゆくまい。」と言われたとのこと。

《以下引用》
空海は、その書芸においても詩文においても、華麗さを楽しみ、花や玉の美しさを創造することができる人であり、その才華は長安の都市美のなかにおいてこそ輝くことができ、さらには長安の人士と詩文を交換しあうときにこそ充足を見出すものであったであろうことは想像に難くない。これだけの才華が、陋隘な故郷をめざすというのは、ことさらかれの道心を別にして考えれば、身をひき裂かれるような思いであったろうか。
この時代の唐の才能のある人士は、長安に居ることに固執した。官を辺境に得て長安を離れねばならない者はその詩でその悲しみを歌い、地方勤務の長い者は長安を恋うるの詩をつくり、長安にいる者も、長安に居つつもなお飽くことなく長安の美を詩の中でうたいつづけた。きわだった芸術的才能をもつ空海が――つまり芸術家としての空海の半身が――長安を離れるにあたって何の感慨ももたなかったということは、むろん考えられない。
…《引用終わり》

それでも、空海は長安を後にします。日本に密教を伝えたいという願いは変りませんでした。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第六章 長安」を読みました。

《以下引用》
青龍寺の縁起は、隋の時代、六世紀後半にさかのぼる。当初は霊感寺といった。その後、寺名を変え、青龍寺となったのは唐代(711年)のことである。それからおよそ六十年後、恵果がこの寺に入ってから本格的な密教の道場として栄えたが、845年、唐皇帝武宗の命による徹底的な廃仏の嵐を受けて青龍寺も破壊された。かろうじて場所を移し細々と命脈を保ったようだが、記録の上では宋代、十一世紀初頭をもってついに青龍寺は潰えた。
…《引用終わり》

1973年になって青龍寺の跡が発見されました。80年代に入って、恵果空海紀念堂が建てられ、密教の修行も行われているとのこと。NHKの取材当時、青龍寺の住職は寛旭という人で、31歳という若さ。以下は、彼へのインタビュー。

《以下引用》
「建物という器を復元するのは簡単ですが、法を弘めることは困難なことです。私は、この寺に1997年12月に来ました。15歳で出家し、その後、普陀山をはじめ中国各地に寺院で修行したのち、ここに来たのです。私自身の意思ももちろんありましたが、中国仏教協会が廃絶した密教をここから再興させようと私を選んだのです。中国では、浄土系、禅宗など七つの系統の仏教は残されていますが、密教だけは途絶えてありません」
――それでは密教はどこで学ばれてきたのですか?
「私が潅頂を受けたのは98年、香港においてでした。潅頂を授けてくれたのは日本の長谷寺の僧侶です。潅頂といっても、私が受けたのは一般の信者が仏縁を結ぶために行う最も初歩の段階の結縁潅頂と呼ばれるものでした。最終目標の伝法潅頂など、毎日懸命に修行しなければ一生受けられない可能性もあります。がんばらなくてはなりません」

「…私は、青龍寺に来てはじめて空海の存在を知りました。直接の師がいない私にとって空海は心の師です。恵果が空海に密教を伝えなかったら、密教は中国はおろかこの世に存在していなかったかも知れません。空海が日本に伝えたおかげで、密教は今も生きているのです」
…《引用終わり》

中国仏教が音をたてて崩れ始めている中で、一瞬の隙を捉え、空海という男が中に入り込み、「法」を救助した…そんな感じがします。恵果も空海も、その後の展開が分かっていたかのように行動しています。それが、何とも不思議です。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十八」を読みました。

ひと足先に帰国して天台宗の体系を持ちかえった最澄ですが、桓武天皇や廷臣たちの関心は、ついでに越州から持ちかえった密教に集中しました。空海が出発したころの無関心さとは一変していました。玄宗皇帝が不空の密教に傾倒したという話が伝わってきたのに、密教は伝わっていなかったために、大いに関心がたかまっていたのです。

桓武天皇は、最澄のもたらした天台については触れず、密教にのみ昂奮し、密教をもたらしたがゆえに最澄を国師であるとし、旧仏教の長老たちに潅頂を受けさせよ、と命じました。

最澄の密教は、越州で(ひと月ほど滞在)、順暁という僧から教わったものでした。
《以下引用》
このとき最澄自身には自分が何を得たのか、十分わからなかった(あとになって最澄は気づき、最澄らしくきまじめな、いわば好もしい態度で狼狽する)。さらにいうと、最澄はこの越州でのあわただしい相承のとき、正統密教を構成する二つの部門である金剛界も胎蔵界も、区別がつかなかったような気配さえある。
…《引用終わり》

一方、帰国の途に就いた空海もこの越州に四カ月ほど滞在し、神秀という華厳の大学者に会い、その奥旨を会得しました。

帰国した者は大宰府に一旦滞在し、朝廷からの指示を待つのが恒例でした。そして、なぜか、空海だけが残留し、一年ほどここで過します。大宰府には観世音寺があり、奈良六宗の西国における出先機関でした。

《以下引用》…
空海の旧仏教に対する立場が――これは生涯を通じてのことであったが――最澄ときわだって異なっている。空海が、越州において華厳学者神秀を訪ねたことでもわかるように、かれは奈良六宗の一部門である華厳学に関心が深かった。かれは入唐以前、大日経的世界を独力で模索していたとき、独力ながらもその深奥に達することができたのは、大日経世界に類似する哲学ともいうべき華厳経に通じていたからであった。空海は華厳経に対して学恩を感じていたようであってし、ひきつづき関心を継続させていた。のちにかれは華厳研究の専門機関である東大寺の別当に一時期就任するはめになってしまう(空海が別当になったことによって東大寺の華厳哲学に密教的解釈が入るようになり、こんにちなおその伝統がつづいている)。つまり、それほどまで、空海は奈良仏教に親近感をもっていたし、すくなくとも最澄のようには排撃しなかった。

すでに、奈良六宗のひとびとは、最澄から攻撃されるまでもなく、自分たちの仏教が論であって教ではないと思い、旧物に化しつつあるという落魄感を、多少はもつむきもあったに相違ない。やがてその救いを、最澄と対立するかのような空海に求めようとするのだが、
この筑紫においてもすでにそうであったであろうか。観世音寺の学僧たちは空海の説くところをきいて、すくなくともその教説に敵意は持たなかったことだけは、十分想像しうる。…《引用終わり》

最澄を国師としたところに、空海が現われました。密教の伝法者が二人も出現し、朝廷は当惑したことでしょう。僧と寺に関する最高行政機関の僧綱所が調査をしたはずです。僧綱所は、不空の嫡系が恵果であることも知っていたであろうから、空海が不空密教の正嫡であることも想像できたでしょう。一方、最澄に密教を譲った越州の順暁がどういう人かも分かっただろうし、最澄は越州に一カ月足らずしか居なかったことも調べたでしょう。

「最澄、未ダ唐都ヲ見ズシテ、只辺州ノミニ在ツテ即便還リ来ル」という痛烈な奏文を、後年、奈良の長老護命ら書いているとのこと。

以上は、空海だけが大宰府に残留したことに関する司馬遼太郎の推理です。

ともあれ、「上京してその教えを流布せよ」という勅命が、空海に下ります。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十九」を読みました。

大宰府を立った空海ですが、和泉国(大阪府南部)の槇尾山寺に留まり、尚も京に入ることをしませんでした。ここで、もち帰った経典類を整理するとともに、おそらく恵果から託された「両部不二」の着想を論理化・結晶化させていったのではないかと思われます。

この間、最澄は苦しい立場に追い込まれていきます。最澄は旧仏教(奈良仏教)に対して、「論であって教ではない。天台宗こそ教たりうる」という批判をしていました。唐に行く時には「天台宗でいいぞ!」と言ってくれた桓武天皇が、帰国してみると「密教だ!」ということに豹変しておりました。越州で密教(雑密の一種)をちょっとかじってきたということに大喜びされてしまい、それを用いて旧仏教の長老たちを潅頂するよう、最澄は命じられます。

後になって思えば、この命を気骨をもって、辞退すれば良かったのでしょうが、相手が二度も遷都するような強引な帝ということになれば、楯つくこともできないのが普通です。

最澄に対する旧仏教勢力の憎悪が頂点に達したところで、この原因をつくった張本人の桓武天皇が御隠れになります。そのすぐ後に、正統な密教の継承者となった空海が帰国。空海は旧仏教勢力とは親しい関係にありました。

当時は政教一致ですから、空海の登場は政変と言ってもいいような気がします。が、歴史上あくまでも宗教の話となっているのは、空海の密教が余りにも完璧だったからではないかな、と思います。空海も持っていたにちがいない野望を、完全に覆い隠すほどに壮大かつ堅固な「法」の要塞…。

《以下引用》…
いまでも、私のなかにその疑問がある。真言宗は空海以後、多くの俊才が出たが、しかし教義を発展させるという仕事は、ほとんどしていないように思える。空海が、完璧な体系をつくりすぎたせいではないか、ということである。

空海と最澄とはさまざまな面で対照的であるが、この面でも逆であった。最澄は唐から持ちかえった天台宗や越州の密教を、多くは整理しきれず、その間奈良仏教との抗争などで忙殺され、未整理であることを憂えつつ死んでしまった。しかしひるがえっていえば、そのことがむしろ後世を益したともいえるのである。たとえば天台密教の成立は最澄が死んでからのことであったし、また鎌倉の新興仏教の祖師たちが、最澄の持ちかえったものを部分的に独立させ、部分において深めたことなどを思うと、最澄のように、唐から請来した諸思想を完璧な一個の体系にすることなく――極端な言い方をすれば――叡山の上に置き去りにしたというほうが、歴史の発達のためにはよかったかもしれない、という意味なのである。
…《引用終わり》

対照的な二つの体系が併存したことは、仏教史のみならず日本史を豊かにしたと言えるでしょう。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第七章 博多」を読みました。

《以下引用》
空海は長安で多くの請来品を得たようだが、それでもまだ帰国途中に越州地方に立ち寄り、百六十ほどの経書を蒐集したようである。それは越州の役人に宛てて書いた手紙「内外の経書を求める啓」によって明らかだ。注目すべきは、以下の記述である。
「伏して願わくは、彼の遺命を顧みて此の遠渉を愍みて、三教の中の経・律・論・疏・伝記、乃至詩・賦・碑・銘・卜・医・五明所摂の教えの、蒙を発き、物を済うべき者、多少遠方に流伝したまえ」(『性霊集』)

三教とは仏教、道教、儒教を指す。空海はかつて『三教指帰』で手厳しく批判した道教や儒教についても、その教えにかかわる書物をあまねく蒐集したいという。「卜」とは占術であり、「五明」とはインド伝来の科学を意味している。確固たる密教の後継者でありながら、その枠にとらわれず宗教の枠も超え、医学や科学など、およそいまだ無知蒙昧な日本の人々の知識を増進し幸福をもたらすと思われる最先端の学問をすべて持ち帰りたいというのである。のちに空海が日本で多方面にわたって活躍した素地がここにある。
…《引用終わり》

密教で食えなかったら他のことで…なんてことを考える人ではなかったでしょうから、分け隔てなく知的好奇心の旺盛な方だったんですね。

例えば、政教分離が現代では当たり前なことであるように、物事には境い目があります。何かの専門家であれば他の分野には手を出さないのが普通です。でも、昔はそういう考え方はなかったのかもしれません。

あるいはこれらの知識も大日如来に帰するものとして、密教への統合を考えていたのか…。

現代でも、これだけ内容の濃い海外出張はなかなかできないような気がします。空海の超人ぶりは想像を絶します。

《つづく》


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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十」を読みました。

この章は朝廷の中のドロドロとした人間関係が描かれています。

まず、空海その人について。空海の母方の血筋に玄ぼう(日へんに方)という人がいたのですが、奈良朝の頃に政界で力を持ち、藤原氏をも凌ぐほどでした。歴史的には道鏡の事件が有名ですが、その三十年ほど前に玄ぼうは藤原氏によって筑紫に追われています。

若いときから秀才で、留学生として入唐し、長安のサロンでも評判になり、おびただしい仏書を持って帰国した…空海とそっくりなのです。最澄の独壇場となっている朝廷を何とか元に戻したいと考えている奈良仏教の人々にとって、ことのほか空海は特別な人であったことは間違いありません。

その他、朝廷内のゴタゴタも書いてありますが、それは本書を読んでいただくこととします。

《以下引用》
空海はあるいは、言葉に出して、
――朝廷も国家もくだらない。
といったかもしれない。

空海はすでに、人間とか人類というものに共通する原理を知った。…空海自身の実感でいえば、いまこのまま日本でなく天竺にいようが南詔国にいようがすこしもかまわない。空海がすでに人類としての実感のなかにいる以上、天皇といえどもとくに尊ぶ気にもなれず、まして天皇をとりまく朝廷などというちまちまとした拵え物など、それを懼れねばならぬと自分に言いきかす気持さえおこらない様子なのである。

日本の歴史上の人物としての空海の印象の特異さは、このあたりにあるかもしれない。言いかえれば、空海だけが日本の歴史のなかで民族社会的な存在でなく、人類的な存在だったということがいえるのではないか。
《引用終わり》

《つづく》


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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十一」を読みました。

空海は京の高雄山寺に移りました。この時期の前後、空海は密教の教相判釈を行っていると考えられます。

《以下引用》
…仏教渡来以来、この時期までに日本にもたらされた仏教は、奈良六宗もまた最澄の天台宗をもふくめ、中国で完成されきったものを、そのまま将来して、定着し、そこに独創を加える必要も余地もなければ、もともとその気分もなく、ただ海を渡って移動したものであるにすぎなかった。完成されきっているというのは、解説書から批評についての論集もそろっているという意味である。…

空海の場合は、…かれがもたらしたかれの密教だけはそれ以前のものと事情が異っており、空海自身がそれらを作りあげねばならなかった。…

空海は、インドにも唐にもなかった「真言宗」という体系を樹立するのだが、このために、「横の教判、竪の教判」といわれるすべての仏教から縦横に密教を見る理論をつくりだす必要があり、また密教がそれを可能だと主張する即身成仏という最終目的についても、他の批判に堪え、かつ誰にも理解できる理論をつくりあげねばならない。顕密二教の判釈ということについても、そうであった。顕教とは外側から理解できる真理――天台宗をふくめてすべてのいままでの仏教――であり、密教とは真理そのものの内臓に入りこみ、たとえば胃そのものになり、脾そのものになり、肝そのものになり、それらの臓腑がうごくとともにうごきつつ宇宙に同化するという行法と理論をいうのだが、空海としては顕教の本質を暴露しつつ密教が顕教をも包摂する最高の仏法であるということをあきらかにせねばならない。
《引用終わり》

その作業に多忙をきわめる空海の下へ、そんな作業を全くする必要のなかった最澄から使いが来ます。「密教の経典を拝借したい」と。

顕教と同じように、密教も書斎の作業として独習しようとしているらしい…。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十二」を読みました。

この章は、平城上皇と嵯峨天皇との対立について詳しく書かれています。

薬子という女性が関わって国が傾いたということで、玄宗皇帝と楊貴妃の話にダブらせた見方ができなくもない、とのこと。

でも、唐の話は老皇帝と若い女性であるのに対し、こちらは熟女と若い帝。しかも、この熟女は権力を手に入れるためならどんな男とも関係を結んでいる。長恨歌のような詩にはとてもなりえない…。しかし、詩にならぬとも、使い道はある。

《以下引用》
…しかしながら空海はこれを安禄山ノ乱と見、不空とおなじことをした。
空海は、事件を始末する詔勅が出てからすぐ、
「沙門空海、言ス。…伏シテ望ムラクハ国家ノ為ニ」
修法をしたい、という上表文をたてまつっているのである。その修法がいかなるものであるかについては、日本の朝廷の認識を得させるべく唐の朝廷の例をひいている。唐においてはその宮廷の重要な建造物である長生殿を捨って修法の道場にあてているほどに大がかりなものだ、という。自分は高雄山でそれをやるが本来それほど重要なものだということをよく認識せよ、ということを言外にこめている。…

…嵯峨天皇はこの空海の企画とそれについての上表文によほど感動したらしく、とりあえずの費用として綿一百屯の下賜があり、あわせて嵯峨が得意とするところの七言八句の詩一首を空海にあたえ、自分の感動をつたえた。
《引用終わり》

このとき、この修法のために六年間高雄山を出ないと宣言しているにもかかわらず、一年後には嵯峨の命令で山城国の乙訓寺の別当になっている。これは、漢文的表現というのは表現世界にとどまるものであり、厳密に守る必要はないということを、空海も嵯峨も教養の前提として知っていたのだろう…ということです。

北京オリンピック開会式の映像も、同じことだったのかもしれません。嘘をつくこと、そしてそれを真に受けないことが中華式教養ということでしょうか?

平安の漢文的教養期が衰弱し、農民の出が武士や郎党として政権の基礎をなす鎌倉幕府期には、日本でもその習慣がなくなったそうです。

《以下引用》
…空海は多分に芸術とされる文章的世界と、そして現実とのあいだの境界が、ゆらゆらと立ちのぼる陽炎のように駘蕩とした時代人でもあった。その意味においてはいかがわしさのなかにものどかさがあるようでもあり、しかしながら同じ時代の人である最澄がそうでもないことを思うとき、空海の形相のしたたかさを思い、この男はやはり西域人不空の再来であるのか、とややぼう然とする感じで思わざるをえない。
《引用終わり》

《つづく》


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