トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

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妻が公文の教室を開くことになりました。そんなわけで、創始者公文公会長の御本を読んでみることにしました。

「小学生に微積分まで」
1959年の文章です。今年50周年ということですから、本当に始まったばかりのころですね。高校の数学の先生をされていた公文さんが自分の子供(さらに4年前で小学2年生)の算数の成績が悪かったのでなんとかしようと取り組んだのがはじまりのようです。

いろいろな計算ドリルを参考にプリントを作り、子供に自習させ、夜に自分が添削するというを繰り返した。それが今の公文式の原型というわけです。

授業するよりも自分で問題を解くほうがいいのではないか?という気づきは、公文式にとって重要なことでしょう。

タイトルの微積分ですが、高校生でも単純にやり方だけを覚えるのに終始するのが現実かもしれません。まして小学生となればやり方だけを覚えるのが関の山でしょう。意味も分からずやり方だけ覚えて意味があるのか?

小学生の時に一度やり方だけ刷り込んでおけば、高校生になったとき何となく解ける状態になっていることでしょう(うまくいけば)。そこでゆとりが生まれる。ゆっくり微積分の意味を覚えればいい。

公文式の考え方のポイントのひとつでしょう。

「まず算数一科目に自信を」
これは1960年の文章。まず得意科目を作れ!という戦略は当時としては特異だったかもしれません。計算力をつけるのが大事だ!ということも。

ストップウォッチで時間を計って計算問題のプリントをどんどん解かせるというやり方が注目されたのも数年前だったと思います。40年も前の話ではない。

最近は脳力とか言って、大人が簡単な計算問題を次々解くのも流行っています。ボケ防止に公文式をやろうかと真剣に考えております。

《つづく》

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「数学の学力を伸ばす指導法」
1965年の文章です。公文さんが考案した学習法を自ら「実験」と呼んでいるのですが、その割には自信のある発言が目立ちます。始まって7年くらいでしょうか。かなり実績ができてきたのでしょう。

半時間くらいでできる内容のプリントを毎日自学自習させる。間違ったところを指摘して見直しをさせる。満点を取ったところで次のプリントに移る。

文科省が決めた各学年での学習内容に子供を合わせていくのではなく、学年にこだわらずに子供に教材を合わせていくという点が公文式の特長だと思います。

スポーツや芸能では学年平均以上の能力を身につけることを喜ぶのに、算数等の教科では学年相応の能力を望むのはおかしい、という指摘はなるほどと思いました。今はともかく、当時はそういう親が多かったかもしれません。

公文式はフレキシブルな飛び級ができる、ということなのかもしれません。一学年とか二学年とか、一年単位の飛び級ではなく、自由なズレ具合で先に進むこともできれば後に遅れることもできる。

学校の進度から独立しているという点が大きな魅力です。

《つづく》
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「わが子を守る教育法」(1973年)
「指導上の心がけ」(1974年)
「より多くの生徒に公文式を」(1976年)
「自学自習の強み」(1978年)
上記4編を読みました。

学校での内容を補完するということなのか、学校で大事にやっていることは公文式ではしないということのようです。重複したら子供が損をする、とのこと。

教科書に沿った内容をして欲しいという親からの要望が少なくないようですが、上記の考え方を踏まえて、能力に合うところから始められるメリットを説くのが指導者(公文のインストラクター)に求められる力量のようです。

他の塾の、一斉授業による指導よりも、公文方式(自学自習)の方が勝っていると書いてあります、学習時間vs効果の面でもモチベーション向上の面でも。これは、今後、妻の実感を聞いてみたいと思います。

《つづく》
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「どんなことをしてでも伸ばしてやる」(1979年)
「可能性への挑戦」(1979年)
「創造性を高める公文式」(1979年)
「公文式の価値の認識(しりかた)」(1980年)
上記4編を読みました。

以前、公文さん自らが公文式のことを「実験」と呼ぶことに奇異な感じがすることを書きましたが、最初の20年間は「実験」の期間と設定していたようです。それが、1978年まで。今回読んだ文章は、この実験期間が明けてから書かれたものになります。

「幼児期は、勉強は理屈だとは思わせずに、作業だと思わせろ」的なことが書いてありました。そうかもしれません。幼児期を過ぎても、勉強というのは問題を解くという作業そのものか、それができるようになるための努力です。

うちの娘たちも幼児用の教材を少しずつやっていますが、線をなぞるだけのプリントとか、書いてある動物の絵を数えるだけのプリントを次々とやっています。それはまさに「問題を解いている」というよりは「作業をしている」という表現が的確です。

それで身につくのかということですが、公文とは全く関係ない絵本を見ているときに、私が何も言わないのに、「1,2,3,4,…」と数えて「6匹いるな」なんて言うようになっている。

それが創造性につながるかどうかは、まだわかりません。が、やっただけのことは確かにあるようです。

《つづく》
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「もっと伸びる生徒を伸ばしていないのではないか」(1981年)
「私たちが世の中にできること」(1981年)
「公文式が生徒から学んできたこと」(1981年)
上記3編を読みました。

子供を連れていろんな所に行きますと、いろんな人の子供の扱い方をみることができます。子供の扱いが上手だなと私が感じるのは、子供に合わせた対応ができる人。

子供というのは本当にいろんな反応をします。突拍子もないことを言います。それをきちんと聞き分けて、的確に対応できる人。慣れてるなと思います。

たまに自分に合わせようとする大人がいます。突拍子もないことを言った子供に対して「そういうことじゃなくてね…」とやる人。子供はすっかり白けてしまいます。利口な子供だと我慢してそういう大人にも合わせてくれます。大人は自分が子守りしていると思っているけれども、実際は子供が大人の子守りをしてあげている。

わが娘も、ついこの前、生まれてきたと思ったら、もう数を数えたり、ひらがなを読んだりしています。こいつも人間なんだなあ、と思う。そして、人間が創った文明なんだから、人間に習得しやすくできているんだろうなあ、と思う。

子供が興味を持ったときにすぐ教えてあげれば、覚えて忘れないものです。逆に「それはまだ早いから後で教えてあげるね。」と言って教えず、「今日はこれを教えてあげるね。」と言って子供が全く興味のないものを教えたらどうでしょう。全く覚えないし、嫌われるだけです。

公文式が目指しているのは、子供に合わせた教育。「これは来年習うことになっているから教えないよ」という大人(文科省)に合わせた教育では断じて無いということですね。

今の子供たちは、大人の子守りをさせられているのかもしれません。

《つづく》
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「復習と自習形式」(1982年)
「習わずにいける」(1982年)
「科学教育の短縮」(1983年)
上記3編を読みました。公文式の特長が主に述べられています。

自習形式、つまり自分で勉強するということ。相手がいなくともできるということです。独りでこっそり進むと、好奇心も湧きますね。洞窟を探検するような気持で勉強が出来たら、楽しいことでしょう。

公文式では、教材(のレベル)を選ぶ際に見栄を張ってはいけません。楽にできるレベルの教材を選んで、どんどん枚数をこなしていくやり方が公文式では正しいのです。

ところが現実は、低いレベルを選ぶのはなかなか勇気がいることで、やっとできるかできないかというレベルを選んであっぷあっぷしている。枚数は進まないし、つらいわけですね。

喜々として解けるレベルをどんどんこなしていくうちに知らず知らずにレベルアップしている。これが正しい公文のようです。教材は何枚使っても料金は同じなのですから、無理に難しいレベルに挑戦して少ししか枚数を使わないというのは損な利用法なのですが。

なかなか、理解していただけないようです。開設2か月目での妻の悩みです。

《つづく》
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「普通児を優秀児にする」(1983年)
「自信と余裕を育てる」(1984年)
「ちょうどの追求、可能性の追求」(1984年)
「つるし柿にならないためには」(1985年)
上記4編を読みました。公文式の特長が主に述べられています。

「感覚の低い子ども」という表現がありまして、よく意味が分からなかったので、妻に聞いてみました。

まあ要するに「勘が良くない」というか「のみこみの悪い」ということなのですが、ある教材の標準完成時間が1〜2分となっていた場合に感覚の低い子には1分でできるようになるまで何回も頑張ってもらうということだそうです。「感覚が高い子ども?」の場合は、2分かかってもOKで、次の教材に移る。

一見、できの悪い子にはハードルが高く、できのいい子にはハードルを低く設定しているように見えます。が、「感覚の低い子ども」は次の教材でつまずく可能性があるから、長い目で見るとこのやり方がいいのだそうです。

公文独自のデータの蓄積があり、この中から見つけ出されたノウハウのひとつだと思います。この教材の選び方が、指導者(つまり妻たち)の腕のみせどころということだと思います。

《つづく》
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「能力は意識で伸びる」(1985年)
「「こんなものだ」はいつもなく、「もっといいもの」はいつもある」(1985年)
「Unfinished…未完成の魅力」(1986年)
「親から話を聞き、子どものようすを詳しく知ることで、ちょうどの感覚が高まる」(1987年)
上記4編を読みました。公文式の特長が主に述べられています。

いつの間にか自分の仕事に置き換えて読んでいることに気付きました。例えば「子どもの伸びようとする力」は「患者の治ろうとする力」という具合に。

「「こんなものだ」はいつもなく、「もっといいもの」はいつもある」というのもなかなかいい言葉です。自分の施術について常に満足することなく、向上心を持ち続けなければいけません。

「子どもから教わる」は「患者から教わる」。私の場合、お客様は年上の方が殆どですから、本当に教わることは多いです。

「親との懇談を大切にする」は「患者との懇談を大切にする」。日頃どんな生活をしているか、どんな動作が多いか、どんなことを悩んでいるか…

高校教師時代に「相談しやすい先生」という評判だった筆者(公文公さん)。とにかくつまらないことでも我慢して聞いてあげることが大事だとのこと。

見方を変えると、いろんな仕事に参考になる内容です。

《つづく》
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「公文式とは学年を越えて進むもの」(1989年)
「Kumon is the best!」(1991年)
「奇跡が起こる」(1992年)
「勉強する集団」(1993年)
「一流大学に入るには」(1993年)
上記5編を読みました。

「勉強する集団」より
ある先生からお聞きした話ですが、募集のチラシを一番熱心に読むのは既入会の保護者であるということ。


私のお客さんに関しても、既に何度も利用して下さる方により一層理解していただく努力が大切なようです。

「一流大学に入るには」より
ある学校の先生が「生徒には授業を聞いてわかる子と聞いてもわからない子の二通りがある」と言っていました。私は、はて、おかしなことを言うものだ、もう一通り「授業を聞かなくてもわかる子ども」というのもいるはずだと思ったものでした。


これは同感です。講義形式の授業が最良だというとんでもない誤解が常識になっているように思います。自分で演習問題を黙々と解くことが一番いい勉強である多いように思います。授業があるから勉強ができない!という悩みを学生時代に抱いたことは確かにある。

そういう自分なりの勉強がしたいために合わない授業をパスするということであれば、代返や内職はアリだと思うし、先生も大目に見るべきなんですね。自分の授業が最良だという自信はある程度必要かもしれませんけど、過剰も良くない。

尤もそういう理由で代返や内職をする学生というのも今は珍しいのかもしれませんけど…。

《つづく》
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「「悪いのは子どもではない」ことをあらためて確認しよう」(1994年)
「より多くの子どもたちのために」(1995年)
「指導者の能力開発」(1995年)
「良い教室とは」(1995年)
上記4編を読みました。

「「悪いのは子どもではない」ことをあらためて確認しよう」より
かつて私が教師時代、よく高校生に言ったものです。
「こんどのテストの平均点は70点である。すると、50点しかとれなかった者は、この学校に同じ月謝を払いながら、20点だけ低い学力しかつけてもらえなかったことになる。だから、その分だけ月謝をまけてもらうように交渉に行ったらどうか」
私がこんなことを言っても、生徒たちは笑いません。「この先生、あんなことを言っているが、本当は『君たちはちっとも勉強しないで、何をやっているんだ。もっと成績を上げるように努力せよ』と言いたいんだ」と、すっかり「悪いのは自分である」と信じ込んで、叱られているものと思っているのです。


当時はともかく、「授業料まけろ!」と言い出す人がいそうですね。給食費を払わない人がいる時代ですから。モンスターペアレントというやつかな。

公文公さんのお話は一理ありますが、法律的には間違いじゃないかと思います。

「より多くの子どもたちのために」より
ある名医が講演し、その話のなかで「これまでの自分の診断で、誤診は30%だった」と語ったのです。聞いていた一般の聴衆は驚きました。「あの名医にして、30%も誤診があるのか」と。いっぽう、聞いていた医学関係者も驚きました。「たった30%しか誤診がないのか、さすがだ」と。


誤診はともかくとして、医者の治療で効果が無かったとしても法的に医師に責任を問うことはできないはずです。同じ理屈で、「月謝をまけろ!」と裁判を起こしても認められないんじゃないかな…

ただ、そういう覚悟で公文式の塾経営を行うことは立派なことですし、妻もそう考えているようです。もちろん、私もそういう覚悟で鍼を刺し、灸に火をともしております。

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