トトガノート

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「瞑想の心理学」(法蔵館)
「プロローグ」を読みました。

生の由来と死の所去…絶対に解決できないであろう疑問です。それが、この本のテーマです。それは生きる意味にもつながります。

《以下引用》
…生の由来も知らなければ、死の去り行くところをも知らない大人たちが、遅れてくる者に、人の命は尊いなどと言ってみたところで、どれだけ説得力があるというのか。しかも、その答えたるや、一度たりとも生の意味など問うたことがない者と同じだというのだからなおさらである。

我を生ずる父母も生の由来を知らず。生を受くる我が身もまた、死の所去を悟らず。過去を顧みれば、冥冥としてその首を見ず。未来に臨めば、漠漠としてその尾を尋ねず。(空海『秘蔵宝鑰』)
《引用終わり》

筆者は大学で物理化学について勉強され、その後で仏教の勉強を(これも大学で)された方です。プランクやパスカルという科学者の言葉も引用されていて、私にとって非常に興味があります。

このテーマは、無記だと思いますから、科学はもちろんのこと仏教を用いても解けない問題であろうと思います。

そして、この本の中にも答えは無いだろうと思うのですが、それだからこそその思索の過程は興味深いものです。

一年くらいかけて、チビリチビリ、じっくり読んでいくことにしました。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「大乗とはわれわれの心(衆生心)をいう」を読みました。

《以下引用》
…サンサーラの世界(生死の世界:此岸)からニルヴァーナの世界(涅槃の世界:彼岸)へと乗せて渡す大いなる乗り物は、他でもないわれわれ自身の心であると言うのだ。…苦行や善行に励み、功徳を積むことではなく、また瑣末な経典の研究や歴史的な解明に明け暮れるのではなく、自分自身の心をよく理解し、それと取り組むことが大切であると言っているのだ。…
《引用終わり》

親鸞ならば『大無量寿経』、日蓮ならば『法華経』というように拠り所とする経典を設定して大乗の教えを説くという手法を大乗起信論は取っていないそうです。経典を軽んじるわけではないでしょうが、「心なのだ」と言い切っています。その根底には「一切衆生悉有仏性」という考え方があるとのこと。

われわれには「真実の心」も「清浄の心」もない!と言う親鸞と矛盾するのではないか?ということも書いてあります。筆者は真宗を学ばれた方のようです。

そこで大乗起信論の言う「心」とは何か?という話になっていきます。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「心真如と心生滅」を読みました。

《以下引用》
この心の真如の相(心真如)はすなわち摩訶衍(大乗)の体を示すが故なり、この心の生滅因縁の相(心生滅)は能く自らの体と相と用を示すが故なり。(『起信論』23)

とあるように、『起信論』はわれわれの心を心真如(真心)と心生滅(妄心)の二相に分ける。そして、心に二相あることから、サンサーラ(生死)の世界とニルヴァーナ(涅槃)の世界に分かれてくるのだ。妄心(心生滅)ならば世間法、すなわち生死輪廻する世界に入っていくが、真心(心真如)ならば出世間法、すなわち涅槃の世界へと帰っていく。このように、心が二相に分けて考えられているところに、『起信論』における心の理解の大きな特徴がある。

これと同じ文脈で言われているものに、無着の「二分依他」(『摂大乗論』)をあげることができるだろう。「生死とは、謂く依他起性の雑染分なり。涅槃とは、謂く依他起性の清浄分なり。」

…このように、われわれの内側には何の脈絡もない想念が途絶えることなく流れているが、われわれはその事実にさえ気づいていない。この心(妄心)がわれわれを生死の絆に繋ぎ止め、あらゆる問題を作り出していることから、いずれ方法論を扱うところでこの心と取り組むことになるだろう。そして真心を知ることで、サンサーラの世界はニルヴァーナの世界ともなる。これが『起信論』が、そして、これからわれわれが辿ろうとする道なのだ。
《引用終わり》

『意識の形而上学』では「真如の二重構造」として取り上げていた内容だと思われます。

『唯識入門』での参照箇所はここら辺でしょうか。

いろいろ読み比べながら、理解を深めていきたいと思います。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「心性本浄と客塵煩悩」を読みました。

『起信論』はわれわれの心を妄心(心生滅)と真心(心真如)の二相に分けています。空海は妄念と本心に(『一切経開題』)。

《以下引用》
心性とは心の本性という意味であり、それは本より浄いということで「心性本浄」という。しかし、現在その心(心性)はさまざまな心(それを「客塵煩悩」と言う)に覆われて見えなくなっている。

…心真如(真心)を、今もわれわれは携えているけれども、それが客塵煩悩によって覆われているために、われわれは迷いに迷いを重ねているということだ。そして『起信論』は、心が生滅を繰り返す時間に属しているのに対して、心性を不生不滅という意味で永遠であるとした。その心性が妄りに起こる心(妄心)によって覆い隠されているために、われわれはそれを知らず、それがために生死の苦海(親鸞の言葉)に身を淪める常没の凡夫となって、一向に真実が何であるか分からないでいる。
《引用終わり》

『仏教入門』で高崎直道先生は、煩悩が起こってしまうことに対する説明として、如来蔵思想と唯識それぞれに説明の不十分な点を指摘しています。

が!可藤豊文先生は、「なぜ起こるかは後述」と書いているので、楽しみにしたいと思います。

《つづく》
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序章「『大乗起信論』概説」の「サンサーラとニルヴァーナ」を読みました。

前回は、『起信論』はわれわれの心を妄心(心生滅)と真心(心真如)の二相に分けているという内容でした。これを更に言い換えています。

サンサーラとニルヴァーナ、心生滅門と心真如門、世間法と出世間法、俗諦と真諦、生死と涅槃。

《以下引用》
…世界が二つあるのではなく、世界はあくまでも一つなのであるが、心の二相、すなわち心生滅(妄心)と心真如(真心)によって生死の世界ともなれば、涅槃の世界ともなる。…この世界を離れたどこか遠くに、宗教は真実(の世界)を求めているのではない。実は、この世界そのものがどちらともなりうる。それはわれわれの心次第というのが、『起信論』の基本的な考え方なのである。
《引用終わり》

ちょっと次元が違うかもしれませんが、明るい気持ちになって世の中のことが全てバラ色に見えたり、暗い気持の時は何をやっても悲しくなったり、ということは割と普通に体験できることです。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「真実と虚妄」を読みました。

《以下引用》
…太陽や月の光が輝いていても、目の不自由な人にとって闇としか映らないように、そうと見ることが出来ないのはわれわれ人間(衆生)の側に問題があり、心が浄ければ、ここはすなわち浄土である。…

…われわれが存在しているこの世界が虚妄の世界(穢土)であるか、真実の世界(浄土)であるかということは、われわれ自身の問題ということになる。…

そして、この穢土を浄めるというのは、われわれがこの矛盾に満ちた世界に直接手を下し、改革したり、ソフィスティケイトすることではなく、問題はわれわれ自身の心の問題に還元されるということだ。だから『起信論』という書物は、最初にあくまでも大乗とは何かを定義して、それは衆生心、すなわちわれわれ自身の心であると明言し、その心に真心(心真如)と妄心(心生滅)の二つがあるとしたのだ。そして、真心ならば真実の世界、妄心ならば虚妄の世界となる。
《引用終わり》

ある異常な犯罪者の登場に対して、その犯罪者自身の病理と捉えるか、その犯罪者をとりまく社会の病理と捉えるか…。

この世を穢れたものと捉えた上で、穢れた世の中で生きていくためには自分の心を鍛えていかなければいけないというスタンスが、古き良き日本には有ったような気がします。その態度は、西洋人の目には、外部環境の改善を諦めてひたすら適応しようとする消極的な生き方と映ったことでしょう。

しかし、近代における環境への積極的な改善活動は、この世界を汚しこそすれ、清めてはいません。もちろんこれは物理的・化学的汚れであって、哲学的な穢れとは違いますが(違うはずですが)、この世が汚れるほどに人の心も穢れているような気もします。

この奇妙な符合は、継続可能な社会を支える哲学として大乗が適していることを示唆しています。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「衆生の意味」を読みました。

《以下引用》
仏教はわれわれ人間を衆生(あるいは凡夫)と呼ぶが、衆生とはどういう意味であろうか。…
《引用終わり》

ということで、まず『正法眼蔵随聞記』から道元の意見が引用されています。

《以下引用》
われわれ人間は始めとて分からない遠い過去から、いくたびか徒に生まれ、徒に死を繰り返して来たということで「広劫多生」であり、従って、衆生とは衆多の生、つまり何度も生と死を繰り返しているものという意味である。…

たまたま人間として生まれたのであるから、この機会を捉え、此岸(サンサーラ)から彼岸(ニルヴァーナ)へと渡っていきなさい。そうでなければ、再びこのような機会が訪れるまでにあなたはどれほど空しく生と死を繰り返すことになるか、あなた自身にも分からないのだから…
《引用終わり》

親鸞も『高僧和讃』の中で、「広劫多生」と言い、師法然に出会えなかったら彼岸へ渡る術を知らなかったと言っているそうです。つまり、二人は衆生について同じ理解をしていました。

空海は『念持真言理観啓白文』の中で、面白い指摘をしています。
《以下引用》
…われわれ衆生は迷っているが故に次々と多くの衆生を生み出し、一方、諸仏は覚って一仏となる。言い換えると、衆生は一から多へ、諸仏は多から一へと全く方向が逆になっている…
《引用終わり》

「人間に生まれたこの機会に悟りましょう!」と言われると、なるほどと思いますね。少なくとも、「人間しかできないことを存分にやりましょうよ!」という呼びかけは、前向きに生きる動機づけになります。

空海の場合は、両部を統一して、独自の密教を創り上げました(という言い方が正しいか分からないが)。そもそも三教指帰を著したころから「仏教は全体の真理、儒教・道教は仏教の一部分」と考えていましたから、儒教・道教も衆生の迷いの中で生まれ仏教に統一されるものと言い換えれば、終生一貫した仏教に関する持論と言えるかもしれません。

「起信論」では、衆生にもう一つの意味を込めているそうです。それが次回です。

《つづく》
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序章「『大乗起信論』概説」の「衆生―如来蔵」を読みました。

(04)(05)の内容が如来蔵とほぼイコールのように思います。今回は不増不減について書いているところが素敵なのでメモっておきます。

《以下引用》
…学問は真理の探求であるというが、宗教も同じように真理の探求と言える。…宗教における真理は、…仏陀よりも古いということだ。…仏陀以前にも、また以後にも彼が覚った同じ真理を知った人は他にもいたはずだ。ただわれわれは今に至るまでそれを知ることもなく、だた徒に生死の世界をさ迷っているのだ。

学問における真理の発見は、発見者の功績に帰すべき新たな発見となるのに対して、宗教における真理の発見は、決して新たに何かを発見することではない。…それは新たな発見ではなく、かつてそれを体験的に知った人(覚者)と同じものを知った過ぎない。…宗教においては独創的な真理の発見などないのだ。もしそんなものがあるとしたらそれこそ怪しいものだ。そして、この事実は将来にわたっても変わらない。たとえわれわれが生死に迷う常没の凡夫であっても、その内なる真理(真如)は変わらず存在しているし、またそれを覚ったからといって、ことさら何かを手に入れるわけでもない。宗教的真理はいわば不増不減なのだ。
《引用終わり》

私は、数学や物理学の真理は上記の宗教における真理のようなものだと思っていました。論理がきっちりと噛み合っているものだから、人間が発見していようがいまいが、その真理の体系は出来上がっているはずだからです。でも、不完全性定理を知ってからは考えを変えましたけど。

「仏陀よりも古い」というところ、画期的な指摘のような気がします。仏説とか非仏説という議論がバカバカしくなります。

《つづく》
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序章「『大乗起信論』概説」の「禅にみる如来蔵」を読みました。

《以下引用》
“無”を説く禅にも如来蔵思想がはっきりと表れている。
《引用終わり》

ということを、道元、玄覚、良寛の文章を上げて、説明しています。

禅については禅寺で座禅をしたことがあるくらいで、ほとんど勉強していないので、何も書き足すことはありませんが、如来蔵思想が含まれるということで取っ掛かりができたような気がします。

《つづく》
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序章「『大乗起信論』概説」の「一法界と妄境界」を読みました。

《以下引用》
『心真如とは即ち是れ一法界にして、大総相、法門の体なり。謂う所は心性の不生不滅なり』(『起信論』25)。一法界(法界一相)、あるいは一元性の世界に帰り行くこと、同じことであるが心真如(真心)を知ることが『起信論』全体の目的なのだ。イスラーム神秘主義(スーフィズム)の代表的な思想家であるイブン・アラビーが言う存在一性の世界もこれに当たる。
《引用終わり》

言っていることは同じだと思うんですが、別の表現を読むことで理解は深まります。

《以下引用》
言うまでもなく、現在われわれは一法界(一元性)の世界を見ているのではなく、生死、善悪、愛憎、美醜、是非、幸不幸…など、二元相対する差別の境界を見ている。このようなさまざま境界を作り出すために、世界は複雑に錯綜し、問題はさらなる問題を作り出していく。そして、それはどこから生じてくるのかというと、われわれ自身の心(妄心)であり、妄りに心が起こるがゆえに、二元葛藤するさまざまな境界が現れてくるのだ。従って、その原因である妄心を離れ、真心を知るならば、われわれは二元性の世界を離れて一元性の世界(一法界)に帰っていくであろうと『起信論』は見ているのだ。「一切の諸法は唯妄念(妄心)に依りてのみ差別あるも、若し心念(妄心)を離るるときは則ち一切の境界の相は無ければなり」(『起信論』25)。
《引用終わり》

イスラーム神秘主義にも同様の考え方があるというのは興味深いです。キリスト教批判に聞こえなくもないが…。

《以下引用》
…愛情ですら二元論の源である。そして、二元性の跡もなく、純粋一元性の世界も存在する。とすれば、その一元性の世界に到達した人は、愛も憎しみも共に超えた人でなければならない。その世界には二元性の入る余地は全然ないのだから、そこに至った人は完全に二元性を超越しているはずである。従ってまだ二元性の支配していた最初の世界、つまり愛情や友情の世界は、今やその人が移ってきた一元性の世界に比すれば、どうしても低級と言わざるを得ない。(『ルーミー語録』)
《引用終わり》

華厳経の中に多く見られ、仏教的考え方だと思っていたホロンも、『イーシャ・ウパニシャッド』の冒頭に見られるようです。

《以下引用》
あれもこれもどれひとつとして全体でないものはない。それらは全体から生じてくる。しかし、全体からそれらを取り出しても、そこには依然として全体が残る。(Isa Upanisad)
《引用終わり》

《つづく》
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