トトガノート

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念中仏仏

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異常気象と最近よく言われます。先日、九州に雪が降りました。何十年ぶりかの降雪量だそうです。それをニュースで見ると、山形の人まで言い始めるのです。「こんなに雪のひどい所には住みたくない!」

あのね、久しぶりに雪が降ったのは九州ですよ。大雪が当たり前の山形なのに九州と同じくらいしか降ってないじゃないですか!夏は台風が来なくて、山形は良いところだと言ってたじゃないですか!

夏と言えば、山形の日本最高気温の記録が破られたとか破られないとか、報道されたことがありました。その日もそうでした。「こんな暑いところには住みたくない!」

あのね、今日暑かったのは岐阜かどっかだったんだよ、山形じゃないの!だから記録破られたんでしょ。山形はたいしたことなかったの!

人間の記憶というのはいい加減なものです。よその地域で「観測史上初」と報じられると、90歳にもなるお婆ちゃんが「確かに、こんなの初めてだよ」と言うのです。

でも、気象が異常だと言うのはどういうことなんでしょうね。記録を取り始めたここ数十年の傾向を「正常」と決めて、お天気があたかも「正常」な範囲内におさまっていなければいけないかのように決めつけているわけです。範囲内におさまらない変化が起こると、「異常」だという。

変化して止まない人のことを「天気屋」という癖に、本家本元の天気が「天気屋」になると、「異常だ!異常だ!」と騒ぎ始める。

そもそも自然とは、無常なのです。正常も異常も無いのです。地球はこれまで火の玉だったり氷の玉だったりしてきたのです。つい最近になって、人間が住めるくらいの気候がちょっとだけ続いているに過ぎないのです。

電気屋じゃあるまいし、気象に3年保証も5年保証も無いのです。

それなのに人間は、無常なるものを恒常と決めつけ、それを前提に全てを組み立て、勝手に先走っている。恒常という虚構妄想)が崩れたとき、「異常だ」「想定外だ」と言って混乱し、苦悩を深める。

ゆえに、より賢い人ほど、より大きなバカを見る…
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空の剪定…あらゆる方向に根を伸ばし幹を伸ばし枝葉を伸ばし得る私たちが、この世に生まれ、人として育つ中で、空から離れ、アンバランスな存在性を獲得していく。

教育も、この剪定作業のひとつなのかもしれない。今の時代をより良く生きるために、子供の頭や心を、「良かれと思う形」に整えていく作業。

この「良かれと思う形」は、時が経てば変わるし、場所が違っても変わる、「一時的な価値観」。例えば、この国の「ゆとり教育」が方向転換を迫られるのに数年しかかからなかった。国の教育方針なんて、この程度のもの。紛れもない「虚構」

切断したはずの指が痛むことがあるらしい。もう切り落とされたはずなのに、確かにその場所が「痛い」。煩悩とは、剪定で切り落とされた枝葉の叫びではないだろうか…。

例えば、多細胞生物であるがために切り落とされるポテンシャルならまだしも、国の教育方針なんかで切り落とされるポテンシャルはたまったものではない。そこに溜まった煩悩を、単に不浄のものとして片付けていいものなのか…。

ゆえに、真の教育者とは、子供の全てのポテンシャルが見えなければいけないのだと思う。その子を空なる存在として見通した上で、その子のポテンシャルの何が切り落とされたのか、あるいは何が健在なのかに気づかなければいけないのだと思う。

そして、煩悩の疼きをも、受けとめてあげなければいけないのだと思う。

それでもやはり、教育とは剪定であるから、子供が「なるべき形」を示し、その形に近づいていくことを促すために競争を仕向けることもあるだろう。

でも、その「なるべき形」とは「一時的な価値観」であることも教えるべきである。そうすれば、競争に負けたとしても、不必要に過剰な劣等感は持たないだろう。また、勝ったとしても、過剰な優越感を持って敗者を差別することもないだろう。

つまり、教育者はその心を空に保ち、子供の心を空に導かねばならない…。
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これを「」と呼ぶのが正しいのか、少し迷いはあるのですが、強引にそう呼ばせていただきまして、今日も書きたいと思います。すなわち、すべてのポテンシャルを含む状態、これを「空」とします。

すべてを含んでいるとき、それは最もバランスがいい状態ですから、この世に存在することはできません。何かを捨て去ってバランスが崩れた状態、つまり対称性が破れたとき、おそらく物質としてこの世に現れます。

ウイルスでさえ、モラルのようなものがあるらしい。そのために捨て去るべきポテンシャルというのもあるでしょう。

さらに多細胞生物として生まれた場合、反社会的ポテンシャルを捨て去るほうがいい。より社会的な方向にバランスを崩したほうが、多細胞生物という自分の立場との整合性が良くなります。

そのうえ人間である、ということになると、捨て去るべきものが多分にあるのだろうと思います。その時代や国・地域での社会的制約、風習とか思想とか…いろいろなものが複合する中で、いろいろなものを捨て去っていかなければならなくなる。

そんなふうに勝手な「空」想をしたとき、それは植物の剪定みたいなものだなと思いました。

あらゆる方向に伸びていこうとする植物。最初に、天と地の制約に出くわします。地に根を張り、天に向かって芽を出す。天にも根を伸ばそうというポテンシャルは捨て去らなければいけません。

芽を出し、順調に育っているようでも、日当たりや雨風の影響で何らかのポテンシャルは捨て去って、成長していきます。

そして、実をたくさんならせようとしたとき、その作物ごとに剪定の仕方は異なります。

本当はあらゆるポテンシャルが、ポテンシャルとしては「有り」なんだけれども、現実世界の制約と突き合わせたときに、相克関係になってしまうものがある。つまり、捨て去った方がいいポテンシャルがある…

雪が解け始めると、東北の果樹畑では剪定作業が始まります。
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先日、観音様や阿弥陀様をサンタクロースに例えた書き方をしまして、軽過ぎたかなと反省する機会がありました。

毎日、子供と接する身としましては、クリスマス前のサンタクロースというのは絶大な力を持っておりまして、「そんなことしたら、サンタさんが何も持ってきてくれないよ!」という一言は「南無観世音菩薩」とか「南無阿弥陀仏」と称える以上に効果があります。それだけ、サンタクロースというのは子供にとって紛れもない現実なのかもしれません。

とは言え、軽過ぎたかなとは思っています…

さて、そんな折、司馬遼太郎の本を読んでおりまして、「おや!?」と思う一文に出くわしました。

「おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。」

仏教を哲学として見た時に大日如来が最も完璧な思想であろうという意見には全くもって賛成なのですが、上記のようなことを考えていた折でしたので、「虚構」という言葉にちょっと引っかかったのでした。

ただ、サンタクロースの場合もそうであるように、人それぞれ言葉の重みは違うかもしれないな…と思いました。

考えてみれば、小説家というのは「虚構」をメシの種にしている人たちです。日々、自分の頭の中の構想という「虚構」をいじり続けているはずです。ある意味において、目の前の現実よりもずっとずっと現実的なものかもしれません。

科学者であれば仮説という「虚構」に身を置くことになるでしょう。寝ても覚めても、原子核と電子の間を行ったり来たりしているかもしれないし、宇宙の果てのブラックホールの中を覗き込んでいるかもしれない。

宗教であるならば、その宗教が主張する「虚構」の中に身をおき、それを現実よりも現実的なものと捉えることが信仰ということなのだと思います。

経済社会の中で生きている一般人も、お金という「虚構」の中に、言うなれば、紙きれの中に金(金が持つ値打ちもまた「虚構」なのでしょうが)にも相当する値打ちを見出し、命を削って働いているわけです。経済活動において、紙きれが内包する価値は全くもって疑いようのない現実なのであります。

いずれにしても、一時的にその「虚構」という超現実にのめり込むことはあったとしても、「虚構」として素に帰る器用さ(虚数軸と実数軸を使い分ける器用さ)は持っていないといけないということでしょうか…
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体にいいというサプリメントも摂り過ぎはいけません。「レモン○○個分を一錠に凝縮しました!」とか「ホウレン草○○グラム分を一錠に…」とかありますが、これをゴロゴロッと口の中に入れてゴックンしたら、レモンやホウレン草何トンも食べたことになってしまう…これが体にいいはずがありません。

どんなに体にいいものでも純粋成分を抽出すると毒になってしまう危険があるのです。

だから、「一日30品目の食材を食べましょう!」とか言われます。いろいろな物のごちゃ混ぜがいいのです。純粋成分はいけません。おそらく理想的な食べ物というのは、この世のありとあらゆる食材の栄養成分がバランスよくごちゃ混ぜになっている料理なのでしょう。

「この料理の主成分は何ですか?」と聞かれてもいろいろ全部入っているから答えられない。答えられないから何も入ってないのかと言えば、そんなことはない。

さて、人間の思想・信条(考え方)のようなものも同じじゃないかと最近思うのです。例えば、自分を客観視する作業というのは、仮想的に自分の目を自分の外に設定し、自分が今考えているのとは違う視点(考え方)で自分を見てみることです。

この「違う視点(考え方)」のバリエーションが30品目くらいあったら、とってもいいんじゃないでしょうか。

忌憚ない意見交換ができる夫婦は、「違う視点(考え方)」が倍増します。友人を多く持つことも、この意味で良いことです。読書も同じ。

長く人生を歩むことでも知見は広がり、「違う視点(考え方)」が増えます。ただ、この「視点」のひとつひとつは柔和なものではなくて、確固たる角であっていいと思います。若いうちは鋭い角であっても、その数が増えるごとに丸く見えてきます。

それはウニとか栗のいがのようなものかもしれない。「角はどっちを指しているのですか?」と聞かれても全方向を指しているから答えられない。答えられないから何も指していないのかと言えば、そんなことはない。

あるいは、多角形が角を増やすごとに円に近付いていくようなものかもしれない。ゆえに「違う視点(考え方)」が増えると、人間は丸くなるのである。
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意味にどれほどの意味があるのか

例えば、以前書きましたポアンカレの科学観。「近代科学の歴史は、科学的真理が人間の視点から見たひとつの見解にすぎないということを実証してきた歴史である」というものでした。

だから、犬には犬の科学がある。カラスにはカラスの科学がある。ヘビにはヘビの科学がある。カエルにはカエルの科学がある。マグロにはマグロの科学がある。…ポアンカレもここまで奇抜な表現はしてないでしょうけど、要はそういうことですよね。

科学にはたったひとつの真理がある。時代によって変わるのは観測精度等によるものであって、科学的真理は永久不変である…という思い込み

前掲書の数学の章には無理数や虚数が誕生した経緯も書いてありましたが、数学界でのいろいろな出来事の順序が違っていたら、現代の数学の有り様も違っていたのではないか?と思ったりもします。

例えば発展の順序が違ってしまって、現代の数学で既知とされる理論が未解決とされて、リーマン予想のような未解決の事柄が先に解明されて、数学が発展していく場合も考えられます。そんなふうにしてできた数学は、現代のものとは違った姿をしているはずです。当然、物理学も違った姿になるでしょう。

「意味」を追うことに意味は無いとは言いません。でも、意味は文字通り「味」なんですね。味付けしだいで人間好みにも、犬好みにも、カラス好みにも…なる。調理の順番次第で、味も違ってくる。

「唯一絶対」とか「永久不変」の「味」なんて無い。
「唯一絶対」とか「永久不変」の「意味」なんて無い。

それがあると思い込むことには、全く意味が無い。
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DNA…その人の遺伝情報が全てしまいこまれている。

複製のミスが無い限り、その人の細胞のひとつひとつが同じDNAを持っている。

ひとつの細胞が生まれる時、個々の細胞は、同じDNAなのに、それぞれ違った読み方する。それぞれの解釈で、思い思いに自分の体を形成していく。

だから、同じDNAなのに、脳ミソになったり、目玉になったり、口になったり、肛門になったり…する。

DNAこそが完全な情報。しかし、完全なまま細胞という姿になることはできない。完全な情報の一部分だけを活性化させて、偏った、不完全なものを指向することによって、情報は具現化する。

言わば、世に出ることを許される。

この宇宙も対称性の破れによって出現したとか。この宇宙の素粒子が完全にバランスが取れていたら、一瞬の光となって消滅したらしい。でも、そうではなかったらしい。完全にはバランスは取れていなかった。

やはり、この世は不完全なものだけが存在を許されるらしい。

やれやれ。

不完全なる我が身、不完全なる我が心…故に我あり。

しかし、DNAを思い起こしてほしい。不完全な姿をした細胞たちも、みんなDNAという完全な情報だけは持ち合わせている。この捻じくれた心にも、真っすぐなもの、完全なものが潜んでいるやも知れぬ。

としたら…

自分の中に完全な何かが潜んでいることを信じて、完全なる全体の一部としての自分を、しっかりと務めあげようではないか。

口は口として、肛門は肛門として、自分の務めを全うしようではないか。

生きとし生けるもの、この世の存在物の全てが、偏った不完全なるものではあるけれど、全体を含む完全なものを我々は共通に内蔵している。

個々が、それぞれの偏った活動に励むことによって、全体は生き生きと成立していく…
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言葉…言の葉、葉っぱなんですね。

木を蔽い、春は若々しく、夏は青々と、秋は色とりどりに装う。

そして、綿帽子をかぶる頃には忽然と消えてしまう。

それが、葉っぱ。

実体のようでいて、実体ではない。

確かに輪郭を捉えてはいるけれど、決して幹の形を正確に伝えているわけではない。

むしろ幹を隠し、時として大げさに、時として慎ましく、

あるいは美しく、あるいは都合よく、あるいは醜く…

健気に真実を語ろうと用いられることも有れば、

邪に真実を蔽い、虚偽を取り繕うために用いられることもある。

しかし、どうあろうとも、葉っぱは葉っぱ。

幹にはなれない。
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ウィルス性の病気を考えた時、「雉も鳴かずば撃たれまい」という言葉を思い出します。ウィルスに対して免疫が何も言わなければ(鳴かなければ)、病気にはならないのではないか?と思うことがあるからです。

もちろん全てのウィルスがそうだとは言いませんが、細菌のように積極的に戦う病原体というよりも、免疫系を攪乱させて病気(内乱)を起こさせる病原体が少なくないようなのです。戦争で言ったら兵隊さんではなくて、秘密工作隊のようなもの。

ヘルペスウィルスは、ずっと潜伏しているらしい。「いざ」という時に出てくる。昔風に言うと間者というのかな。「お前、内通しているな?」と問いただされるまでは良い奴だけど、発覚すると急に暴れだす…。

ウィルスは不幸な例ですけど、「幸せ」もそうかもしれない…とふと思いました。

不幸の法則と同じように、幸せの法則も、その他のすべての法則も、私たちの中に潜伏している…

高い所で空中に身を投げ出せば、たちまち重力の法則が私たちの体を支配するように…

「いざ」という瞬間に、そのポテンシャルは動き出す…

そのポテンシャルは、全てのひとに平等に潜伏しているのだけれど…

「いざ」を体験しない限り、それを感じ取ることはできない…

だから、しばしば人は…

自分の不幸のポテンシャルを呪い…

他人の幸せのポテンシャルを羨む…

しかし、ポテンシャルは平等に内在し、潜伏している…

あなたが気づいてくれるのを、じっと待っている…
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複素数みたいなもの…全然数学的な意味ではなく、飽くまでもイメージなんですが…私たちの頭の中には現実(real)の座標軸と想像上(imaginary)の座標軸があるな、と突然思いました。

実数成分(real part)とは例えば、駅まで何分で電車が何時だから、間に合うとか間に合わないとか。あの品物が幾らで手持ちが幾らだから買えるとか買えないとか。現実的な判断。俗なことと敢えて言いたい。

虚数成分(imaginary part)とは例えば、「人間一人の命は地球より重い」というようなこと。地球の上には人間だけでも60億くらい(?)いるわけですから、realの座標軸では到底ソロバンが合いません。そういうトンデモ判断を可能にする。

でも、夢とか希望とか幸福とか、これは虚数軸だと思うんです。汚い紙に書いた落書きでも、娘が最初に書いたひらがなならば、親にとっては大変な価値のあるものです。高価なステーキも、いっぱいのかけそばにはかなわない時もある。鑑定団では全然値段がつかない物でも、大切な人の形見ならば何よりも大切な物になる。誰からも憎まれるような悪党でも、その人を我が身に代えても守りたいと思う人がいたりする。…

実数軸で計ったら、にっちもさっちも行かなくて、つらいことばかりの憂き世なのです。でも、そこで夢を抱いて、希望を持ち続けて、やがて幸福を感じたりできるのは、虚数軸があるからだと思います。

もちろん虚数軸にも負の方向性は有って、良いことばかりではありません。どうでもいいことに執着して執拗に復讐を繰り返す犯罪者の心理も、実数軸では理解できないものです。

が、ここでは正の方向性に着目して、聖なるものはここに含まれるだろうと指摘しておきます。そこに、逆境の中でも笑顔でいられる可能性があると。

さて、先日までの内容とリンクさせますと…

お金というか、物の値段というのは、基本的には実数軸だけの概念だと思うのです。現実世界での物々交換を円滑に進めるために発明した極めて俗なもの。でも、そこに虚数軸が関与してくると、どんな値が付くかは全然予想できなくなる。例えば、有名選手が着用したボロボロのユニホーム。その選手が好きか嫌いかで0円〜無限大まで値段の幅は広がります。

刑罰の量刑もそうですね。基本的には実数軸だけの概念です。犯罪の再発を防ぐため犯罪者にはそれに見合った刑罰を与えて、言わば見せしめとするわけです。これは治安維持という極めて俗っぽい事情によるものです。でも、そこに虚数軸が関与してくると、被害者は私のかけがえのない人というような要素が入ってきたり、逆に被害者は少し痛い目に遭った方がいい人だったんだという要素が入ってきたりで、無罪〜死刑まで幅は広がります。

聖なる存在は、虚数軸だけの概念だと思います。だから、値段付けをしたりはしないし、賭博場にも通わない(もちろん、賭博場で人々を静かに見つめるということはあるかもしれないけど)。法廷にも立たない。犯罪ごときでとやかく言わない(もちろん、悪いことをしていいというわけではないけれど)。

まあ、これは私の勝手なイメージなんですけどね。我々は実際のところ、虚軸と実軸を常に行ったり来たりしながら(正に虚々実々の駆け引き?)生きていますから、実と虚をこんなふうに区別したところで何の整理にもならないかもしれませんが。

ただ、実→虚とか、虚→実という変換の過程で1+1=(無限大)みたいなトンデモ判断が起こり得るということは意識した方がいいんじゃないかなということです。

虚軸の関与を、私たちは主観的とか感情的とか言って排除しますが、これが悪い作用ばかりではない。真っ暗闇の中で光を見ることができる術でもあるのですから。虚軸の過剰な排除が、私たちから夢や希望を失わせたのではないか?ストレス社会を生み出しているんじゃないか?と思うのです。

仏教的には実→虚が禅定(止)で、虚→実が正観とかだったりするかもしれません。少なくとも止観双修が虚軸とうまく付き合うためのトレーニングになることは間違いないです。

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