トトガノート

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「自己認識への道」

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

さらに、復活が先か死が先か、というのが問題になるらしい。

《以下引用》
主は初めに甦り、それから死んだのである。 『ピリポの福音書』
《引用終わり》

通常は死ななければ甦ることはできないはずですが、宗教的には、甦るのが先でそれから死ななければならない。

この順番の場合、キリスト教で言う「復活(甦ること)」は仏教で言う「悟り」と同義語のようです。生きているうちに甦れば(悟れば)、本源へと還ることができます。

順番が逆の場合(通常、多くの場合はこちらの道を辿るけれども)、死んでしまうと中間世界(バルドとかバズラフとか呼ばれる場所)に行ってしまいます。その後の復活は、再びこの二元性の世界に生まれ堕ちることを意味します。

私たちは生きているうちに、甦らなければいけない…

《以下引用》
さて私は熱がひどくなり、いまにも死にそうでした。もしそのときこの世から去ったならば、私はどこへいったことでしょうか。あなたの真実の秩序のもとに、自分の行いにふさわしい地獄の火と責め苦のもとに行くよりほかなかったでしょう。……しかしあなたは、このような状態のまま私が二重の死をとげることを、お許しにならなかった。実際、母がどれほど私のことを心配していたか、私を霊において産むために、肉において産んだときよりもどんなに大きな気遣いをしていたか、私はとうてい言いあらわすことができません。(アウグスチヌス『告白』)
《引用終わり》

悟らないうちには死ねない…これが生きる意味であり、命を大切にしなければいけない宗教上の理由ということになるでしょうか。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

ついに、性に関する記述です

《以下引用》
愛とは、かつて成立していた男女両性具有への追憶と憧憬である。人間は性愛の中に、かつての本来的な在り方を無意識のうちに(これを本能と言い換えてもよい)志向しているのである。どんな人間も止み難い異性への憧憬と性愛を通して満たされたいという止むにやまれぬ衝動に駆られてゆくのも深い形而上的理由があるのだ。しかし、一方で性の分裂が人間の歴史に計り知れない暗い影を落としてきたことも事実である。人間は情欲に燃え、満たされぬ苦悩を募らせつつ、性のエネルギーは人間の意識下に鬱々とそのはけ口を求めて彷徨う。いずれにせよ、人間の愛の中に流れているどんな感情をとってみても、その一つ一つが深く形而上的な悲劇の投影、あるいは反復をなしているのである。
《引用終わり》

もともと一つであったものが二つに分けられているために、再び一つという本来的な状態に戻ろうとする…それが愛。

電気の+と−、磁気のNとSのようです。自分に無いものを持つ人に対して抱く、尊敬、憧憬、羨望、嫉妬…これらの感情も、再び一つという本来的な状態に戻ろうとする求心力が発端となるのでしょうが、自他の別が頑として存在しているために、そのレベルに留まってしまっているということなのでしょう。

男女の分離とは、生物学的に言えば有性生殖の開始のことであろう、という指摘は、以前書いております。「性」の別は、単に自分が持っていないものに対する求心力以上の意味があります。それは「死」が関わってくることです。

それについては、次回のお楽しみ…

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

「性」の別は、単に自分が持っていないものに対する求心力以上の意味があります。それは「死」が関わってくることです。

《以下引用》
さらに性の分裂は、決して看過することを許さないもっと重要な意味を含んでいた。それは性が人間に死の運命を与えたことである。男女両性具有の完全な人間が二つの性に分裂した結果、それに続くすべての人間が死の支配下に置かれることになるなどと誰が一体予想し得たであろうか。禁断の木の誡めに遵って人間は性に目覚めるべきでなかったのかも知れない。しかし、人間はこの最も哀切な営みから生まれ出たものであり、人間はそこで悩み、挫折しようとも常に喜びと信頼をこの性の中に求めてきたが、その性が人間に死の運命を担わせることの矛盾、どうしても避けることのできない死が何を結果するかを人は知らなくとも、人間に死の運命を与えたものが性(の分裂)であったということは明確に心に留めておかねばならない。性は人間の生命の根源であるとともに、また死の根源でもあるのだ。

イエスのアポクリュフォンはこの分裂の中に死んだ男と女を再び統合し、性の分離を解消することによって、もはや死を味わうことのない永遠のいのちへとわれわれを連れ戻そうとしていることなど人は知る由もない。ここで人は「死者の復活」が性の分裂とその統合に重ね合わせられていることにはっきりと気づくべきである。

あなたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが男と女を一つにして、男を男でないように、女を女でないようにするならば、……そのときあなたがたは神の国に入るであろう。(『トマスの福音書』22)
《引用終わり》

以前にも同様のことを書きましたが、球体だった受精卵がしだいに身体の形をなしていく過程で、全く同じDNAを持った夥しい数の「自分」がアポトーシスしていくわけです。しかし、それは輝かしい成長であって、「死」だとは誰も捉えません。

有性生殖は自分の子孫のDNAパターンのバリエーションを増やして、環境への適応を図る営みでもあります。環境に適応できない子孫が死滅することで、そのDNAパターンを抹消し、適応できるパターンだけが残存することに寄与する…これも「種」を守るためのアポトーシスのようにも見えます。

このような生物学的な「死」、アポトーシス。肉体的な「死」にもいろいろあるようです。

《つづく》
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興味深い記述がたくさんありましたので、後半は細かく区切って引用させていただきました。今回で読了とします。

二つになったわれわれ人間がそのプロセスを逆修して一つに帰っていくこと、それが悟りということになるかと思います。

二つになるということは男と女に限らず、長い短い、黒い白い、高い低い、いろいろな座標軸が考えられます。前に読んだ『中論』の縁起説がこのようなことを話題にしていたと思います。「浄に依存しないと不浄は存在しない」というような論理展開で、一つの座標軸上で相対立していることが縁起だというようなこと。

つまり、無数にこのような座標軸は考えられるのでありまして、私たちは無数の「一つ」を「二つ」にして存在していることになります。性という座標軸は、少なくとも『中論』の中では one of them として扱われているようです。これに慣れ親しんだ形で今まで仏教を考えてきましたので、性という座標軸を殊更取り立てることに若干戸惑いはあります。

ただ、確かに性の違いのもとに人間(の肉体的部分)は生まれるわけですから、男−女の座標軸が最も大きな根本的なものと考えることは何ら不自然ではありません。

《以下引用》
しかし幸いにも、男と女を一つにし、性を超えることができたら生死はもちろん、善悪、愛憎、美醜、因果……すべての二元性を超えて一元性の世界へと帰って行く。なぜなら、性こそあらゆる二元性の根源であるから、性を超える時、人はすべての二元葛藤から自由になるのだ。つまり、「二つのものを一つにする」時、われわれはそこから流出してきた本来の場所、すなわち幸・不幸をも超えた至福の源泉(プレーローマ)へと帰りゆくのだ。
《引用終わり》

ユングの『賢者の薔薇園』の第十図〈新生〉もこのことを意味しているという指摘も、興味深いのでメモっておきます。

劉一明の「凡夫の道」と「仙仏の道」の話も興味深いのですが、この次に読もうとしています『神秘主義の人間学』で取り上げることにしたいと思います。

以前書きました夫婦という立体感というのを思い出しまして、読み直してみました。

いろいろな二元性の座標軸が混在するこの世界は、立体的な世界と見做すことができます。それを感じ取るには、目が二つあるように、耳が二つあるように、少し距離を置いた二点間で観測することが必要です。

夫婦とは男−女の座標軸上で「少し距離を置いた二点」と言えます。二元性の世界を、二元性を保ちながら(凡夫のまま)生きる上では理想的な形態のひとつなのかもしれません。

《最初から読む》
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