トトガノート

All about TOTOGA

念中仏仏

先日、あることを考えていて、人間は他の生き物を食べない限り生きていけないということに気づきました。だとすると、「殺生するべからず」という戒めを守ったら生きてはいけない。

宗教などでもそうだと思うのですが、人間と他の生き物の間にはっきりと線を引くのが一般的です。人間は知能を持ち意識を持っているから、他の生き物とは違うのだと。この考え方は殺生戒を合理化するためにあるんじゃないでしょうか?人間の命と他の生き物の命では重さが違う。だから、なるべく殺さないように心がける程度で良く、最小限の食事のためにはやむを得ない、と納得するために。

科学の解明が進んで、生き物はDNAとかRNAとかで遺伝情報を代々伝えていく存在であることがわかりました。人間と他の哺乳類のDNAの配列もそんなに違わないことがわかってきた。そうなってくると、人間と他の生き物との間の境目がぼやけてきました。本当に私たちは大きな口を開けて食事をしていいんでしょうか?

さらに、人間が生きるために家畜を殺してもいいのであれば、自分の利益のためにアイツを殺していいんじゃないか?という理屈も出てくるでしょう。命の重さというのは、一枚の絵の値段のようなものかもしれない。考え方しだいで重くもなれば軽くもなる。

命の価値が下落すれば、人を殺したくらいで死刑になるのはかわいそうだろうという意見も出るかもしれない。逆に、悪いことした人なんか簡単に死刑にしてもいいってことでしょうという意見も出るでしょう。

でもこういう議論は本当に殺生な話。まさにこういう殺生(な議論)はするべからず!が殺生戒の本意ではないかとさえ思えてきます。この議論、当面結論は出ないでしょうから、さしあたって食事の際は、命を捧げてくれた生き物たちと手をかけて調理してくださった方々に深く深く感謝をして「いただきます」と言いましょう。

《つづく》
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最近、神仏をよく拝むようになりました。それで気になるのが、「ふげん」とか「もんじゅ」とか「あたご」という名前の施設が事故を起こしているということ。こんなに有難い名前を頂いているのですから少しは真面目に仕事して欲しいものです。神仏に対する冒涜です!

たとえば「ふきげん」とか「もんじゃ」とすれば、熱くなりすぎないよう焼け過ぎないように気をつけたのではないでしょうか?

「あたふた」とか「あごちゃご」という名前にしたら、運航ルールなど守りそうにないから漁船も敵国の船に遭ったようなよけ方をしたのではないでしょうか?

被害に遭われた方や家族の方にはいささか不謹慎な内容かもしれませんが、とても真面目なコメントなどできない腹立たしい出来事です。

注:「あごちゃご」は方言かもしれません。きちんと揃えなければいけないものを間違えているそそっかしい様子のことです。
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ambivalent…この言葉、最も好きな言葉のひとつです。宇宙の本質を言い当てているような気がするから。

光は波なのか粒子なのか…小学生の時、百科事典で調べました。どちらも本当とのこと。実験によって波の性質が観測できるものと粒子の性質が観測できるものとがある。つまり、答えは尋ね方によって違う。光とは気難しいものだなあ。

私は波なのか粒子なのか…同級生に光君がいました。私の名前にも光が付く。そして私も含めてこの世のものは全て原子という粒子でできているらしい。でも、これも実験のやり方で波の性質が出てくると習った。私も尋ね方によって、波になったり粒子になったりするらしい。そもそもそんな実験をしなくても、私は気難しいらしいが(家内談)。

おそらく、宇宙というのは何も無いのだ。有るとも無いともおぼつかない媒質くらいは有るだろう。それが振動している。振動が止まれば、私たちは宇宙ごと雲散霧消してしまう。そんな空しい存在。まして、そこに境目など無い。同じものが振動しているだけの波に境目などあるわけがない。

でも、生まれ落ちるとは境目をつけること。境目をつけることによって、自分という存在を確認できる。私たちは必死になって境目をつける。これは私、それはあなた。これは私のもの、それはあなたのもの。これは私がしたこと、それはあなたがしたこと。私たちは必死になって妄想を創り上げていく。

それは、境目のないものを区別する空しい作業。全ての苦しみはそこから生まれる。波と知りつつも、時として粒として生きなければいけない。でも、それがこの世の掟。この世に生まれ落ちるということ。

波としての自分と、粒としての自分。アンビバレントなまま、人は揺れ動く。それがこの世を生きるということ…

露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢
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悟りとは何か?究極の真理とは何か?そこに到達するとどんなふうになるのか?悟ってしまったら、それを忘れたり、堕落したりすることはないのか?

何かの免許みたいに取得したら、ずっと大丈夫なのか?更新試験とかないのか?ミスを犯すことは無くなるのか?ミスを犯したら、停止とか剥奪とか処分されるのか?

火星でも金星でも太陽系の外でも銀河系の外でも、通用するものなのか?

悟りを得るにはどうしたらいいか?とか、成仏するにはどうしたらいいか?とかしきりに尋ねる人がいるんですが、そんなこと言う前に、こういう疑問を解決しなければいけないんじゃないでしょうかね。

自動車が何かもわからないで、運転免許を欲しがるようなものですね。

こんなことを言うと怒る方がいっぱいいらっしゃるかとは思いますが、お釈迦様は何から何まで悟っていらしたのだろうか?と私は疑問に思っています。人間には、この世のすべてのことを(ましてあの世を含めたことまで)理解する能力は備わっていないと思うから。

しかしながら…

法華経を読んでいると「真理はフツーの人には到底信じられないようなことだから、何かわかったとしても、もっと深い理解のしかたがあるんだから思い上がるなよ」と言われているような気がします。

この一事だけでも、思想家としての釈迦はすごいと思うんですね。ソクラテスの「無知の知」に似てますね。

自分を永遠の未完成品あるいは失敗作(オシャカ)と自覚して、昨日の自分よりも今日の自分をよくしようという心、それが大事だと思います。
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広辞苑に新しい言葉が追加されたそうです。新しい言葉が悪いというわけではありませんが、由緒正しい日本語かどうかを確認するために広辞苑を使っていましたから、私としては違和感があります。

そういえば、「全然OK」とか「全然大丈夫」とか、出始めのころはとても違和感を感じましたが、今ではあまり気にならなくなりました。この表現でしか伝えられない微妙なニュアンスもあって、市民権を得た感じです。

聞くところによるとフランスでも仏教が流行っていて、「クールだ」とか「かっこいい」という意味で「禅」という言葉を若者が使っているそうです。

そこで提案です。肯定的な意味で「全然」を用いるときには「禅々」と書いてはどうでしょうか。
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法華経の訳を四割ほど読んだだけですが、法華経の教えを説くぞ説くぞと言いつつ、やっと準備ができてきたところのようです。式典で言ったら、やっと来賓が着席したくらい。

それでも、興味深い内容はありました。
・世尊が誤解を恐れてなかなか説こうとしないこと
・真理を最初から話すと正しくは受け取ってもらえないから、これまで相手の理解のレベルに合わせていろいろな説明をしてきたと告白していること
・真理までの道のりは非常に遠く、悟ったと思ってもそれが最終的な真理だとは思わない方がいいということ
などです。

釈迦は対機説法という形式を採っていたので、いろんなところで語った内容を並べてみると矛盾しているように見えるところがあったのでしょう。さらに、法華経が編まれたのが滅後数百年後で、分裂していた教団をまとめる意図があったそうです。これらをうまくまとめるためには、前掲の説明の仕方が一番いいと思います。

教団の中で有力な考え方を正統とし、他の教派を異端として迫害したりしなかったのだとしたら、これは素晴らしい処置だと思います。それを(一般的な意味での)方便と捉えてもいいと思いますが、実生活でも有用な方法だと思います。

高くそびえる山ほど、眺める方向で見え方は違うものです。同じ山とは思えないほど、いろいろな姿に見えます。百人百様で、全く同じ方向から眺めている人はなかなかいないのだと思います。それぞれがそれぞれの富士山を持っている。それぞれが間違いなく同じ富士山なのだけれども、どれも同じ形はしていない。

世の中、何でもそうなんだと思います。だから、話が通じているようで通じてない。わかり合えたようでわかり合えていない。それを忘れるなよ!というのも法華経の教えなのかどうか・・・
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神様でも仏様でもいいのですが、聖なるものはすべての場所に平等に現れるはずだ、と考えるのが自然だと思います。中近東だけとか、インドだけとか、えこひいきがあるとしたら、聖なるものとは何となく思えないから。ただ、現れているのに気づかないという場合ももちろんあるでしょうけれど。

本地垂迹説というのだそうですが、インドの大日如来は日本では天照大神として現れたという捉え方があります。これによって日本では、古来の神道と大陸から伝来した仏教を両立できたわけです。

これは宗教としてはともかく、文明・文化の発展性という点ですごいことです。自分を保ったまま、異物を取り入れて、発展していく。日本文化のチャンポン性というかハイブリッド性というか、和洋折衷とかが好きなのは仏教伝来の頃からなのですね。

有性生殖の生物は、このチャンポン方式で繁殖し、進化しています。自分の遺伝情報を半分ずつ持ち寄って、次の世代を創っているのですから。この大自然が採用している手法を、日本人も宗教をはじめとしたいろいろなものに採用してきたということになります。うちのカミさんも、残り物をチャンポンして新しいメニューを作り出す天才です。

ふと気付いたのですが、「大日如来」が日本に来たのでしたら、「来日如来」と呼ぶべきではないでしょうか?
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脱サラをして、田舎で仕事を始めて、改めて田舎をみつめて感じたことがあります。近所で何があったとか、家族はどんな仕事をしているとか、非常に関心を持っています。若い頃はそれがとても嫌だったし、当時は社会全体としても「それは田舎の悪しき習慣」という見方が一般的で、それから逃れたい気持ちもあって隣の県に就職を決めたのでした。

プライバシーという概念が田舎にも浸透してきて、「悪しき習慣」は無くなってきましたが、今になって思うとそれは治安維持に非常に役立っていたようです。防犯カメラを設置しなくても、隣に誰か見かけない人が入っていったとか見ていてくれる人がいる。挙動不審な人がいたら、噂にしてみんなで警戒する。こういう体制をかつて意図的に作ったのではないかと思われるほど、今では大きいメリットがあります。

江戸の町は、訪れた外国人がびっくりするほど治安が良かったそうです。それを成し得たのは武士道精神でしょうか?武士は少数派だし、決して偉い存在でもなかったようです。私は仏教が最も寄与していたのではないかと思うのです。何しろ、田舎で一番多いのも仏がからんだ行事ですから。

乱世の戦国大名でさえ、仏教に熱心でなかったのはキリシタン大名と信長くらいではないでしょうか。上杉謙信や武田信玄は言わずもがな、家康の旗印は「厭離穢土欣求浄土」でした。最近も大変世の中が乱れていて、まさに穢土状態ですね。浄土とは言わずとも、江戸くらいの水準をなんとか取り戻したいものです。

そんなわけで、私の旗印は「厭離穢土欣求江戸」です。
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腹筋は、とても大切な筋肉です。まず、腰の筋肉を助けますから腰痛予防になります。肩の力が抜けますから、肩こりの予防にもなります。また、腸骨(骨盤を構成している骨のひとつ)を引っ張る作用がありますから、骨盤を矯正することにもなります。さらに、腹筋を使った腹式呼吸は腸や大動静脈をマッサージすることになりますから、下肢の血行不良や便秘が改善するはずです。

呼吸は、息を吐くときに副交感神経が優位になりますから、吐く息を長くするとリラックス効果があり、自律神経失調症など心が関わった病気にもいいと言われています。腹式呼吸を行えば、吐く息は一層長くなります。ということで、腹筋を鍛えることは、心身の健康につながります。

わたしは量子力学的解釈から般若心経が好きになり、いま家族と共に毎朝読経しております。経文はブレス記号が付いていないので、どこで息をしたらいいか分からず、最後まで吐ききることになります。これが大変吐く息の長い腹式呼吸になります。また、暗唱することは脳トレにもなります。読経の御利益は、医学的にも立証できると思っています。

というわけで、読経(やカラオケなど)で腹式呼吸をトレーニングすることにより、心身ともに健康を保つことを、「いい読経している」と書くことにします。
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 仏教のコミュニティに、死刑の是非を問うトピックを立ててみました。皆さん物凄く仏教を勉強されている方々で、専門用語が出てくるとチンプンカンプンでした。議論がかみ合っているのかどうかもわからない(そういう時は大抵かみあっていないのですが)。

 意外だったのは、肯定と廃止の両方の意見があったこと。法律の学者がなんだかんだ言うと「そんなことあるかい!」と反発してしまう私でしたが、経典にこう書いてあると言われると「そうかあ〜」と素直になれるのは、やはり仏教が自分にあっているのかもしれない。

 両方の意見を聞いていると、どちらにも一理あり、どちらにも決められないと思う気持ちが強くなりました。廃止論で一番なるほどと思ったのは、「殺人という行為を心から憎むがゆえに、国家による殺人(戦争も当然含まれる)も認めない」という考え方。

 例えば夫婦喧嘩ですが、大声を張り上げるのは特に子供の前では避けたいもの。相手の声は大きく威嚇的に聞こえるものです。そっちがその気ならと、ついさらに大きな声を出してしまう。でも、別なことを言えばいいものを「そんな大きな声、出すな!」と大声で怒鳴ってしまう。「出して欲しくないなら、まず御自分が出さないでくださいよ!」と言うことになります。

「大声を出すな!」と叫ぶこと。「原爆を持つな!」と言って人一倍保有しているアメリカ。「人を殺すな!」と言って、殺した人を殺すこと。これらのことは、どう見ても矛盾しています。

 賛否両論を、どちらも「なるほど!」と思いながら聞いていて、どちらの気持ちも理解できるようになってきました。これが無の境地に近づいていることなのだろうか?と思ったりしました。聖徳太子は何人もの人の話を同時に聞いたという逸話があって、顔の周りにたくさん耳があるイメージを持っていました。が、賛成意見の人の気持ちも反対意見の人の気持ちも同時に理解できたということなのではないかと、ふと思いました。

 以前、井沢元彦さんが講演でおっしゃっていました。日本は聖徳太子の時代から「何でも話し合いで決めろ!」と言ってきた。明治天皇も五箇条の御誓文で同じことを言っている。話し合えば何でも解決すると思っている。でも、話し合いで物事は決まらないと言うのが世界の常識だ!だから多数決という方法で決めるしかないのだ。というようなことを。

 でも、これは違うんじゃないだろうか?利害関係にある人たちが話し合えば、ひとつの意見にまとまりっこないことは、聖徳太子も明治天皇も知っていた。ただ、話し合って互いの立場を十分理解しあえば、それこそ「もういいよ」と言うくらいへとへとになるまで話し合えば、たとえ自分の意に反する結果になっても諦め(互いの立場を明らかにして)がつくんじゃないだろうか。

 ムっとしたときというのは、自分とは違う相手の立場に気づくチャンスです。無の境地に達するまで、相手の気持ちを考えて見ましょう!というわけで、まだまだ修行が足りないレベルで、少しだけ無の境地に近づくことを「無っとする」とか「無かつく」と書くことにします。

「うろん語」第五巻目次(その1)を見る
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