トトガノート

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「自己認識への道」

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
命は尊いなどと、いかにも人間について知っているかのように大人たちは言うが(くれぐれも断っておくが、私はそれに異を唱えているのではない)、果たして後れて来る者たちに納得のいく説明ができるとも思えないし、包み隠さず言えば、あなたという存在がただ男女の成り行き、あるいは計画ミスであることも充分に考えられることだ。そして、経過はどうあれ、父母から得た身体(色身)はいずれ朽ち果てる。われわれはそれをもって自分と考えているわけだが、その始まりから他人に委ねられている自分を、果たして「私」とするだけでいいのかということだ。
《引用終わり》

「一人の人間の命は地球よりも重い」などという迷言もこんなところからきているのでしょう。

色身については本書に説明がありますが、真身の対義語です。「色」は身体のみならず物質をも指しますから、エロい意味は無いと思います。

《以下引用》
こういう自らの出自を曖昧にしているから、ときに存在の虚しさを感じ、また、逆境に晒されることにでもなれば、自己の無力を痛感し、生きる意味が分からなくなるとしても何ら不思議はない。…もしかしたら、われわれはその虚しさを覆い隠すために、人、物、趣味、地位に執着し、真に手にすべきは何かを知らず、興味の赴くまま、死ぬまでいろんなことにチャレンジしているのかもしれない。しかし、独り自分と向き合う勇気だけは持ち合わせていない。このように、われわれ人間の始まりを「男女和合の一念」と考えるのに対して、プレーローマ(本源)まで遡るところに、グノーシスの宗教(だけではないが)と、いわゆる人の道(人倫)の違いがある。その違いを鋭くついているのがイエスの次の言葉である。

イエスが言った、「もしあなたがたが女から産まれなかった者を見たら、平伏しなさい。そして彼を拝みなさい。彼はあなたがたの父である」。(『トマスの福音書』15)
《引用終わり》

「自分はカスなんじゃないか?」という絶望感。人間はこれに直面しないようではダメなんじゃないかと、最近、私は考えます。そう感じないような鈍感ではダメなんじゃないかと。…なんて書いたこともあります。今も、そう考えますけど。

女から産まれなかった者というとイエスの処女降誕が思い浮かびますが、文脈から違うということです。これについては次回も触れたいと思います。

「女の股から生まれたものはマクベスを倒せない」という言葉も思い出します。「女が産んだ者」という表現が新約聖書にあるようで、これを踏まえていることは明らかです。「女が産んだ」には自然分娩のニュアンスがあるそうで、「女から産まれなかった者」を帝王切開と解釈して、マクベスでは落ちとしています。

私も、わが娘二人も、女の股から産まれてはいません。が、「女から産まれなかった者」という言葉には、もっと深い意味があるということなのですね。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
伝統的なキリスト教が混乱し、躓きの石とも言うべき処女性という概念は、女から生まれた命(肉体)が死すべきものに定められているのに対して、イエスだけではなく、われわれの中にも、女から生まれたものではない何かが存在することを分からせようとして編み出されたレトリックなのだ。素直さはときに愚直となるだけではなく、危険でもある。なぜなら、真実を見ることよりも、人を一生過誤の中に閉ざす堅牢なバリアーともなるからだ。もちろん、性を介し、女から生まれた血肉のからだは神の国を継ぐことはできないが、この朽ちるものの中に朽ちないものが隠れ住まうのだから、ことさら性、あるいは性を通して生まれてくるものを貶めることもなければ、逆に、出自を捻じ曲げて、敢えて言挙げする必要もない。そうでなければ、われわれをして終生間違った信仰に閉じ込めることになろう。「真珠は泥の中に投げ込まれても、価値を失いはしない」と言った『ピリポの福音書』の言葉を思い出してほしい。
《引用終わり》

「性」に関する箇所にやっと辿り着いたようです。

これはとても興味深い指摘です。このようなレトリックを使っているがゆえに、キリスト教の神は常に「父」と呼ばれるのでしょうか。

「朽ちるもの」の中に「朽ちないもの」が存するという形で生き物が成り立っていると説明するのであれば、肉体と魂という捉え方でいいと思います。「物」と「心」という区別でもいいかもしれない。「朽ちるもの」である肉体は、性の営みによって発生する。「朽ちないもの」はそれとは全く無関係に存在すると。

「女」という言葉を使った説明が、却って真理を見えなくしてしまったということでしょうか。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

禅語の「父母未生以前の面目」(劉一明は「未生身以前の面目」と言う)については「瞑想の心理学」にもありました自分の肉体をいくらかき分けてみても、そこに「自分」はいない…

《以下引用》
…人間の本性が神(仏)であるにもかかわらず、父母(男女)から得た肉体にかかわり続けるばかりで、一向に「自己の本性」が見えてこない。一体、自らの本性を蔑ろにして、何になろうとも、足のサイズに合わない靴をはいているように、どこかしっくりこないであろう。誤解があっては困るが、人間は自らの本性を明らかにし、神(仏)に成るしか他になるべきものなど本当は何もないのだ。

私は端的に神に、神は私にならなければならない。もっとはっきり言うならば、神は端的に私に、私は端的に神にならなければならない。(エックハルト『ドイツ語説教』)
《引用終わり》

これは華厳経にも似たイメージです。

《以下引用》
しかし、アウグスチヌスが「私たちは神に与(あずか)ることによって神のようになるべきであるのに、神から離れることによって自分自身が神のようになろうとした」(『神の国』)と言ったように、神に成るには二つの道がある。一つは神から離れ、欠乏と貧困に我慢ならず、劣等感の裏返しに過ぎない権力志向と自己顕示欲に取りつかれた人間が、これまた彼に取り入る愚かな大衆に祭り上げられて、やがて神の如く振る舞う危険な暴君へと変貌する。もう一つは神に与る自己認識への道を通して神と成る。前者こそ、この地上のすべてを支配せんと、歴史の至るところでホロコーストを引き起こし、その代償は誇大妄想が招いた狂気の末に自ら果てた者たちだ。…

彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。(『ピリピ人への手紙』)
《引用終わり》

「神を恐れぬ振る舞い」などとも言いますね…

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

もう一つの道、神に与ることによって神のようになる道、すなわち自己認識への道はどういうプロセスを辿るのか。

例えば、学問は、主客に分かれて、知るもの(主)が知られるもの(客)に関する知識や情報を集める作業であるが、これは単に物知り(情報通)になるだけであって、知る主体である自分自身については知ることができない。それらは人間が知るべき究極の真理にはならない。

《以下引用》
そこで、自己認識への道は何よりも知るもの(主)が知られるもの(客)にならねばならないが、知る対象が転換され、自己を知ろうとしても、あなたが知るのは自分の内側で何の脈絡もなく行き交う思考と絶え間なく続くおしゃべりでしかないだろう。…だからそこには何もないと性急に結論を出し、外に向かえば、結局、過ぎ行く「世の富」を手にするだけで、イエスが言ったように、再び空のままこの地上を去ることになる。それゆえ、もう少しわれわれは内側に留まって、とりとめのない思考や感情の流れを、何の判断も下すことなく、ただ見ている必要があるのだ。すると、やがて妄りに起こるお喋り(言葉)と感情の乱れ収まり、あなたは一つに纏まって、沈黙の中へ入っていくだろう。

…この沈黙の中で、あなたがこれまで自分と見なしてきた自己の輪郭は曖昧になり、その深淵の中へと自己が失われてしまうような恐怖を覚えるであろう。というのも、あなたの個性を形成してきたものはあなたがこれまで良くも悪くも経験した心象(記憶)の集まり(蘊)であり、それが一滴の雫が大海に溶け合うようにプレーローマ(充溢)の中に消え去ろうとしているのだ。…

彼らの最後は再び彼らの始めのようになるであろう。つまり、存在していなかったものから出てきたように、やがて存在しなくなるものへと、再び戻ってゆくだろう。(『三部の教え』)
《引用終わり》

波が大海に消えていくようでもあります。

かつて、子ども手当の使い道に関する反論に使った論法にも似ています。

思い浮かべてごらん…「本当」の世界を、というのを書いたこともあります。

瞑想(止観双修)のプロセスですね。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
彼が言った、「主よ、泉のまわりには多くの人々がおりますが、泉の中には誰もおりません」。(『トマスの福音書』74)

生の源泉(本源)であるプレーローマの周りで人々は自らの個(自我)を保ちながら、多事に明け暮れ、あれこれと頭を突っ込んでは、しばらくは我を忘れて興じる。しかし、その中には誰もおりません、とイエスは言う。…それはただ単に、生の源泉に帰ろうとする人は多くないというだけではなく、その深遠を覗き込むことは、われわれの死(自我の死)を意味しているから、人は無意識の内にそこに帰ることを避けているというのが一つであり、実際、この始めが終りとなるプレーローマへと死のダイブをし、自己が消え去ることを許す勇気ある人しかそこに辿り着くことはできないから、当然の事ながら、そこには誰もおりませんということになる。
《引用終わり》

悟ろうと思えば、なお悟りは遠ざかる…悟りのパラドクス

成就しないことでその純粋が完結する純愛のジレンマにも似ています。

自己を失うことで実現する無自己実現

この失うべき自己(仮我)の消失を、禅では「大死」と呼んでいました

キリスト教でも同様の表現があるということですね。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、いのちを失う者はそれを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。(『マタイの福音書』)

「ほんの一瞬でも、完全に自らを捨て去る人には、すべてが与えられるであろう」(エックハルト)

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます…自分の命を愛するものはそれを失い、この世でその命を憎むものはそれを保って永遠のいのちに至るのです。(『ヨハネの福音書』)

等々…

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
自己認識が神認識である(キルケゴール、そしてスーフィズムの思想家イブン・アラビーなどが好んで引用する「自己を知るものは主(神)を知る」というハディースを踏まえた成句)とは、自分自身を知るというのではなく、あなたが無の中に消え去り、神と一つになることによって、自分が神以外の何ものでもなかったと知ることなのだ。…

自己認識への道をわれわれが辿るとき、その行き着いた結論が「自己自身を見出す者に、この世はふさわしくない」というのであれば、宗教がこの世に適応するためにあるのでないことだけは明らかである(私は宗教を自己認識に至る方法論を説くものと考えているから)。自己を認識するに至った完全な人間はもはやこの世には属していないだけではなく、生と死からなる幻影の世界を超えた永遠のいのち(まことのいのち)に到達している。
《引用終わり》

仏教を御葬式の作法としか捉えていない人にとっては、仏とは死んだ人のことでしかないでしょうから、「死んで仏になる」という言葉に何も違和感は感じないでしょう。私も仏教の勉強をするまではそうでした。

その場合、「即身成仏」という言葉がやはり引っかかります。死なないで仏になるというのは言語矛盾でしかないからです。

確かに、ちゃんとした仏教の中でも「即身成仏」に関する議論は続いているんでしょうけど、仏(真の覚者)になど何回生まれ変わってもなかなか成れるものではないという考えから、今生で仏になろうなんていうのはどうだろう?というのが論点なのだと思います。

ところで、「死」の意味が「大死」だとすれば、「死んで仏になる」というのはこれまた全く当たり前な意味でしかありません。

妄念の塊である仮我が死ぬということは、即ち悟りを開くということ(上の引用文で言えば「無の中に消え去」ること)。仏(ブッダ)になることにほかなりません。肉体的な死を意味するわけではないので、「即身成仏」という言葉にも特に引っかかるところはありません。

「死んで仏になる」という表現が、仏教を単なるお葬式の作法に誤解せしめているとしたら、とっても残念なことです。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

グノーシスの宗教では、人間が存在する場所として、この世、中間、復活の三態が考えられているそうです。

《以下引用》
…復活には二つあることになる。一つは永遠のいのち(霊のからだ)に蘇り、本源の世界(プレーローマ)へと繋がる「第一の復活」であり、キリスト教(だけではないが)が勧めている真の意味における復活である。もう一つは、死はすべての終りと高を括っている愚か者も含め、死しても本源の世界(永遠の故郷)へと辿り着くことができず、無知ゆえに、真に悪しきものから「中間の場所」へと入って行く「第二の復活」である。
《引用終わり》

「復活」は解脱、「中間」は輪廻を繰り返している状態、と置き換えれば、インド哲学と同じになるかもしれません。

さらに、血肉のからだ(肉体)を脱ぎ捨てても、復活を成し遂げずに(つまり霊のからだを得ずに)中間世界を彷徨っているからだを考える必要があると指摘しています。

《以下引用》
人間はその本質において、霊的、心的、物質的の三種類に分かれて、存在するようになった。(『三部の教え』)

…現在のわれわれが知っているのは一番外側にあって物質からなる身体の次元である。その内側に心(魂)からなる身体(次元)がある。生と死、闇と光、神と悪魔、あらゆる二元対立はその中にあり、天国と地獄もその心に属している。肉体を脱ぎ捨てて「中間の場所」を彷徨う者はこの心からなる身体を纏っているのだ。そして、さらなる内側に究極の次元である霊からなる身体がある。それはもちろん、真理の身体(真なる肉)と呼んだものであり、完全に満たされたプレーローマの次元なのだ。その真理の身体はイエスの場合と同様、われわれが本来そうであったところの身体であり、真の復活を通してわれわれが再び回復することのできる身体と言ってもいいし、また世界(次元)と言ってもよい。そして、前の二つはいずれもこの真理の身体の模像であり、それらは真理の影、つまり幻影の世界をなしているのだ。
《引用終わり》

緻密な論理を積み上げた結果、霊とか魂に到達しました。

昔、オーラカメラをいじっていた頃、オーラの本も読みました。その時は、七つくらい自分の身体があって、重なっているというような考え方だったと思います。

でも、3つくらいで充分だと思います…

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

『チベット死者の書』では、中間世界をバルド(中有)と呼ぶそうです。中間は死から次に再生するまでの四十九日間を言います。今生で真理(法)を覚れば、究極の身体(法身)を得て、バルドを彷徨うこともなく、本源の世界(法界)へと帰り、二度とこの世には戻らない。しかし、多くの人の場合は、辿り着いた世界(バルド)は自らのカルマに随って次々と起こるさまざまな幻影に惑うイマージュの世界…

《以下引用》
このように『チベット死者の書』における中間世界(バルド)は文字通り死と次に生まれるまでの間に位置する幻影の世界であり、多くの者たちがこの道(チョエニ・バルド)で彷徨うことになるから、まさに死の瞬間(チカエ・バルド)から次の再生(シパ・バルド)に至るまでの間、死者(の魂)を教え導くことを目的に編まれた経典である。しかし、殆どの人は中間世界でも覚ることはできず、男女の交愛の幻影に惑わされ、再び子宮の中へと入る。…かくして、われわれは生と死からなる物質世界を再び捉え、土からなる血肉のからだを纏って、また一から営々と生業に勤しむ。
《引用終わり》

以前、私は不思議な方々に率先してお会いしていた時期がありましたので、臨死体験の経験者(自称)にもお会いしました。「自らのカルマに随って次々と起こるさまざまな幻影に惑うイマージュの世界」は、自分が他人に対してしたことを他人の立場で体験するので、酷いことをしてきた人にとっては正に地獄だという話でした。

それは、本当なのか、幻覚なのか…当時『チベット死者の書』はNHKでも取り上げてスペシャルを組んだり本を出版したりしていましたので、それを夢中になって読んだ結果なのか…

ともかく、チベットでも中間世界(バルド)という考え方があるということですね。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

『チベット死者の書』ではバルドと呼ばれた中間世界ですが、イスラーム神秘主義ではバズラフというそうです。

《以下引用》
スーフィズム(イスラーム神秘主義)はこの物質の世界(二元性の世界)と真理の世界(一元性の世界)の中間に位置する心(魂)の世界をバズラフ(barzakh)と呼ぶ。また、復活にも小復活と大復活の二つがあると言う。小復活は今生において真理に目覚めることができなかった者が中間世界(バズラフ)に入ることであり、その世界は大きく分けて天国と地獄の二つに分かれるが、すべては生前の行為に相応しい姿をとって転々と彷徨うイマージュの世界であり、モッラー・サドラーはそのような心(魂)が彷徨うことをタナースフ(tanasukh)と呼ぶ。一方、大復活とは今生で真理に目覚めた者がこの世の源である本源の世界(存在一性の世界)へと帰り行くことであり、今生においてスーフィー的死、すなわち「死ぬ前に死ぬ」ことができた者とそうでない者の違いなのだ。
《引用終わり》

仏教もキリスト教もイスラーム教も、それぞれいろいろな考え方を含んでいるのでしょうが、死後の世界に関して殆ど同じ考え方をしている人たちがそれぞれの宗教の中にいるというのは面白いことです。

例えば、パリに行って来たという人たちが、街の風景について殆ど同じことを言うとしたら、自分が一度もパリの街を見たことが無いとしても、それを信じるのが普通だろう…という考え方があります。

少なくともバカバカしいと言って、一顧だにしないのは間違いでしょう。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

《以下引用》
血肉で蒔かれたわれわれ人間には死が避けられない。ところが、イエスのアポクリュフォンの一つは死すべきものから不安なるものへと人間を連れ戻し、再び死を味わうことがないように用意を整えることであった。すると、そもそも土で造られた肉体という形をとって存在すること自体に問題が在りはしないかということだ。そう、われわれは何よりもこの患いの本である肉体(老子の言葉)、あるいは空海が「六道の苦身」と呼んだものから開放されなければならないのだ。
《引用終わり》

解剖学的に人体が矛盾だらけであることを考えると、これが全知全能の手による被造物としては余りにお粗末です。「土で造られた肉体」は泥船のようでもあり、そう「いう形をとって存在すること自体に問題が在りはしないか」という指摘は当然のように思います。

《以下引用》
しかし、肉体から開放されるためには、心という要素から解き放たれねばならないと気づいている人は少ないようだ(「生死を離るゝをいうなり」『一遍上人語録』)。というのも、生と死という、一見肉体にかかわるように見える出来事も、実は、心に深く根ざしたものなのだ。心と肉体の関係を大変分かり易く言ったものとして、リチャード・バックの「我々の肉体は思考そのものであって、それ以外の何ものでもない」(『かもめのジョナサン』)を例に説明してみよう。ここでは思考となっているが、心と理解しても大過はない。肉体は思考(心)そのものであるという彼の洞察は、仏教的に言えば、「生死(肉体)はただ心より起こる」(『華厳経』)ということになるだろう。ともあれ、肉体から開放されるためには思考、つまり心の鎖を断たねばならないのだ。彼が続いて「それ(肉体)は目に見える形をとった君たちの思考そのものに過ぎない。思考の鎖を断つのだ。そうすれば肉体の鎖も断つことになる」と言うのもそのためだ。肉体は思考(心)を離れて存在しないから、思考の鎖を断つことが肉体の鎖も断つことにもなる。われわれを構成している肉体と心(思考)の要素から自由にならない限り(仏教はこの二つの要素を本来一つのものと考え「身心一如」と言う)、われわれは本当の意味で自由に天翔ることはできないのだ。
《引用終わり》

思考は、前出の3つの身体(霊的、心的、物質的)の心的に属します。悟ったときに残るのは霊的身体でしょうから、「悟り」ということで大別すれば霊的と心的・物質的の二つに分かれます。ゆえに「身心一如」。

科学的に見ても、思考とは脳神経の活動と言えるので、思考と肉体を一つに扱うのは変ではありません。また、思考は、随意運動はもちろんのこと、ホルモンの分泌や自律神経にも大きな影響がありますから、「肉体は思考から離れて存在しない」というのも変ではありません。

もっとも、ここでは唯心論的な意味合いを含んでいるんだと思いますが…。

「思考の鎖を断つ」とは、「止」のことでしょう。

《つづく》
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