トトガノート

All about TOTOGA

念中仏仏

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思い浮かべてごらん…

「思い込み」の世界に、今「わたし」は立っている…

真っ平らで広大な平野。どちらを見渡しても地平線しか見えない。
その真ん中に、「わたし」という国と「あなた」という国の国境がある。

そこに「わたし」は立っている…

大地をいくら見つめてみても、、「わたし」と「あなた」を隔てるものはみえない。
大地をいくら掘り起こしてみても、「わたし」と「あなた」を隔てるものはみつからない。

それでも、国境は厳然とあるあることになっている。

ここは「思い込み」の世界だから、みんな、あると思い込んでいる。

ここは「思い込み」の世界だから、みんな、そう思い込むことが当たり前だと、みんな、思い込んでいる。

《つづく》
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思い浮かべてごらん…

「本当」の世界には…

すべての物があって、すべての者がいる。そして、すべての状態がある。

「いぬ」とか「ねこ」とか「いちご」とか「りんご」とか。
「わたし」とか「あなた」とか「かれ」とか「かのじょ」とか。
「きれい」とか「きたない」とか「うれしい」とか「かなしい」とか。

でも、それらには境い目がない。

どこからどこまでが「いぬ」なのか、わからない。
どこからどこまでが「いちご」なのか、わからない。
どこからどこまでが「わたし」なのか、わからない。
どこからどこまでが「きれい」なのか、わからない。
どこからどこまでが「うれしい」なのか、わからない。

だから、そこには何も無いようにみえる。

《つづく》
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つらいことばかりで何もいいことがない。何をしてもうまくいかない。そして理不尽なことばかり横行している。この世を憂き世(浮世)とは、よく言ったものです。

そんな逆境の中で、希望を捨てず、明るい明日を信じて、夢に向かって頑張り続けるには、どうしたらいいでしょうか。憂き世と呼びながらも、この世を諦めることなく、私たちの祖先はどうやって頑張ってきたのでしょうか。

それは「本当はいい世の中なのに…」という宇宙モデル(!)を心に描き、共有していたからではないかと思います。もちろんそれは仏教信仰の中から、知らず知らずのうちに芽生えていったものだと思いますが。

本当は、この世は極楽浄土なんだけど、現状はそうなっていない。だからみんなでこの世を極楽浄土に近づけようよ!という共通認識を持っていたから、頑張れたんじゃないか?

それが仏教の重要なエッセンスのひとつだとすると、たとえ仏像に手を合わせなくとも、この宇宙モデルを常に頭に描いておけば、だいたいOKじゃないだろうか?

先日、「「哲学としての仏教」が示す宇宙観・人間観を身につけることで、なるべく動じない心が養われていくように思います。」と書いたのは、そういうことです。

「本当はいい世の中なのに…」と捉えることによって、つらい憂き世を諦めない道もあるのかもしれない…

それはそれこそ悟りの道。遠く険しい道でしょうね…

《つづく》
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結婚前に妻と議論したことを思い出しました。相手を信じるとはどういうことなのか。細かい内容は忘れました。でも、そのとき自分が自問し、決心したことがあります。

相手に疑念を抱かざるを得ない状況になったとき、そして疑念を深めざるを得ない状況が重なったとき、更には疑念が事実であるということが分かってしまっても…

その事実が自分を完全に裏切ることであろうとも…

信じることができるか?と自問しました。実際にその事態にならなければ分からないけれど、少なくとも仮定の中ででも「Yes」と答えられなければ結婚してはいけないのではないか、と。

人を信じるとはそういうことではないか?

それは、信用とか信頼の「信」というよりは信仰の「信」なのかもしれません。

その人を諦めるということはあります。結婚ならば離婚です。親子関係を諦める。友人関係を諦める。信用とか信頼をやめるという選択肢は常にあります。

でも、血のつながった実の子(を信じること)を諦めるのはとてもとても悲しいことです。「本当はいい子なのに…」という捉え方をすれば、どんなに自分の意に反した形で育った我が子をも諦めない道が開けるかもしれない。

であるならば、「本当はいい人なのに…」と捉えることによって、夫婦関係を、あるいは友人関係を、そして全ての人間関係を諦めない道もあるのかもしれない…

それはそれこそ悟りの道。遠く険しい道でしょうね…

《つづく》
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確か公文の本の中で見つけたと思うのですが、「本当はいい子なのに…」という気持ちで子どもを叱ると良い、という説があります。

長女を叱るときに試してみました。
「本当はいい子なのにね…本当はこんなことしたくなかったのにね…間違ってしちゃったんだよね…」と言って抱きしめたら、暴れていた娘が私の腕の中で泣いていました。余りの効果にビックリ!

もちろん、人によるみたいです。長女は特別ナミダもろいので(私に似た?)。次女には効きません。次女は、
「だって、○○だったからしたんでしょ!」と言い訳にならない言い訳を繰り返して暴れ続けます。そもそも次女は他人の言葉に耳を貸しません。

この「本当はいい子なのに…」という捉え方は、「罪を憎んで人を憎まず」とも似てますね。これって、結局、仏教から来てるんじゃないかと最近思います。

本当は人間は清らかな存在。それが妄念の雲に包まれて、本来の生き方を見失ってしまっている。これが仏教の基本的な捉え方のはず。

「本当は」というところがポイントだと思います。これから一生、ずっと悪いことしかしない子かも知れない。それでも「本当はいい子」となると、「本当」って何なんだ?という気持ちにもなるのですけど。

でも、子どもに限らず、人間を信じるってそういうことですよね。いいことなんかひとつもしてないような極悪人を前にしても、「本当は…」と言えるかどうか。もちろん冤罪で捕まっている人ではなくて、本当(!)にヤッてしまった人に対して。

信じるとは本当(!)に難しい…

でも、人間が人間を信ぜずして、どうするんだ?とは思ってます。まだ、実践は出来てませんが。まずは我が娘からということで…

《つづく》
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仏教が伝来したころ、全てのものが「仏教」に包含されていたことでしょう。呪術、哲学、弔い、建築、美術、その他もろもろの生活習慣などなど。当時は、「呪術としての仏教」を最も強く求めていたのではないでしょうか。

新しく興り、急速に広がっていく宗教は、呪術なのだと思います。霊感とカリスマのある人を中心に人が集まり、その人の言葉を大切にし、(比較的短期的な目先の)現世利益を実現していきます。

…尤も、それで本当に羨ましくなるほどの幸運(現世利益)に恵まれている人を、私は見たことがない。「そんなに忙しく信仰しないといけないんだったら、何か仕事してたほうが幸せなんじゃないの?」と思える人ばかりです。

だから、というわけでもないのですが、そういう初期の勢いが無くなった「古典としての仏教」を勉強する、「哲学としての仏教」を修める、ということを今年は頑張ってきました。

真言密教大乗起信論について、初歩の初歩の初歩をかじったところでしょうが、哲学として非常にしっかりした奥の深い内容であることがわかってきました。哲学として仏教は何になるのか?どういう意味があるのか?今の私の考えを書いておきます。

それは「外側から降りかかる災難や、内側から突き上げてくる煩悩に対して、なるべく動じない心を養う」ということではないかと思います。

外側から降りかかってくる災難を取り除くこと、これが「呪術としての仏教」の役割だと思います。でも、それはどうかな?と思っています。災難に遭う確率を下げることなんてできるのかな?と。少なくとも、そんなことを仏教に求めてはいけないと思っているからこそ、「哲学としての仏教」を望むわけなのですが。

内側から突き上げる煩悩も修行をすれば無くなっていく…というのもどうかな?と思っています。欲望を失った人間なんて、結局のところ腑抜けじゃないか。少なくとも現世に生きる以上、煩悩は消せないし、消してもいけないんじゃないか。

じゃあ何も意味がないじゃないか!と思う人もいるでしょうが、内外から襲ってくる艱難辛苦に対して、あたふたと右往左往するか、しっかり受け止めた上で対策をこうじるか、では雲泥の差があります。

「哲学としての仏教」が示す宇宙観・人間観を身につけることで、なるべく動じない心が養われていくように思います。その宇宙観・人間観を思い出し、なるべく自分をその中に置くための作業が読経なのかな、と。108の煩悩を取り除くというよりはしっかり受け止めるつもりで、除夜の鐘を聞きたいと思います。

皆様、良いお年をお迎えください。
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偈文をおぼえよう!というのをやってます。今のところ、計画どおり四誓偈が終わりまして、普門品偈に移りました。

四誓偈は無量寿経の中にありまして、阿弥陀仏となる前の法蔵菩薩が世自在王仏の前で立てた四つの誓いです。その四つの誓いとは…

一つ目…
私(法蔵菩薩)は、俗世を超える願を建てました。必ずこの誓いを達成して最高の悟りを開きます。この願いを達成できなかったら、私は誓って仏にはなりません。
二つ目…
私は、永遠に大慈悲を施す者となり、様々な貧苦にあえぐ人々を救います。それができないなら、私は誓って仏にはなりません。

三つ目…
私が悟りを開き、私の名声があらゆる世界を超えて隅々まで聞かれるようにならないなら、私は誓って仏にはなりません。

四つ目…
世自在王仏のなにものにも妨げられない智慧の光が全てを照らすように、私の智慧の力もそれと等しくありたいと思います。

本当は阿弥陀経を選ぶべきなのかもしれませんが、内容が余り好きにはなれません。極楽浄土がいかに素晴らしい所かが述べられていたりするのですが、百聞は一見に如かず、そこに行ってからビックリすればいい話です。

私は素晴らしい所に行きたいからお経を読むのではない。高い思想を勉強したいからお経を読むのである。素晴らしい所に行きたいのなら、旅行ガイドを手にして新幹線や飛行機に乗ればいい。阿弥陀経の趣旨がいまひとつシックリ来ない。

四誓偈を見ると、阿弥陀さまも旅行したいとは思っていないことが分かります。人々を救いたいのです。その気持ちは素晴らしいと私も思います。

ただ、阿弥陀さまのこの志にすがって、「私たちも救ってもらおう。どうかお願いしますよ。」という他力本願の気持ちで南無阿弥陀仏を唱えるのであれば、私は浄土教をやはり好きにはなれないのです。

四誓偈を見ると、阿弥陀さま自身が他力本願の人ではないことが分かります。できれば私も、阿弥陀さまにすがる方ではなくて、阿弥陀さまと同じ側に立ちたいと思います。阿弥陀さまと同じ気持ちを持ちたいと思います。

そういう気持ちで、四誓偈を毎日唱えております。

《つづく》

浄土宗のお経
浄土宗のお経
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偈文をおぼえよう!というのをやってます。今のところ、計画どおり百字偈が終わりまして、四誓偈に移りました。百字偈の意味を追ってみますと…

勝れた智慧ある行者たちは
生死を超えて
人々の救いのために働き
涅槃(安らかな世界)に入ろうとしません。


取りあえずは自分の利益として勉強し知恵を身につけた人は、独り安楽な道に進むこともできるのですが、敢えてせずに人々の救済に努めている…という自利と利他がセットであることが大事ですね。

真実の智慧(般若)と手立て(方便)をもって
如来と自身との相互作用(加持)で
この世のもろもろの存在と生きとし生けるものを
清いものとします。


全てのものはもともとは清いものであるから、本来の姿を取り戻させよう!という考え方が示されています。

欲望の本来持っている力で世間の人々を調整して
罪悪を除き清めることができるでしょう。
天国から地獄までのあらゆる生きとし生けるものの
罪を伏せ調え(調伏)します。


欲望さえも肯定し、それらを調整することでうまくいくはずだ!という考え方。少なくとも昔の日本には有りました。

蓮の花は泥沼に咲きながらも汚れに染まらず
また他を汚すこともないように
人間のもろもろの欲の本性もこれと同じで
他の多くのものを汚すことはないし、利するだけなのです。


人間の欲望をも肯定し、それが本来の姿で発揮されれば、皆を利するだけなのだ!ということですね。

清浄な大きな欲望は
安らかで楽なものであり大きな富をもたらします。
この迷いの世界が思うままになり
生きとし生けるものの救いを堅固にします。


理趣経が一番好きなお経になりそうだな…と思っています。大きな富がもたらされることを信じて、毎日唱えたいと思います。

《つづく》

真言宗のお経真言宗のお経
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禅寺に行って座禅というのは何度か経験があります。座禅している間は何も考えずに、と言っても何か自然に頭に浮かんでくることもあるでしょうから、それは敢えて打ち消さずしかし追いかけることもせずに…というようなことを言われます。

それが「無」ということか…と何となく納得していたのですが、それでいいのかなあと最近思います。

これは、教材を与えずに自習をさせるようなものじゃないだろうか?と。勉強熱心な高校生や大学生ならばいいかもしれない。「座禅をしたい」というやる気はあるものの、小学生級の初心者ならば何か教材があった方が親切なのではないだろうか。

こんなふうに思うようになったのは、高野山(真言宗)での阿字観のレポートを読んだからかもしれません。写経や写仏をして仏さまのイメージを頭(心?)の中に抱きながらの瞑想の方がいいんじゃないかな…と思うのです。阿字観は経験がないから余り強くは言えないのですが。

例えば仏さまのイメージについて言えば、真言宗では多くの如来,菩薩,明王,諸天をまつっているのが特徴だと思います。お勤めの中に「十三仏真言」というのがありますから、お勤めをしていれば少なくとも13の仏さまはすぐに頭に浮かぶはず。金剛界曼荼羅に描かれている姿を数えれば千を超えます。イメージする材料には事欠かない。

あらゆる大きさ、あらゆる向きのベクトルをすべて集めて合成したら何になるか?答えは零ベクトルです。無限に多くのものを集めると「無」になる。多くのことを積み重ねた、有の究極としての無こそが望ましいのではないかと思います。

何も積み重ねのないところでの無は、ただ空っぽなだけで仏教的な意味での「無」とか「空」ではないと思うし、仏教以外の視点に立っても意味を見つけることはむずかしいのではないだろうか。
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法華経化城喩品の回向偈、上げられるようになりました。20字だけですけどね。

回向偈はお勤めの最後の方で上げます。今お経を上げた功徳が自分たちだけではなく、この世の生きとし生けるもの全てに振り向けられますように…という意味です。これが大乗仏教の特長なのかもしれません。

最初は、これを余り重要だとは思いませんでした。が、あることをきっかけにして、とても大切だと思うようになりました。そのあることとは…

ひと月ほど前になります。家の周りを一匹の野良猫がウロウロしていたのです。子猫でしたが生まれて数か月くらいで、少しの間だけ飼っていた飼い主が捨てたのだと思います。お腹が空いているのでしょう。一晩中鳴いていました。

こういうことは何度か今までにもありまして、近所でも話題になっていました。そこで今回は私が決着を付けることにしました。まず、市役所に相談しました。すると、保健所を紹介されました。保健所に聞くと、動物指導センターを紹介されました。センターに問い合わせると、「処理するということでいいんですね?」と何回も念を押されました。

もちろん、私も猫は嫌いではないのでつらいものがありましたが、飼うこともできず、近所の人も困っているし、他に選択肢がないように思われました。捕獲し、センターに連れて行き、再び「処理するということでいいんですね?」と何回も念を押されました。「はい」と答えて置いてきました。

その後、やはりいい気持はしません。ある方に相談しました。そして、自責や後悔ではなく、懺悔の気持ち、それから猫のいのちがより良い輪廻をするよう回向するように、というアドバイスをいただきました。

このとき、お経に限らず善行を積み、その功徳がこの世の全てのものに振り向けられるように願うのが、回向であり大乗仏教であることを再認識したのでした。

功徳と回向の願いがこの世の全てのものに影響を与える可能性はあるはずです。回向(えこう)がエコーのように、繰り返し広がっていけばいいなと思います。

「猫、いなくなったねえ。あんなにうるさかったけど、一匹だけだったのかしらね。」という近所の声を翌日に聞きました。私がナニしたことは言っていません。ただひたすらにお経を上げ、善行を心がけるのみです。

《つづく》

真言宗のお経真言宗のお経
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