トトガノート

All about TOTOGA

「神秘主義の人間学」

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第八章 シャンカラ」(p153〜174)を読みました。

これまでにも何度となく悟りへの過程を描いた文章を見てきましたが、今回はアートマンとブラフマンが出てきます。

《以下引用(p169)》
さて、覚醒のプロセスの中で確かにあなたは自分自身を失うことになるが、それは偽りの「私」であって、真我まで失うのではない。偽りとは、「私」はどんな夢(マーヤ)でも見るということだ。そして生死もまたあなたが見る夢の一つに過ぎない。…

因に、見ていたのは生死の夢だけだろうか。あなたは人間という夢をも見ているのではないだろうか。私は人間であるという夢。だが、人間であるあなたが、人間の夢を見るとは考えられない。ではあなたの夢を見ているのは一体誰であろうか。端なくもこんな疑問が脳裏をかすめるが、結論からいうと、究極の実在であるブラフマン(Brahman)があなたの夢を見ている。というよりは、あなたは夢を見ているブラフマンであるということだ。無限の多様性を見せる夢は、ことごとくブラフマンの宇宙的戯れ(コスミックリーラ)であり、人間もその一つなのだ。「私はあらゆるものを現象せしめているそれなのだ」。
《引用終わり》

これが無我の体験…。

《以下引用(p171)》
無我の体験なくして真の自己認識(Atmabodha)はない。アートマン=ブラフマンとなって初めて、あなたは自分がこれまで「私」と呼びならわしてきたものが何の実体もない、単なる言葉の綾であり、思考や感情が造り上げた虚構であったと知るのだ。…ともあれ、無我の体験は、一方では自己喪失の体験であり、あなたがアートマン=ブラフマンに至るために通過しなければならない試練なのだ。その意味は、広漠たる空(無)の中へと自分自身を解き放つことを許さないあなたがいる。生か死か、最後の命運をかけた自我のあがきがそこにある。…

無明長夜の夢を見続けるか、それを終わらせるかはあなた次第である。
《引用終わり》

「梵」=マクロコスモス、「我」=ミクロコスモスという表現もありました。前者(ブラフマン)と後者(アートマン)が一つとなる「梵我一如」の境地を目指し、仏教以前からインドでは修行が行われていました

高崎直道氏の文章がうまくまとまっておりますので、再度引用したいと思います。
《「仏教入門」より引用》
仏教の特質をひとことでいえば、真理と一つになる、絶対との合一ということを目標とする点にあると言えよう。…絶対者との合一を目標とする思想はひろく神秘主義(mysticism)とよばれる。神秘主義はキリスト教やイスラム教の一部にもあるが、主流とはいえない。それに対しインドではヒンドゥー教も「梵我一如」の教えに見られるように絶対者との合一を説く。仏教はむしろ、このインド的伝統に根ざすものと言うべきだろう。なお、わが国の宗教的伝統も神人合一というか、神人未分というべき思想が強い。宗教学の姉崎正治はこの伝統を「神人合一教」と名づけ、キリスト教などの「神人隔絶教」から区別した。
《引用終わり》

《インデックス》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第八章 シャンカラ」(p153〜174)を読みました。

本当は存在しないはずの「自我」。これを断捨離する。

《以下引用(p166)》
まず、実際に存在しないものをどうやって捨てるというのか。また、それでは自我を捨てましょうと、これ努めるのも同じ自我であってみれば、益々自我は肥大化してゆくばかりであろう。しかしこの不可能に道を開いたのが宗教であった。自我を放棄する直接の方法はない。如何なる努力も自我にエネルギーを注ぐことになるからだ。そこで不二一元論の哲学は、否定の道(Via Negativa)をとる。「私は誰か」と問いながら、Neti(私はこれではない)、Neti(私はこれではない)と外側(肉体)から、内側(心)へと否定を重ねてゆくのだ。…

ともあれ肉体でも心でもなければ、一体「私」は何であろうと、更に問うていくのだ。すると「私」という想念が立ち昇る意識の深層に到達する。それはあなたの経験や知識からなる記憶の貯蔵庫であり、進化のプロセス全体を含む集合意識である。この無意識の浄化と超越の中で、やがて「私」という意識(自我)が消え去る瞬間が訪れる。そこは多くの神秘家が表現の形式は様々であるが無(空)と呼んだものであり、そこではあなたの自我は自然に消え去る。
《引用終わり》

「空」の理論が否定的であることは、以前も「龍樹」のところで出てきました。

否定して、「私」というをふり払っていく…

《以下引用(p167)》
さて、真我の復活といっても、新しい何かになるのではなく、あなたの本性へ回帰したまでのこと。これはよく理解されねばならない。真我はあなたが達成したり、獲得するといった性質のものではなく、あなたの既得権であり、転生するあなたとは何の関係もない。…

宗教とは奇妙な要請である。あなたが達成(探求)しようとしているものと、すでに達成されているものを区別し、無達成の達成を説くのであるから。

あなたは何を達成する必要もない。あなた自身であればよいのだ。
《引用終わり》

この延々とつづく否定の旅は、「何を達成する必要もない。あなた自身であればよいのだ。」という大きな肯定へと、最終的には行き着く。

《インデックス》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第八章 シャンカラ」(p153〜174)を読みました。

可藤さんの神に関する考え方は以前にも記述がありましたが、今回の内容は私が以前「祈り」に関して抱いた疑問にはっきりと答えた形になっているので、引用します。

《以下引用(p165)》
神に祈るとはどういうことか、よく考えてみる必要がある。あなたが神に祈る幸福(平和)が、あなたの夢に過ぎないとしたら、それに応える神など存在するだろうか。一体この世は夢から成り立っている。そんな果敢なくも消えゆくものに神は何のかかわりもない。あなたの願望や期待にそう神などいやしない。それなのに人は神(宗教)は、この現実に対して無力であり、何の意味もないなどという。この世界を何処かで支配し、時には愛の手を差し伸べてくれる神などいない。むしろ手を出し、口を挟むことによって益々混乱を来しているのはあなた自身なのだ。祈りが空しいのではない、あなたの夢(願望)が虚しい幻想なのだ。ある意味で、あなたは祈ることなどできない。どんな祈りもあなたの願望の反映であり、さらに幻影を造り出すことになるからだ。それはまた、夢がかなえられるかどうかという問題でもない。すべての夢から目覚め、一元性の世界へと帰りゆく。これこそあなたにかけられた神の唯一の祈りなのだ。
《以下終わり》

神聖であるはずの神に、俗っぽい願い事を頼み、これまた世俗の象徴たる金を積むなんて・・・どういう神経をしてるんだ?と疑問に思うのですが、これが何百年と続く世俗の習慣なわけです。

《インデックス》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第八章 シャンカラ」(p153〜174)を読みました。

シャンカラの名前も今まで何度もお目にかかったような気がするのですが、残念ながらブログ内検索では検出されませんでした。

シャンカラは、686(?)年、南インドのバラモンの家系に生まれ、33年という短い生涯ながら、不二一元論(アドヴァイタの哲学)の理論大成者として、今日まで多大の影響を及ぼしている…と紹介されています。

《以下引用(p157)》
シャンカラの哲学は、生(主客分裂以後の生)を深い眠り(susupta)、夢見(svapna)、目覚め(jagarita)の三つの状態に分ける。深い眠りの中では「私」はいないが、夢と目覚めの中では「私」が現われてくる。…

三つの状態は、意識の相違としても理解することができる。それを便宜的に、無意識、潜在意識、(現象)意識というように区別してみよう。…

夢の世界は潜在意識の「私」が見ている世界であり、目覚めた「私」の意識が見ているのが現実といわれるこの世界なのだ。いずれの場合も、「私」が立ち現われると世界もそこにある。しかも意識の相違から、世界も異なる様相をとって現われてくる。ただ深い眠りの中では「私」が殆ど意識されていないために世界もまた現われてこない。その場合でも、過去から現在に至るまでの経験や知識の巣窟である意識の連続体(集合無意識)は、進化のプロセス全体を包みながらそこにあると考えるわけだ。

次に、意識と身体の関係はというと、経験からも分かるように、あなたは身体を夢と目覚めの中で自覚することになる。…夢の中では、単なるイメージにすぎない形姿(subtle body)を自分と考え、目覚めの中では、言うまでもなく肉体(gross body)を自分とみなすという違いがあるだけ。もし「私」という意識がなければ、身体も自覚されない。だから無意識の深い眠りの中では身体もまた現われてこないのだ。だからといって全くないとは言えない。なぜなら粗大身と微細身がそこから現われてくる原因になっているからだ(causal body)。

要するに身体は「私」という意識に伴って現われてくる。ところで「私」という観念が生じてくる根底には集合意識があるとしたのであるから、この無意識が存続する限り、繰り返し「私」は立ち現れ、それに伴って身体や世界も様々な形をとって現われてくることになる。

この連続体こそ、あなたの過去のすべての経験や知識を蔵し、つまり記憶の貯蔵庫として、現在から永劫の未来へとあなたを駆り立ててゆく根本原因なのだ。勿論、肉体はいつか朽ち果てるであろうが、この連続体まで終ってしまうのではない。
《以下終わり》

《インデックス》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第七章 ジャラールッディーン・ルーミー」(p131〜151)を読みました。

今回は「夢、その二」(p141〜151)から引用します。

『自己認識への道』の第二部「トマスの福音書」のとっておきの結末に相当するのが、この中間世界(barzakh)の話でした。そこでは、無身体もひとつの身体と数えて三つの身体と呼んでいました。

《以下引用(p149)》
…人間は粗大身(肉体)と微細身(魂)から成り立っている。粗大身が滅びるとき微細身が現れる。これを…小復活という。大復活が、今生において真理(神)の世界に目覚めるのと異なり、小復活によって、肉体の世界と真理の世界の中間に位置する魂の世界(barzakh)へと入ってゆく。さらにこの中間世界(バズラフ)は大きくは、天国と地獄の二つから成り立っている。この世界は肉体(物質)の枷が完全に取り除かれた純粋イマージュの世界であるため、ある意味では現実より一層リアル、かつカラフルな世界と言えるかも知れない。微細身は粗大身に比して感覚が鋭いことも挙げられる。

…粗大身(肉体)の内側へと辿り、微細身に達すると、そこは魂の中間世界である。微細身に入ることであなたは肉体の世界を超越する(小復活)。さらに内側へと辿ると、やがてこれまで外側に見ていた宇宙さえもが消え去る無の本源に行き着く。あなたは無化されてもういない。つまりあなたは無身体となるのだ。このようにあなただけではなく、森羅万象が無の中へと消え去る心象風景を終末という。終末はあなたの死(フアナー)の体験と密接に結びついているのだ。そして無身体に入ることであなたは中間世界をも超越する(大復活)。その時あなたは神を映す無の鏡として、神(の身体)となる。あなたは自己の中に全宇宙を見、全宇宙の中に自己を見ている。善も悪も、天国も地獄も、ことごとくあなたのものであり、ありとあらゆるものの中にあなたは存在する。つまりあなたは全宇宙(マクロコスモス)となるのだ。

このようにどこに存在するのでもないが、あらゆるところに存在する無境界の人を指して、スーフィズムは完全な人間と呼ぶ。人間は、いまだ進化の途上にあるが、完全な人間は、その頂点なのだ。これこそ人間の究極の可能性であり、また存在の意味である。
《以下終わり》

《インデックス》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第七章 ジャラールッディーン・ルーミー」(p131〜151)を読みました。

ルーミー(1207〜1273)は、「スーフィズムの偉大なシェイフ」と本文中で紹介されています。「夢、その一」(p133〜141)のデカルトの「cogito, ergo sum」に関する記述が面白いので、今回はそこを引用します。

《以下引用(p134)》
いずれにせよ、この命題は「私」の存在証明になっていない。せいぜい思考のプロセスが「私」だといっているに過ぎない。cogito, ergo sumに対する私の誤読(と言っておくが)、即ち、思考が「私」であるということは、われわれの世界については絶対的に妥当する。なぜなら、この世は「私」という思考が造り出すものしか見い出し得ない世界であるからだ(思考を越えた世界については後述)。心に浮かぶ思考のゆらめきは、具体的な像(イメージ)となって、やがては物質(広い意味では人間の行為)へと客体化されてゆく。われわれが目にしているものは、もとを辿れば思考以外の何ものでもない。思考は物質であり、物質は思考が付与した形(フォルム)なのだ。思考は、われわれが一般に考えているような抽象的な観念にとどまるものではなく、様々な想像の世界('alam al-mithal)や物質の世界('alam al-ajsam)を造り出している根本原因なのだ。
《以下終わり》

デカルトについては、私も自分なりに書いています(水準はかなり低いですが)

科学の分野から見ても、「私」というものの輪郭をぼやかすことは簡単であり、むしろ自然な結論でさえあります。逆に、「私」から離れ客観視を至上命題としているはずの科学も「私」の影響下から逃れることはできない、というのも事実です。

その点、仏教は…「仏教が世界を考える場合、経験するわれわれ主体の側も含めて理解していく。言い換えれば、世界はそれだけで存在しているのではなく、外的に存在すると見られる客観世界も、見る主体の心と密接に結びついているということで「三界唯心」と熟語されるところに大きな特徴がある。」ということでした。

それは、唯心論か唯物論か、という区別ともまた異なるものです。

可藤さんの本を読んでいると、究極の真理は、仏教もキリスト教もイスラム教も同じだということに気づかされます。そして、デカルトの思索がいかに表層的であるかも。

《以下引用(p135)》
さて、ひとたび「私(エゴ)」という中心が措定されると、「私」を除くすべてのものは外側へと客体化され、そこであらためて、あなたはそれらの事物(人、物、思想)と関わり、支配しようと奔走する。生とはそのための闘争であり、葛藤なのだ。というのも、今のところ「私」は無防備な裸の状態にあり、知識、権力、物、名誉なんであれ、色づけされるのでなければ、見わけもつかない抽象物であるからだ。

このような主客分裂したところから、あなたは様々な問題を造り出す。
《以下終わり》

これは、すっかり仏教書のような記述ですが…今回はイスラム神秘主義なのです。

《インデックス》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第七章 ジャラールッディーン・ルーミー」(p131〜151)を読みました。

ルーミーという名も、これまで何度も出会っています。例えば、こんな引用…
…愛情ですら二元論の源である。そして、二元性の跡もなく、純粋一元性の世界も存在する。とすれば、その一元性の世界に到達した人は、愛も憎しみも共に超えた人でなければならない。その世界には二元性の入る余地は全然ないのだから、そこに至った人は完全に二元性を超越しているはずである。従ってまだ二元性の支配していた最初の世界、つまり愛情や友情の世界は、今やその人が移ってきた一元性の世界に比すれば、どうしても低級と言わざるを得ない。(『ルーミー語録』)

または、こんな解説で…
仮我の狭い境界を超え、宇宙に遍満する「法界の大我」という考え方は、容易にイスラーム神秘主義の「普遍的人間(al-insan al-kamil)」を思い起こさせる。この考えを受けてルーミーは、人間を世俗的人間と霊的人間の二種類に分け、それぞれミクロコスモスとマクロコスモスを当てる。彼は「普遍的人間」をマクロコスモス、すなわち時間と空間を超えた存在と捉え、それをわれわれ人間が達成すべき「完全な人間」と見なしている。

または、こんな引用も…
世間でいう学問とか技能とかは、いずれも海水を茶碗で量るようなもの。あらゆる技術で身を飾り、金もあり顔も綺麗だが、一番大切な「あのもの」を欠く人がたくさんいる。反対に、見かけはいかにも見すぼらしく、美しい言葉も力強い言葉も喋れないが、永遠不滅の「あのもの」だけは持っている人もいる。それこそは人間の栄光であり高貴さの源であり、またそれあればこそ人間は万物の霊長なのである。もし人間が「あのもの」に辿り着けさえすれば、それでもう己の徳性を完全に実現したことになる。が、もしそれができなければ、人間を真に人間たらしめる徳性とは縁なき衆生だ。(『ルーミー語録』)

そしてまた、こんな解説…
ルーミーが無になりなさいと言うとき、あなたが心の本源へと深く辿ることによって、このメタ宇宙的な無の空間('adam)に到達するならば、あなたの中で自然に古い人から新しい人への変容が可能になるという意味である。…

一元性の世界に到達した人、普遍的人間、マクロコスモス、完全な人間、メタ宇宙的な無の空間に到達した新しい人間…これらがキーワードとなりそうです。

《インデックス》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第六章 イブン・アラビー」(p111〜129)を読みました。

このイブン・アラビーの章は、「死」(p112〜120)と「無」(p120〜129)という2つのテーマで区切られています。今回は「無」について。

「世界は幻想である」…みんなで造り上げている共同幻想。そしてその幻想を蓄積する貯蔵庫こそ「私」。

この幻想たる「世界」を、つまりは「私」を取り去ったとき、汚れを落とした鏡のように真実を映し始める。これは比喩こそ違うけれども、大乗起信論と同じことを言っているように感じます。

《以下引用(p124)》
神を映す鏡が、あなたの経験(感情、思考)が織りなす幾重ものヴェールに覆われて、見えなくされているのだ。あなたがそこに介在するとき、神は背後に隠れてしまう。「そこにあなたがある限り、神に至る道はない」とビスターミーも言う。しかし、これは神の顕現する場(トポス)まで失われたことではない。人間の創造の目的である鏡を手放すことは誰にもできない。自分の影に文字通り我を忘れて、あなたは自らの本性に気づいていないだけ。
《引用終り》

《以下引用(p125)》
無があなたの本性なら、どうあれ、あなたは無からやって来たのであり、そして再び無へと帰っていくしかないのである。…

人間はどこから来てどこに向かって去りゆくのであろうか。古来、この問いは永遠の謎として、われわれの脳裏に去来しては、確かな答えを得られないままにきた。何故であろうか。切実で、的を射た問題と思われているが、問いそのものが持つ誤った観念を一掃しておくのもあながち意味なしとしないであろう。

どこからどこへという観念が生死と関連していることは明らかである。ところで、生死はあなたが造り出した最大の幻想であると説明しておいた。生死が幻想なら、二義的なこの問いも同様に実体のないものである。ただ生死の夢を見ているために、どこからどこへというありもしない問題に取り憑かれることになるのだ。…

宗教的真理は、奇妙に思えるが、どこに行くのでも、また何になるのでもなく、変わらずここにいたという表明でもあるのだ。なぜ宗教が(勿論、私の考える)、このようなとるにたりないことを重要に考えるかというと、あなたはここがどこなのかを知らず、生死の夢をむさぼって果てしない悲喜劇を繰り返しているからだ。
《引用終り》

ただ、イブン・アラビーは真理の否定的・虚無的側面で終わっているわけではなく、真理の肯定的側面に着目しているようです。

《以下引用(p125)》
スーフィズムは、キリスト教神秘主義に見られるように、肉体の内側は神の寺院(メッカ)であるという思想に基づいている。あなたの内なる実存は神の存在可能性であり、「神の国に入るとは、あなた自身の中へと入ることだ」。…

ルーミーが無になりなさいと言うとき、あなたが心の本源へと深く辿ることによって、このメタ宇宙的な無の空間('adam)に到達するならば、あなたの中で自然に古い人から新しい人への変容が可能になるという意味である。…

だからといって新しい人は古い人の棲家を離れて、どこかへ行ってしまうのではない。新しい人も古い人と同様、この世界に存在している。しかし、変容体験に伴って、今や世界は真実の姿を顕したのだ。世界を変えようとしたわけでもないのに、魂(神)の目を通して内から外を眺めるとき、ここは神の愛と美のビジョンで満ちた世界なのだ。…

これを実現したもの(普遍的人間)は、人間として知り得る究極のものを体験したのだ。これを越えるものはほかに何もない。彼の中には全宇宙が包含されている。彼は自己の中に全宇宙を見、全宇宙の中に自己を見ているのだ。神とはこの全体(すべて)をいうのである。

「世界は幻想である」から始めた私は、図らずも全く逆の結論に到達した。しかし、これは矛盾でも何でもない。「世界は幻想であるとともに、また真実でもある」。この逆説の中にイスラーム神秘主義の奥義がある。そのいずれであるかは、あなた次第なのである。
《引用終り》

これが「有無中道の実在」ということなのかと思います。

《インデックス》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第六章 イブン・アラビー」(p111〜129)を読みました。

このイブン・アラビーの章は、「死」(p112〜120)と「無」(p120〜129)という2つのテーマで区切られています。今回は「死」について。

「スーフィー的死」という言葉が出てきます。「スーフィー」とは神秘家の意、その「死」とは「大死」と同義です。そして、宗教とは、死の練習を通して、生きている間に自分自身の死を体験的に知り、実際に訪れてくる最後の瞬間にも不死なるものとして甦るためのものである…「死を自ら体験することなくして、(永遠の)生命に入ることはできない」。

《以下引用(p118)》
死の練習とはどのようなことか、ごく簡単に触れておこう。言うまでもなく、スーフィー的死は肉体の死について言ったものではない。肉体を自ら破壊することの愚かさと、いわゆる死が本質的には自殺と何ら変わらないこともすでに指摘しておいた。
《引用終り》

これについては、私は、アウグスチヌスの「告白」の中の一節が印象的です。

《以下引用(p118)》
そこで肉体に対するわれわれの姿勢は、肉体を責めたり、厭い捨てることでもなく、また、しがみついてもならない。もしそのどちらにも与することなく中庸を保ち、肉体の内側へと独り辿りゆくならば、自我は自然に消え始める。というのも、自我とは肉体を自分と誤って同一視する思惑(ドクサ)であり、その結び目が解き放たれるにつれて、自我も揺らぎ始めるからだ。そしてやがては無の中へと消えるしかない。が、さしもの自我も無の中に消滅するまさにその瞬間、それがあたかも死の如く思われ、恐れ戦くとしても何の不思議もない――これが死の中で実際に起こっていることなのだ――しかし、スーフィーはこの死を受け容れる。なぜならこの死はすべての終りではなく、むしろ生命の絶頂(クライマックス)、新しい生命の始まりでもあるのだ。それ故、勇気をもって死の練習に努めるなら、いつか自我のヴェールは拭い去られ、消滅するであろう。その時あなたは自分が単なる肉体的存在ではなく、永遠に生けるものであったと知る。このように死の練習とは、あなたの自我が消滅することであって(無我)、永遠のあなたまで消え去るのではない。あなたはそれを越えた神的我として甦るからだ(無我の大我)。「私は無の中へと消え去り、消滅した。そして見よ。私は永遠に生ける者であった――私は唯一の神を見たのだ」。
《引用終り》

《インデックス》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第六章 イブン・アラビー」(p111〜129)を読みました。

『瞑想の心理学』では「一法界(法界一相)、あるいは一元性の世界に帰り行くこと、同じことであるが心真如(真心)を知ることが『起信論』全体の目的なのだ。イスラーム神秘主義(スーフィズム)の代表的な思想家であるイブン・アラビーが言う存在一性の世界もこれに当たる。」という形でイブン・アラビーの名が出てきます。

『自己認識への道』では「自己認識が神認識である(キルケゴール、そしてスーフィズムの思想家イブン・アラビーなどが好んで引用する「自己を知るものは主(神)を知る」というハディースを踏まえた成句)とは、自分自身を知るというのではなく、あなたが無の中に消え去り、神と一つになることによって、自分が神以外の何ものでもなかったと知ることなのだ。

井筒俊彦氏の御著書になりますが、『意識と本質』では、イブン・アラビーは「本質」肯定論の立場にあり、「有無中道の実在」という言葉を使っていると書かれています。大乗仏教は「本質」否定論に分類されているようですが、イブン・アラビーと同じ場所に「密教のマンダラ」も分類されています。

と、これまでを振り返った上で、この章を読み進んでいきたいと思います。

《インデックス》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ