トトガノート

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「唯識入門」(春秋社)
「第二章.認識の構造」の「四.唯識説における空」を読みました。

《以下要約》
縁起したもの=空なるもの、という場合には、自性がない(無自性)というのが、『中論』以来の説明でした。これと「所取・能取の二がない」ということは、どうつながるのか。

所取・能取がないということと、自性がない、ということは別のことです。所取・能取のないことが、ただちに虚妄分別が縁起したものであることの説明にはなりません。

だから、私はここで、この「空性」は修道論的な意味で「なくなること」(=滅)の意味であると申し上げたのです。

それは、虚妄分別が無自性であること、縁起したものであることを否定しているわけではありません。なぜなら、虚妄分別は「依他なるもの」と規定されていますから。

唯識説では、ことばのうえの規定としては「空性」を修道論的に説いていて、そのかぎり、無自性という意味はないが、同時に「空性」ということばを通して、この無自性、縁起したものであることという点は自明のこととして含まれているとみなしていたのではないか…。
《以上要約…詳しくは本書参照》

この違いが分かったような分からんような、これが何につながってくるのか…。ということで、取りあえずノートしておきます。

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第三章.さとりのプロセス」の「一.無の相への悟入」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第六偈が出てきます。

(1.6)得られることにもとずいて、得られないことが生じ、得られないことにもとずいて、さらにまた得られないことが生じる。

《以下要約》
注釈によると…
唯識(すなわち、実在するものはただ迷乱の虚妄分別のみである)ということが「得られる」と、識のみで外界は存在しないから対象の「得られないことが生じる」(すなわち、対象は非存在である)。これにもとずいて、唯識ということについても「得られないことが生じる」。このようにして、知るもの(識)と知られるもの(対象)との二者は、無の性質のものであることを理解し、悟入するのである。

注釈では、この過程を「無相に入る方便」と呼んでします。「無相」は「無・非存在の相」で、円成実性としての所取・能取の無いすがた。虚妄分別もありません。

最初の「得られる」は唯識と知ること、一切は唯だ識のみであるとさとることです。実在するのはただ虚妄なる分別のみ、と知ること。

この唯識の認得が生じると、「対象の得られないこと」、対象の不認得、無知覚が生じます。所取や能取としての顕現を知覚しなくなる。「我」や「法」を実在と認識しなくなる。

「対象の得られないこと」は「対象は存在しないと認得すること」というふうに読み換えれば、第一の「唯識と理解すること」と同時成立します。でも、まだそこには対象が残っています。本当に対象がない状態になるというなら、そこには対象の認識という行為もなくなり、識のみがあるということも成立しなくなります。

このときの修行者の意識はもはや虚妄分別とは呼べません。あえて呼ぶなら「無分別智」、または「唯識性」と言います。唯識説成立以前の伝統的言い方をすれば般若波羅蜜ということになります。

唯識という状態になりきったあと、対象認識をしないので識とは呼べないことになりますが、所取の分別をしない認識、対象を見ない認識、認識しない認識が残ります。これを「智」と呼びます。

これを「識を転じて、智を得る」(転識得智)と言います。
《以上要約…詳しくは本書参照》

高崎さんの解説はとても丁寧です。

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第三章.さとりのプロセス」の「二.得ることと得ないこと」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第七偈が出てきます。

(1.7)それゆえに、得ることは得ないことを本性とするものであることが証明された。それゆえにまた、得ないことと得ることは等しいことが知られる。

《以下要約》
「得ること」は唯識ということの認識、「得ないこと」は対象の得られないこと(対象を知覚しないこと、対象の非存在)および認識作用の非存在。

唯識と知ることが唯識という状態になること、能所の対立のない状態になること。逆に言うと、識が所取・能取となって顕れることが、まよいの世界の成立と言えます。

ただし、まよいの世界成立以前の、識のみの状態とは、あくまでも理論的な要請です。われわれのあり方は、無始時来、能所対立の世界です。仏教はそこから出発します。しかし、さとりによって到達できるのは、本来そうあるべきだから、というのもまた、仏教の考え方の特徴です。

さて、ブッダが法を弟子たちに説いているとき、ブッダの意識には能所の区別はないのか?という疑問が生まれます。答えは「分別はある」ということになります。

ブッダといえども、人間の姿をとって(他の衆生でも構わない)顕れているかぎりは認識作用(智)があって、自他を区別し、法を認識し、意識している自分を意識しているはずです。

その点はさとっていないわれわれと全く同じです。

ブッダが我々と異なるのは、真実においては唯識であると知っていること、一度、唯識の状態になったということです。

そこで、一度、無分別智を得た後で現れてくるものという意味で「後得智」と呼び、「清浄なる世間的な智」と規定しています。分別という点では「虚妄分別」と同じですが、その虚妄性を自覚している点が全く違います。

これは、究極の立場と世間的方便の立場、第一義諦・勝義諦と世俗諦という考え方に見合うものです。

仏のあり方でいうと、法そのものとなった仏(法身)と、それに基づいて他者に法を説く仏としての受用身(浄土にあって菩薩のために法を説くほとけ)、変化身(穢土つまり娑婆世界で、凡夫のために法を説くほとけ)という三身説に呼応しています。
《以上要約…詳しくは本書参照》

ここで「龍樹」のブッダの章を読み返してみましたら、以前と違った文章に感じました。理解が増したということかもしれません。

《つづく》
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「第四章.識と縁起」の「一.虚妄分別の正体」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第八偈が出てきます。

(1.8)さらに虚妄なる分別は、三界に属する心・心作用(心・心所)である。その場合、識(すなわち心)は対象(そのもの)を見ることであり、それに対して、もろもろの心作用はそれのさまざまな属性を見ることである。

《以下要約》
三界とは仏教の通説でいう輪廻する生存の三つの領域、欲界・色界・無色界をいいます。修行が進んだ無色界はきわめて高度な精神状態ですが、涅槃界には属せず、したがって輪廻生存の領域に属しています。虚妄分別は、所取・能取を実在と見ている段階における心であるということです。

「識が対象を見る」というのは、虚妄分別が実際に機能している場合には、感受作用(受)とか表象作用(想)、その他のさまざまの個別的な作用(行)を伴っています。これらの諸作用は、心に属している、あるいは心と相応してはたらく作用(心相応行)という意味で、「心所(しんじょ)」と伝統的に呼んでいます。
《以上要約…詳しくは本書参照》

虚妄分別がかなりリアルにイメージできるようになってきたのですが、これが虚妄ということになると、私の勉強は進んだのか退いたのか…よくわかりません。

《つづく》
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「第四章.識と縁起」の「二.二種の識」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第九偈が出てきます。

(1.9)一つは縁(因)としての識であり、(現象的な面において)享受〔など〕に関係するものが第二(の識)である。そこ(第二の識)には、享受すること、判別すること、および動かすものとしてのもろもろの心作用がある。

《以下要約》
これに対する世親の注釈。

識は、一方では潜勢的な原因の識として生起し、他方ではそれの結果として顕勢的・現象的な識として生起する。アーラヤ識は前者であり、それ以外の七つの諸識に対して原因となるものである。「縁(因)としての識」である。

それを縁として(顕勢的に)はたらいている七つの識(転識)が「享受に関係するもの」である。「享受」とは感受(受)のことである。「判別」とは観念(想)のことである。識を「動かすもの」とは形成力(行)のことであり、すなわち思考(思)、心の集中(作意)など(の諸種の心作用)である。
《以上要約…詳しくは本書参照》

ついにアーラヤ識という言葉が登場しました。

《以下要約》
さらに付け加えられた著者の注釈。

顕勢的・現象的な識が、われわれが通常認識しうる機能で、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識と自我意識で合計七種あります。これらは諸種の心作用(心所)を伴って機能します。

感受作用、表象作用、意志作用、注意、対象に触れる作用(触)は、基本的な心作用で、心が動いている限り、つまり識が機能している限り、常に必ず伴うものと瑜伽行派は考えています。現象的な七種の識は、「転識」すなわち「活動している識」とも呼ばれます。

唯識説では、潜勢的なアーラヤ識と顕勢的な七識との因果関係が縁起にほかならず、それ以外に縁起するものはない、とされています。
《以上要約…詳しくは本書参照》

転識という言葉は「意識の形而上学」「大乗起信論」にも出てきます。ちょっとニュアンスが違うようですが、復習しておきましょう。

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第四章.識と縁起」の「三.識の内部での縁起」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第十偈・第十一偈が出てきます。

(1.10)覆いさえぎるから、成長させるから、導くから、統一させるから、完備させるから、三つのものの判別があるから、享受するから、引き起こすから、
(1.11ab)結びつけるから、現前のものとするから、苦しませるから、生あるものは苦悩する。

《以下要約》
・「覆いさえぎるから」:如実に見ることを(1)無明が覆いさえぎるから。
・「成長させるから」:形成力すなわち(2)行が過去の行為の習慣性(熏習)を次の識の中に置き、成長させるから。
・「導くから」:新しく生まれ変わる場所へ(3)識が導き到達させるから。
・「統一させるから」:心的物的存在すなわち(4)名色が、自己存在を他と区別された個体的存在として統一し、維持するから。
・「完備させるから」:六種の知覚の場すなわち(5)六入が個別の身体的存在を完備させるから。
・「三つのものの判別があるから」:六根・六境・六識の三つのものの接触すなわち(6)触が、楽・苦・不苦不楽の三種の感受に相応した感覚器官の変化を判別するから。
・「享受するから」:楽・苦・不苦不楽の三種の感受すなわち(7)受が、過去の善悪の行為の結果を享受するから。
・「引き起こすから」:過去の行為(業)によって、その結果として予定されている後の世への再生を愛欲すなわち(8)愛が引き起こすから。
・「結びつけるから」:後の世への再生の起こることを助長する愛欲などへ、執着すなわち(9)取が識を結びつけるから。
・「現前のものとするから」:再生したとき、生存すなわち(10)有なるものが、かつてなされた行為の結果を成熟させるために、その過去の行為を現実の場にもちきたらすから。
・「苦しませるから」:生まれることすなわち(11)生が、また、(12)老死が苦しませるから。
《以上要約…詳しくは本書参照》

(1)〜(12)の十二支は、これまでにも出てきましたが、唯識ではすべて識の中で展開すると考えるわけです。

これは唯識が初めて主張したことではないそうで、『華厳経』の「十地品」で、第六現前地において菩薩が明らかにすることとして、「三界は唯心なり」と説かれているそうです。まさにこれこそが「唯識」という考え方の起こりで、唯識説は『華厳経』唯心観をより詳細に解明すべく生まれた思想といってよい、とのこと。

《つづく》
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「第四章.識と縁起」の「四.識とアートマン」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第十一偈後半が出てきます。

(1.11cd)〔この十二支の縁起はまた〕三種、二種、および七種の汚染の存在であり、(それらはいずれも)虚妄なる分別に由来する。

これは世親の注釈に基づいた一覧表がありますので、本書を参照して下さい。

《以下要約》
「汚染の存在」は玄奘訳では「雑染」とされるもので、輪廻の全過程をさす名。

識とよばれているものは、過去世から未来世へと一貫して存在する外教のアートマンと同じに見えます。が、この識は十二支第三項であり、縁起した法のひとつです。そして全ての法は刹那滅、すなわちなんらの持続性をもたず、生ずるや否や滅する現象ということになっています。これは唯識説も同じ立場です。

刹那滅ということで、識が縁起したものであることは自明であり、最初に虚妄分別が有ると言われたのはこういう意味だということになります。
《以上要約…詳しくは本書参照》


《つづく》
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「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「三種の転変」まで読みました。

この章は、虚妄分別が依他起であるメカニズムについて、世親の『唯識三十頌』から読み取っていきます。

どんな種類の我や法の想定(仮説)が行われるとしても、じつに、それは識の転変においてである。そして、その転変は三種である。(第一偈)

《以下要約》
「転変」とは、安慧(ステイラマテイ)の注釈によれば「因の刹那が滅するのと同時に、果が因の刹那とは異なって生ずること」とされています。言わんとしていることは、まず、我法を想定する識と我および法という想定されるものとの間の同時成立と相互影響ということ。もうひとつは、刹那生滅の識の刹那ごとの連続(相続:サンタティ)。このふたつを転変という一つの言葉で表現することで、「縁起」を説明しようとしています。

『倶舎論』では、すべての法は刹那滅で断絶しつつ接続しますから、色法(たとえば身体を構成する諸法)は色法でそれぞれ転変しますが、唯識の理論ではこれが認められていないので、諸法の成立を識との関係でだけ説明しています。(本書に図示)

識の転変の三種とは…
(1)異熟としての転変:主体はアーラヤ識:因としてのアーラヤ識のはたらき。
(2)思量としての転変:主体はマナス:その識の顕現としてのマナス。即ち自我意識。
(3)対象の了別としての転変:主体は六識:「了別」と呼ばれていた六識。

(2)は「我」の観念をつくりだす。(3)は六境に分類される法およびその観念成立の入口たる六根(正式には意根を除く五種)なる法を認識し、判断するはたらき。そして(2)(3)は共に(1)のアーラヤ識からの転変。

識の転変は、アーラヤ識と、思量および了別という二種の転識(現に機能している識)との間の相互関係であり、識の内部での相互作用ということになります。が、刹那ごとの識の連続性(同じ性質が刹那を超えて持続すること)はもっぱらアーラヤ識に託されていると言えます。
《以上要約…詳しくは本書参照》

マナスの連続性とは「自己同一性」のことかもしれません。

《つづく》
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「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「アーラヤ識の役割」まで読みました。

世親の『唯識三十頌』の第二偈です。

(三種の転変とは)異熟と、思量と称せられるものと、境の了別とである。そのなかで、異熟とはアーラヤとよばれる識のことで、一切の種子を有するものである。(第二偈)

《以下要約》
安慧の注釈によれば「転変は因の場合と、果の場合に分けられる。因転変は、異熟の習気と等流の習気がアーラヤ識のなかに成長すること。果転変とは
異熟習気がはたらきを得るので、前世の業の牽引が成満したとき、アーラヤ識が他の個体(衆同分)として生ずること、
等流の習気がはたらきを得るので、各種の転識(六種の対象を了別する識)と、染汚の意(すなわち思量のはたらき)がアーラヤ識から生ずること、
である。」とされています。

異熟とは、因と果の性質が異なる関係。善因楽果、悪因苦果というような道徳上の因(善悪)と果(無記)の関係。

等流とは、因と果が同じ性質の場合。刹那刹那の識と識との関係。アーラヤ識⇔思量・了別の作用との間ではたらくもの。その性質は善悪とは無関係の無記なるもの。

了別の機能をもつ六識には等流の習気と異熟の習気の両方が有り得るが、思量のはたらきはただ等流の習気だけを残す。異熟か等流かは識に伴う心作用によって決まることで、識自体は無記。

習気とは、ある作用があったとき、その残す力のこと。次刹那の作用を引き起こす力を持っているので、植物の種子に例えて「種子(しゅうじ:ビージャ)」と呼ばれる。

アーラヤ識はこうした種々の習気の貯え場所(アーラヤは蔵、倉庫)。種子の集合体。アーラヤ識は、顕勢となっていない状態で刹那ごとの相続を続けるので、潜在意識とか深層意識と言っていいだろう。

アーラヤ識は、善悪どんな性質の顕勢態の識の習気を受けても、それ自体は無記であるので異熟だということになる。

アーラヤ識は、輪廻転生におけるある種の連続性(結生相続)を説明すべく仮定された原理、と言える。つまり、過去世の善悪の業の習気の担い手。

また、アーラヤ識は、生まれてから死の瞬間まで、自体を一つにまとめ維持して、個体としての同一性(衆同分)を存続させる役を担っている。この、身体をまとめ維持して個体の存続を成り立たせる機能をアーダーナ(執持)と呼ぶので、アーラヤ識はアーダーナ識とも呼ばれる(『解深密経』)。
《以上要約…詳しくは本書参照》


《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「マナスの役割」まで読みました。

前節に、転変という概念は、識と対象の相互関係と、時間的前後関係の全てを同一語で説明できるところが素晴らしいと書いてあるので、メモっておきます。

さて、世親の『唯識三十頌』の第五偈です。第二種の転変としての「思量」のはたらきについてです。

意(マナス)と名づける識が、それ(アーラヤ識)に依止し、それ(アーラヤ識)を所縁として起こる。(これは)思量を性とするものである。(第五偈)

《以下要約》
この「マナスと呼ばれる識」が独自の認識作用を起こす拠り所はアーラヤ識(にある習気)になるのですが、マナスの認識機能はアーラヤ識を認識の対象としています。

つまり、マナスは、アーラヤ識を「我」アートマンだと誤認するはたらきをしているということです。このマナスこそ自我意識にほかなりません。

『中辺分別論』では「我としての顕現」と表現していました。
《以上要約…詳しくは本書参照》

(このマナスは)四種の有覆無記性の煩悩につねに伴われている。(四種の煩悩とは)我見と我癡と我慢と我愛である。(第六偈)

《以下要約》
・我見(がけん):有身見ともいい、我があるとする見方。
・我癡(がち):我に関する無知。
・我慢(がまん):「私はなになにです」と思うこと、およびそれによって心が高ぶること(慢)。
・我愛(があい):我が身可愛やという思い。

この四つは修行の妨げとなる煩悩ですから、これを伴っているマナスは「汚れたマナス」と呼ばれます。そのことが「有覆」(覆われた)という言葉で示されます。しかし、善悪とは直接には規定できないので「無記」です。

アーラヤ識は煩悩の心作用は伴われていないので、「無覆無記」と規定されます。

「汚れたマナス」は、さとりにおいても出世間の修行道においても(無漏ですから)機能しません。無意識の状態でも、汚れているかいないかに関わらず機能しないはずですから、「滅尽定」においても機能しません。しかし、定に入る前後の意識の連続性はアーラヤ識によって保たれることになります。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》
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