トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

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以前、経営の神様(ドラッカー)と仏様の教えが似てるんじゃないか?ということを書きました。さらに、仏の教えは「金儲けの道」にもつながるんじゃないか?と最近思います。

この場合の金儲けとは、もちろん霊感商法とか、詐欺とか、悪い意味のものではありません。コツコツと努力を積み重ね、お金を払う人が得をした気分になれるような商売をし、信用を集めて、結果として繁盛し、お金が儲かるというパターンを指します。

釈尊の時代、沙門が食を得る方法は乞食と同じでした。「他の人が鉢の中に入れてくれた物しか食べてはならない、つまり一般の人々の好意に頼って生きねばならないという規定は、修行のための便利な状況を作り出すとともに、在家の人から「立派な人だ」と思われる必要性をも生む。」やがて大教団となり、大きな建物を建てたりしますが、全て寄進によるものです。

しかしながら、説法をしたり、相談にのったりということをしていたわけですから、何もしないで施しだけを受ける正真正銘の乞食とは違います。

それどころか…日々思索をめぐらすのは学者(哲学者)です。カウンセラーでもありました。説法をしバラモンを論破することもありましたから、話をするテクニック(技術)も必要とされたはず。新興宗教としてシェア(信者)を獲得していったわけですから、戦国時代のような競争社会の勝者とも言えます。

形而上の世界を扱う仕事ではありますが、世俗社会との接点は今日のビジネスと似た部分が多いような気がします。自分が今やっている仕事ともダブらせることができそうです。

「一般の人々の好意に頼って生きねばならない」というのは、現代の全ての商売に言えるのではないでしょうか?大企業と言えども、イメージを損ね信用を失墜すれば、生きていくことはできません。「立派な人(企業)だ」という評判は、仕事をする上で大きな助けになります。逆に打算に走って媚びるようなことをすれば、沙門としても成功しないでしょうし、商人としても成功しないでしょう。

自由主義とか民主主義とか、現代的なものと仏教は相性がいいように思います。毎日の仕事や生活の中で仏道の実践を目指したいと思います。まあ、それが在家に他ならないのでしょうけど。
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仏の心と言えば、慈悲の心。どうして「悲」なのだろう?という素朴な疑問がありました。悲嘆にくれても仕方が無いじゃないか…という疑問。

「大悲とは、仏が常に衆生の苦難を救済しようとする大慈悲の心をもっていること。」ということですが、「救済しよう」という積極的な気持ちと「悲」という感情とが自分の中ではなかなか結びつかないでおりました。

それが、ある日、納得できるようになりました。「命のノート」を読んで、ボロボロ泣いているときに、「なるほど!これか!」と思いました。

何も悪いことをしてないのに、純粋無垢な小さな命が病気に負けて消えていかなければいけない。救う術は何もない。医者も最大限の努力をし、実の親のように悲しんでいるのだから、責めることはできない。このいたたまれない気持ち。何ともできない歯がゆさ。自分が何かできることはないのだろうか?何かをしてあげたい!という強い衝動。積極的であります。

積極的であるけれども、これは「怒」ではなくて、「悲」です。

このような「悲」は、自分と他者の区別が(涙で?)ぼやけてきます。「悲」は、利己的な気持ちを弱めます(自他の区別が薄らぐのですから)。そして「悲」は、他者を責める気持ちをも弱めます。

老・病・死という苦が無くならない現実は、誰の責任でもありません。そして、根絶することは絶対にできません。であれば、これを現実として「受け止める」必要があります。そして、この苦しみが少しでも減るように(量的改善)、少しでも緩和されるように(質的改善)、即ち救済を願い続けるしかありません。

痛み続ける胸に、両手を合わせてグッと押しつける…つまり、祈るしかありません。「非」の字のような手が、「心」の上にある。これを以って「悲」となす。

そんなことを考えながら、お盆を迎えようとしています。我が家は明日、墓参りです。
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現代は「怒」の時代だと思います。

何か問題が起きた時、即座にみんなが口にします。「誰が悪いのか?」犯人が見つかるまで、責任の譲り合い(一般的にはなすり合いと言う)も積極的に(臆面もなく)行われます。そして、犯人(いけにえ?)が見つかると、「責任を取れ!」と連呼して吊るし上げる。

これが定式化し、日常化し、当たり前のルーチンとなっているようです。天下国家の一大事から、テーブルにジュースがこぼれた!というような問題に至るまで、このルーチンで処理されています。

そこには、「世の中は誰か悪い人がいない限り、問題は起こらない」という前提があるかのようです。そして、「悪い人は徹底的に懲らしめなければならない」というルールもあるかのようです。

このルーチン処理を行っている時の感情は「怒」。何か問題が起きると、私たちは必ず「怒」に支配されます。まさに、私たちは「怒」の時代を生きていると言えます。

「怒」は、自分と他者を徹底的に区別します。「怒」は、他者とは違う自分を徹底的に正当化します(犯人たる他者に責任転嫁することの裏返しです)。そして「怒」は、正義の名の下に、徹底的に他者を排撃します。寛容が入り込む隙は有りません。

動物も持っているような単純な怒りは、身体の活動を奮い立たせ、天敵との戦闘や逃走に適した肉体的状態を作ります。人間が仕事をする場合でも、肉体労働に限らず精神的な労働においても、このような緊張状態は必要だと私は思います。

仏教とてこれを禁じてはいない、と私は解釈しています。

問題なのは、つまり仏教が禁じているのは、必要以上にあらゆることをこの「怒」の状態に持っていく思考回路、すなわちルーチンだと思います。このルーチンのプログラムを変更する必要がある。

それには、「世の中は誰か悪い人がいない限り、問題は起こらない」という暗黙の前提を捨てる必要があります。「世の中は誰も悪い人がいなくとも、問題が起こってしまうのだ」という前提に置き換えなくてはいけません。

そうすれば、問題が起きた時に、それを「受け入れる(妥協)」でもなく「受け付けない(拒否)」でもなく、「受け止める(中立)」ことができるはずです。

そうすれば、責任者とおぼしき人物が洗い出されたとしても、「本当にその人だけを責めることができるのか?」と思う余地が出てきます。つまり、寛容の入り込む隙が生まれます。

さらに正義は争いのもとであることを想起すれば、拳を振り上げるようなことも滅多に起こらないはずです。

このようなプログラム変更を行って、問題発生と「怒」が直結する回路を断ち切らなければなりません。「怒」ではなく、みんなの輪、つまりドーナツの「ド」につながる回路にしなければなりません。
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実は、このタイトルで、記事一回分、暖めていた構想がありました。

大乗仏教には「お互いの違いを認めた上で一緒に行こう」という雰囲気があるようなので、その方法論とかエッセンスみたいなものを抽出することができれば、世界平和とか、これからの地球の舵取りの大きなヒントになるんじゃないだろうか?というものです。

そんなに簡単ではないだろう、とは自分でも思っていましたが、先週のコメントに書きましたら、「やはり無いだろう」という回答を即座に頂きました(笑)

回答いただいた水波坊さんは、こういった私の突飛な考えをそのままぶつけることができる方であり、きちんと受け止めて膨大な知識に裏打ちされた深遠かつ適切な回答を下さる方です。いつもありがとうございます<m(__)m>

さて、ポシャッたところで、もう一度考えてみました。すぐにコメントしてしまうと一回分ブログに穴があいてしまうので(笑)、ゆっくり考えてみました。

「幾何学に王道なし」ということがこの場合にも言えるということですから、要するに地道に行くしかないのですね。そこで思い起こされるのが「一燈照隅」。「萬燈照国」と続きます。そしていずれは「億燈照星(地球)」へと…。

「隗より始めよ」、まずは己が「お互いの違いを認めた上で一緒に行こう」という精神を持ち続けること、それは少なくとも私の場合は大乗仏典を読んで精進を重ねることであるわけです。そういう自分から発信される言葉や行動は、少しずつ周囲をも照らしていくはずです。

このブログもそのひとつとなればいい…。

「自分の実践しかないのだ!」と気付いたときに、先日紹介した弘法大師の言葉を思い出しました。「それはすなわちお前自身の三密がそれではないか。決して外に求めるべきではない。」という激しい一節。「己の身を惜しんで、近道など考えるなよ!」と一喝された気分でした。

この一節は最澄に送った絶縁状の中の一文ですから、この場に引くのは躊躇したのですが、先にあげた「一燈照隅萬燈照国」は最澄の言葉ですから、それぞれの意見を聞くという意味で、まあいいかな…。

この二人の確執が日本仏教の宗派間の行き来を閉ざすきっかけとなったそうですが、仏道を極めたお二人でさえもそういうことですから、難しいんだな…ということは分かりますね。

尤も、二人の場合は、閉ざすことによって併存(共存)の道を開いたのだと、私は解釈してます。そう解釈すれば「お互いの違いを認めた上で一緒に行こう」の良い模範(つまり一乗のテクニックのひとつ)とも言えますが…苦しいかな…。
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人体という小宇宙。細胞というブロックで構成されています。

最初は一個の卵。そこから分裂して、それぞれの持ち場におさまります。脳になったり、心臓になったり、肛門になったり…

皆が共通のDNAを持っています。ひとつひとつは、もともと同じブロックなのだけれども、違う場所で違う働きをして、その「役」を演じています。

脳は王様みたいな「役」、心臓は働き者の「役」、肛門は身分が低い(?)「役」…。

「役」に優劣はあるけれど、もともとは同じブロック。

「立場」に優劣はあるけれど、もともとは同じ人間。

もともとは同じなのに、損な「役」っていうのはある。

もともとは同じなのに、つらい「立場」っていうのはある。

損してもつらくても、そうでない「役」や「立場」に気持ちをうつせたらいいね。

損してなくてもつらくなくても、そういう「役」や「立場」に気持ちをうつせたらいいね。

それが、ひとつの小宇宙を構成するための秘訣…
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ブロックとは、レゴブロックとかダイヤブロックとかのブロックです。

何でも作れます。自動車もお家も人間も…何でもかんでも。

でも、本物とはちょっと違う。本物の自動車は、自動車の部品でできているから。本物のお家は、お家の材料でできているから。本物の人間は、人間の細胞が集まってできているから。

でも、本当に違うのか?もっともっと分解すれば、全部原子の集まりだぞ。本物は、原子というブロックで作られてるだけじゃないか?

先日の縁起説の説明を読んで、そんなブロック的宇宙観を思い出しました。(自分の中に以前からあったものです)

精神的なものも物質的なものも、全ては生滅変化するものである。何もない所に突如として生じたり、存在するものが全くの虚無になったりすることはない。すべては、因(直接原因)と多くの縁(間接原因・条件)との関係によって変化しているだけである。生とは他のものが形を変えて姿を現すことであり、滅とはそのものの姿がなくなって他のものへと形を変えることである。

生とは、バラバラなブロックが組み立てられること。滅とは、ブロックがバラバラになること。

ブロックがバラバラになれば、今まで目の前に有った物が見えなくなってしまったりします。でも、ブロック(原子)が消滅したわけではない。

ブロックが組み立てられれば、今まで何も見えなかった所に忽然と物が現れます。でも、ブロック(原子)が存在しなかったわけではない。

原子レベルで捉えれば、縁起説の説明はそのまま科学の教科書に載せてもいいような文章です。

ブロックがひとたび「何か」を形成して目の前に現れた時、私たちはそれがブロックの集合体に過ぎないことを忘れ(あるいは気づかず)、「何か」という名前や意味づけにばかりとらわれてしまいます。

「もの」は何でも、(そもそもブロックなのですから)ブロックとして振る舞いますが、私たちは「何か」として見ようとばかりします。

ブロックで作った不格好な塊を、車と呼び、お花と呼び、お家と呼び、夢中になって遊ぶ子供たち。しかし、それを笑う大人たちも、結局は同じ遊びを夢中になって続けているに過ぎないのかもしれない。
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90歳のあるお婆ちゃんなのですが、木製のシンプルなベッドを愛用しています。比較的元気なので介護用のデラックスなベッドは要らないけれども、ベッドじゃないと夜中にトイレに行くときに起き上がれないとのこと。

しかも、この起き上がれるベッドの高さがとても微妙らしい。高さが足りなくて、漫画の雑誌を3冊ほどずつベッドの足の下に積んで調整しています。これ以上高くても駄目だし、これより低くても駄目。

こういった微調整は、漫画の雑誌なんか使わなくてもできる製品も多いと思います。そして、しっくり来なければ返品・交換。そんな消費生活に最近は慣れてきているので、このお婆ちゃんの微調整はとても新鮮な感じがしました。

100円ショップで買える物を微調整して組み合わせて、自分にピッタリ合った自分だけの物を作るという動きも、一方であるようです。テレビで紹介されたりしています。職人だな…と思います。

こういうのが職人の出発点なんだろうな…と思ったりします。

職人気質と言えば、気難しくて、黙々と物を作り続けるイメージです。気に入れないとぶん投げて叩き壊してしまったり、周囲に当たり散らしたり…。「思いやり」とは程遠いイメージ。

けれども、テレビに出てくるニコニコで元気で好奇心いっぱいの主婦でも職人になることはある…。

「思いやり」としての科学で調べた、物の性格をもとに、微調整して、組み合わせていく。うまくいかなかったら、「ダメだったわ。」と言ってゲラゲラ笑うような、そんな職人。

従来と全く違う職人気質も有り得るような気がします。

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「科学とは冷たいもの」という印象が、私の中にはありました。科学は客観性とか再現性を重視します。

「これって、こう思うよね?」とか、友達に同意を求められても、「そうかな?そうでない場合も、ひょっとするとあるんじゃないかな?」的な対応をすることが多々ありました。それが客観性ということ。

更に極端な例を挙げれば、事故が起こりそうな状況を何度も作り、起こりそうになっても防ごうとせず、百回のうち何回大事故になるかを冷静にカウントする。それが再現性を重視するということ。

理学部に通う人間にはそんな「さだめ」があると思っていました。だから友達が少なかったんだと、最近反省しています。

先日のドラッカーの話で、ずっと前に書いた「さん」づけの科学を思い出しました。

虫さん、鳥さん、魚さん生活を調べる生物学。水さん、鉄さん、炭素さん、アルコールさん、水酸化ナトリウムさんの性質(仲がいいとか喧嘩するとか)を調べる化学。原子さん、陽子さん、電子さんの性質を調べる物理学。

原子さんという名字、陽子さんという名前は実際にありますね…。

「○○さんて、どんな人?」「緊張するとどうなる人?」「お酒飲むとどうなるの?」「若い時はどうでした?」「何が好き?」「嫌いなものは?」等々、人間に対して抱くような好奇心。

科学する心は、実はこの好奇心に通じるものなんじゃないだろうか?

もう少し早くこれに気づいていれば、友達がもっと多かったかもしれない…。

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ドラッカーの思想は仏教思想の中にもあるのでは?ということを書きましたが、今回は科学技術について考えてみたいと思います。

仏教思想はあらゆる思想を含むと言われ、科学と仏教の類似もよく指摘されるところです。先日仏教との類似を指摘したドラッカーの経営思想は、科学技術とも似ていることに気付きました。

その人がどんな性格の人かを分析し、考慮し、それぞれがそれぞれの持ち味を出し合えるように、組織の中で人間を配置していく。

これがドラッカーの全てではないでしょうけど、ドラッカーを踏まえた経営テクニックのひとつであるとすると、科学技術も全く同じことなんじゃないでしょうか?ということです。

人を物質に置き換えればいいのです。その物質がどんな性質を持っているかを分析するのが「科学」の一分野です。高温に加熱するとどうなるか、高圧に加圧するとどうなるか、純度を上げてみてはどうか、他の物と混ぜてみてはどうか、現象の再現性はどうか…。

物質の性質が分かったところで、これらを組み合わせて、求められる機能を持ったシステムを構築していくのが「技術」です。

これはまさに法隆寺を造り上げた職人技と同じでありますし、「樹の癖組み」を「人の癖組み」にまで発展させたときに哲学思想として成立します。

買った製品(科学技術によって構築されたシステム)がうまく機能しなくなると、すぐにメーカーにクレームをつけたり、捨ててしまったり、が当たり前の昨今です。

それを間違いだとは言いませんが、造り上げた職人技に感嘆し感謝することは少なくなりました。壊れたのを幸いに、分解して中身を知りたいという好奇心も失せてしまったような気がします(もちろん最近の製品は微細モジュール化してしまっていて、電気屋さんも修理できないような代物が多いから、仕方がないのですが)。

もともとバラバラに存在する物質群を組み合わせて、スイッチを入れたら確実に動くものに仕上げているの科学技術です。非常にレベルの高い職人技なのです。動かないのが当たり前の物を、動くのが当たり前の物に仕上げている。

ところが、動くのが当たり前の物が身の回りに余りにも多いものだから、動かない物を見ると多大なストレスを感じ、あたかもその存在自体が許されないかのように思い、怒りを露わにする。

これは、間違いですよね…。

私たちは、知らず知らずのうちに、人間に対しても、こういう態度を取っているんじゃないでしょうか。

《つづく》
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ドラッカーが流行っているそうです。クローズアップ現代では、「人はコストではなく資産である」、「組織は人を幸せにするべきだ」といったドラッカーの言葉が紹介されていました。

ドラッカーの名前は聞いたことがありましたが、著書を読んだこともないし、どんな考えの持ち主なのかも分かりませんでした。糸井重里さんもファンだそうで、いいコメントをされていました。

その番組を見ただけの私がドラッカーについて語るというのはとっても無謀なのですが…新しさを感じなかった。

ドラッカーを仕事に生かしてうまくいった!という経営者が紹介されていました。自分の部下が思い通りに動いてくれない、という不満を持ち続けていた経営者。「人はコストではなく資産である」という考え方を取り入れて、部下一人一人の長所に着目、それを褒めてあげたり、それを生かせるポストに異動したり、という改善を行ったら、職場全体の雰囲気が明るくなり成績も良くなった…という話。

いい話だし、なるほどと思うのだが、新しさは感じない…

「人はコストではなく資産である」と言われて、最初に思い出したのが武田信玄の言葉。「人は城、人は石垣、人は堀」と唱えて、家臣に重きをおき、堅固な城は築きませんでした。

人の長所を生かして人事を再構成した件では、法隆寺建造のため千三百年前の飛鳥時代から口伝された言葉「塔組みは樹のくせ組み」を思い出しました。宮大工の西岡常一らが著書で紹介しています。

部下が自分の通りに動かないと言うのは、大工が、山から切ってきた樹が真っすぐでないから使えないと言うのと同じこと。でも、実は真っすぐな樹は弱いのだそうで、曲がった方向を考えてその強みを生かすように組み上げていくのが塔組みの要諦なのだそうです。

「樹」を「人」と読み、「くせ組み」をすると、先ほどの経営者と同じになります。ドラッカーは、日本の心を唱えていることにならないか?

「くせ」を「煩悩」と読めば、仏教になります。建てているのが法隆寺ですから、仏教由来の知恵なのかもしれません。これをうまくまとめているのが理趣経百字偈だと思います。尤も、法隆寺の時代に理趣経は伝わっていませんから、他の経典を基にしているとは思いますけど。

となると、ドラッカーは仏の知恵を唱えていることにはならないか?
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