トトガノート

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「神秘主義の人間学」

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

トマスの福音書」を読んだ時、仏教もキリスト教も究極は同じだという印象を持ちましたが、道教についても同じことが言えそうです。違いは術語。

《以下引用(p199)》
男女陰陽ニ炁が聚まれば形をなし、散ずればたちまち形は消える。形は炁の離合集散であり、有形有炁のものは成敗生死を免れない。劉一明が形と言えば、一義的には肉体(色身)を指しているが、私たちは形に捕われ、自分自身を肉体と同一視する。この観念が道を誤らせ、あなたをしていつまでも肉体に繋ぎとめる(流浪生死常没苦海永失真道)。その結果、あなたは形あるが故の煩いと果敢なさを繰り返し嘆くことになる。「吾が大患あるゆえんは、吾が身あるがためなり。吾が身なきに及んでは、吾何の患かあらん」。劉一明は老祖を例にとりながら、地上における人間の煩いはすべて肉体(色身)あるがためだという。もし肉体などというものが何の煩いもなかったであろう。しかし、私たちは彼の言葉を短絡的に理解してはならない。なぜなら肉体の内側にあらゆる煩いからかけ離れた誰かがいる。それを彼は真我とも、本来人とも呼ぶ。そればかりではない、道家(タオイスト)の究極の目標である道(タオ)もまた肉体を離れてはないのだ。

道在身、身中又蔵一個人。寤寐行為常作伴。

このようにあなたの内側にもうひとりのあなたがいる。それはあなたが目覚めていようが、眠っていようが常にあなたに寄りそい、喜びのときであれ、悲しみのときであれ、あなたを見つめている目である。だからといってそれは卑小なあなたの殻に閉じ込められるようなものではない。それは宇宙創造の根源にある普遍的な力であり、星辰はこの力に動かされて巡る。何よりもあなたはこの真形(主人公)をしっかりと見とどけなければならないと劉一明は言う。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

若き空海は「三教指帰」で道教を批判しています。そして新しい仏教である密教を日本に導入すべく、唐に渡り、持ち帰ったわけです。しかしながら唐では道教が重用され、インドからもたらされた密教は余り広まらないまま日本に伝わり、間もなく仏教は廃れます。その後、中国の思想は道教を中心に発展していったのでしょう。

《以下引用(p197)》
一般に宗教は心(神)を重要視するあまり身(炁)を貶しめる傾向にあり(心身一如を標榜する宗教もあるけれども、全くかみあっていない)、科学はいまだに心(神)を扱いかねている。

道教は、今もよく見かける、そうした宗教や科学の独善的な学問体系とは初めから無縁だったようだ。というのも道教は人間を含む一切のものが神炁の両者によるエネルギーの運動と捉えているからだ。しかし、神炁といっても先天(真)と後天(仮)の違いがあり、私たちは真仮を弁えないで、後天の自己を維持するために多大のエネルギーを注いできたが、意に反して、私たちは絶えず死に晒され、死ぬことを死ぬ程恐れるのは何故か。本来死とは後天の自己を解体して神炁の根源に立ち帰り、先天の自己に行き着くことである。その時、私たちは実在(リアリティ)と一つに融け合い、道(タオ)の人として甦る。道とは私たちが帰趨する生の源泉(gzhi)のことだ。
《引用終わり》

劉一明は、これまで「未生身以前の面目」とか「凡夫の道」と「仙仏の道」という言葉で出てきています。

《以下引用(p198)》
今回取り上げる清代の神秘思想家劉一明(1734〜1826?)は、極めてラジカルな全真教北派の流れをくみ、『参同契』を初め、多くの金丹道の典籍(仙書)に注解をほどこし、自らも晩年に至って『悟道録』などを著している。思えば、カルガリー大学留学中に、たまたま手にしたLin I-ming(劉一明)の著作に中に私が見たものは、すでに紹介した思想家と相通ずるものが多くあったとはいえ、かえってそのことが私には新鮮な驚きであった。充分咀嚼したとは言い難いが、謗りを恐れず書いてみよう。
《引用終わり》

「トマスの福音書」が取り組んだ男女問題(笑)に、重なる内容が有ったようです。この「神秘主義の人間学」に劉一明の章があるために、敢えて「自己認識への道」を読んでいた時に保留にした部分です。

さてさて、楽しみです。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第九章 ロンチェンパ」(p175〜196)を読みました。

今回は、「瞑想のバルド」について。瞑想、大乗起信論で言うところの「止観」が目指す境地だと思います。

《以下引用(p192)》
無意識、集合的無意識、宇宙的無意識と辿る無意識の現象学を『死者の書』はb堊曚離丱襯匹噺討屐死者が辿るバルドについても言えることであるが、それを一様に解説することはもちろん不可能である。各人を形成している個人的、集合的な背景(カルマ)の違いによって現れもまちまちであるからだ。…ただ自分自身を観察し、自分の心を見つめるだけでいいのだ。…無意識に意識の光をあて、自覚にまで昇ってくると無意識は自然に消えるからだ。それは丁度、夢を自覚すれば夢が消えるようなものだ。

しかし何もしないで自分自身を観察するのは簡単なようで実際はそうではない。なぜなら自我は絶えず何かをしたがるからだ(何もしなければ眠ってしまう)。そしてたとえ行為は伴わなくとも、内側で思考(感情)は動き続けるだろう。それをいいとか悪いとか一切判断を加えずに見るのだ。そうすると思考はしだいに消える。

さらに記憶はどうであろうか。心はあなたのすべての過去、即ち今生に限らず過去生における喜びと悲しみの経験をひとつ残らず記録している。その記憶が呼び覚されることがあるかも知れない。…記憶は忘れられることはあっても失われてしまうことはないからだ。そしてそれに伴う心理的、肉体的な傷があなたを苦しめ、また性的な幻想に悩まされようとも、一切かかわらず見ていればそれもまた消える。たとえ過去生を知ったとしてもそれでどうということはない。事情は同じなのだ。この無意識を越えると事はさらに複雑になってゆく。
《引用終わり》

つまり、無意識から集合的無意識へと…

《以下引用(p193)》
実際刃向かう敵がいるはずもないのに自分を取り巻くあらゆるものが敵愾心をあらわにし襲いかかろうとする。苦痛が責めさいなむ恐怖はいつ果てるともなく続くように思われる。しかしこれは怒り、冷酷、憎悪、嫉妬……など歪んだ感情を取り込んだあなたの心が投影した幻覚なのだ。従ってそれと戦ったり逃げだそうとしても何の解決策にもならない。むしろそれが自分自身の内側から生まれてくる幻覚であると知れば、それはおのずと消える。と、あなたはほのかな光に包まれ、見るもの聞くものすべてが調和し、この上もない美に魅せられる。聖なる恍惚があなたを充たし、愛は限りないように思える。あなたは神を知ったと思うかも知れないが、それもまたあなたの心が投影したものなのだ。…だからといって何のリアリティもないというのではない。それどころかそれを見ている者にはまさにそれが現実なのだ。

そこで見るものは文化、習俗(あえて宗教とは言わない)の違いからまちまちで、『死者の書』が描くような怒りと柔和の神々が現れてくるというのでもない。しかし集合的無意識の領域にはある共通する類型的なイメージや象徴を見てとることはできる。一例として挙げれば、キリスト教世界では神はイエスとして現れてくるかも知れない。しかし神を見るということが実際はあなた自身が投影した幻影を見ていることがある、この点に注意しなければならないのだ。この事実が時に神の裁きなどと結びつくと、人を脅したり、希望を約束したりと宗教は最も質(たち)の悪い独善となる。いずれにせよさらに超越が必要なのだ。
《引用終わり》

さらに集合的無意識から宇宙的無意識へと…

《以下引用(p194)》
あれやこれやの悲しみではない。人類の全歴史を通して流された悲しみの涙でもない。「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」というとき、それは集合的無意識から得た感慨である。それらを含む全宇宙が救いようもなく失われているという根源的な悲しみ。人間の感情や同情など一切入る余地のない絶望的な嘆き。それにもかかわらず決して終ることのない宇宙的遊戯(リーラ)の不可解。果たしてこれ程までの孤愁を身を持して堪えている人がいるかどうか私は知らないが、それさえも消え、すべての感情や思考が収まると、あなたは微動だにしない広漠たる空間にひとり佇む。そしてあなたの意識は何もない虚空に溶け合い、すべての束縛から解き放たれたような自由がそこにはある。しかし、それとともに自我の輪郭は曖昧になり、あなたは無の深淵に臨んで、恐怖の余り、もと来た現実へと引き返そうとするだろうが、それはサンサーラの世界へ舞い戻ることを意味している。そして、今体験した自由と宇宙との合一を空性の体験と称して、原初あるいは心の本性に到達したと考えるかも知れないが、そうではない。誤解があっては困るが、心の本源に到達したまでのこと。心の本源(kun-gzhi)は生死が兆す根本であり、万物が生々流転する宇宙的無意識の深淵なのである。
《引用終わり》

そしてニルヴァーナへと…

《以下引用(p195)》
ゾクチェンは心の本源をも越え、空性のダルマ・カーヤを自己の本性と見てとれない限り(不覚)、あなたにとってそのダルマ・カーヤが幸・不幸、愛憎、生死、輪廻と涅槃……など、あらゆる二元性を生み出す宇宙的無意識(kun-gzhi)になるという。従ってそこから退いてはならないのだ。あなたは宇宙的無意識の中へと消え去らねばならない。そこにとどまって自らの死と対峙すべきときなのだ。これが死の練習の意味である。無の中に自らを解き放つことは間違いなくあなたの死となるからだ。もちろんあなたはこのカタストロフィーに怖れ戦くだろうが、それに身も心も委ねることができたら、やがて闇から光へ、あなたは宇宙意識へと目覚めるだろう。この覚醒(ye-shes)が仏性(神性)の目覚めであり、ニルヴァーナなのだ。しかし事実は、あなたが消え去れば心の本源でもある宇宙的無意識も消えるから(無心)、そこにはもはや輪廻とか涅槃という概念すらない。無明(ma-rig-pa)はここに尽き、明知(rig-pa)が輝くだろう。これをエンライトメント(光明)の体験と呼ぶ。あなたはひとりの覚者、ダルマ・カーヤ(真理の身体)へと辿り着いたのだ。
《引用終わり》

生物学的に死んではいませんから、即身成仏ですね。

《以下引用(p196)》
…宗教的真理(悟り:エンライトメント)の体験はある意味では体験ではない。そこに体験するあなたはいないからだ。たとえ神秘的なビジョンを見たとしても、それが神であっても、また宇宙との一体感を味わったとしても、そこにあなたがいる限り、それは宗教的真理の体験とは言わないのだ。それに対してあなたが消え去るとき宇宙も真にあるがままの姿を現す。あなたが悟ればあなたは宇宙の本質をも悟るということだ。その意味は、あなたが仏性に目覚めるときあなたを取り巻くすべてのものがすでに仏性を得ている。換言すれば、あなたを含むすべてのものが仏(神)であると知るのだ。ひとり仏(神)だけが存在している。あなたなど一度として存在したためしはない。すべては終りなき絶対者の遊戯(リーラ)なのだ。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第九章 ロンチェンパ」(p175〜196)を読みました。

今回は、「再生のバルド」と言われるシパ・バルドについて。

《以下引用(p184)》
Ε轡僉Ε丱襯匹郎得犬離丱襯匹箸い錣譴襪茲Δ法△修譴能わりというのではなく、再び〆生のバルドへと生まれてくるプロセスなのだ。終りは初めへと続く果てしない旅というわけだ。ここではカルマによる幻覚に逃げまどい死ぬほどの恐怖を味わうことはあっても、空それ自体が姿をとって現れたあなた(意成身)が死ぬことは決してない。むしろこの混乱した状況の本質、即ちあなたの投影である幻影とあなたの双方が本来何の実体もない空であると悟るべきなのだ。これが迷悟の分岐点となる。しかしそれが叶わないときあなたは輪廻を終えることができず、再生のための子宮へと逃れゆく。
《引用終わり》

再生というと聞こえがいいですが、要は「ふりだしに戻る」なんですね。

《以下引用(p185)》
するとそこに男女が交歓している幻想が現れてくる。再生の機会は無数にあり、殆どの人の場合それは無選択のうちに起こる。この苦しさから逃れられるのならどこに生まれようともかまわないとするあなたの絶望的な願いと、男女の欲望が内外和合して初めてあなたは新しい生命として再生してくるが、この生命が本質的に新しくもないことは説明を要しないであろう。われわれはこれまで一度として産むものと生まれるものの関係を問うてこなかった。というか何故か曖昧にしてきた。私もまたこれ以上は口をつぐむが、一つのヒントにはなるだろう。ただ、いわゆる生が真理(ダルマ・カーヤ)を悟り得なかったあなたの馴れの姿だとは言っておこう。

そしてここにもうひとつ、性的な幻想にひかれてゆくあなたにエディプス・コンプレックスを思わせる愛憎の萌芽を見てとることができる。「もしあなたが男性として生まれるときは女性に愛着をもち、男性に敵意をいだくであろう。逆に女性として生まれるときは男性に愛着をもち、女性に敵意をいだくであろう」。いずれにせよその歓喜(サハジャ)の中であなたは無意識になる。

翻ってこの地上が愛憎うずまく世界であることを誰が否定し得よう。しかも人間の無意識の裡に埋め込まれた情念が愛憎であったと知れば、その根の深さも頷けようというもの。どんな人間も愛の道具であり、また犠牲者なのだ(生死本源の形は男女和合の一念、流浪三界の相は愛染妄境の迷情なり)。かくしてあなたは子宮を隠れみのに再生への第一歩を踏み出すことになる。同じ生のパターンを繰り返すために……。
《引用終わり》

「なるほど」という内容だったので、ほとんど全部引用してしまいました。「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く…」というフレーズや理趣経が想い起され、空海を思わずにはいられない内容です。最後の空海の章が楽しみです。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第九章 ロンチェンパ」(p175〜196)を読みました。

今回は、「法性のバルド」と言われるチョエニ・バルドについて。

《以下引用(p183)》
ゥ船腑┘法Ε丱襯匹呂△覆燭凌粥憤媽身)が造り出す微妙な色彩と光に充ちたイマージュの世界であり、神話や宗教的象徴が生まれてくる領域でもある。『死者の書』では、寂静尊(シ)と忿怒尊(ト)の顕現として描かれている。寂静尊はダルマ・カーヤ(法身)が空の世界から形をとって現れてきたものだが、それを同じ空を本性とするあなたの心が投影した幻影であると悟ることができたら、あなたはサンボガ・カーヤ(報身)を得て仏になる。しかしそれができなければ、今度はサンボガ・カーヤが忿怒尊に姿を変え、あなたの前に現れてくるだろうが、それもまた恐れることなくあなた自身の姿にほかならないと悟るべきである。ゥ船腑┘法Ε丱襯匹妨修譴討る怒りの神々(忿怒尊)に限らず柔和の神々(寂静尊)もまた輪廻するあなたの心が投影した幻影に他ならないと知ることが大切なのだ。見るものと見られるものが同じあなたの意識の現れであり働きだと知れば、あなたの身体(意成身)はこれらの神々とひとつに溶け合い、たちどころに悟りに至る。とはいうものの、それは生前の越し方(修行)と密接に関係しているのであって、多くの場合望むべくもない。機根つたなく、「五日と半日の間あなたは無意識の状態にある」。そして次に目覚めるとあなたは業(カルマ)が巻き起こす幻覚に駆り立てられ最後のΕ轡弌Ε丱襯匹悗搬狹召靴討罎。
《引用終わり》

意成身は微細身と同じなようで、ルーミーの章の描写と比べてみると分かりやすいかと思います。

法身と報身について水野弘元氏は「仏陀には、仏陀の本質としての原理的仏陀の面(法身)と、修養努力によって完全の域に達した理想的仏陀の面(報身)…」という説明をされていました。例として、毘盧舎那仏(大日如来)は法身であり、阿弥陀仏は報身ということでした。『死者の書』での用法と若干違うような気もします。

次回は再生のバルド。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第九章 ロンチェンパ」(p175〜196)を読みました。

今回は、「死の瞬間のバルド」と言われるチカエ・バルドについて。遺された人たちは「お葬式は急に来るから大変だ」などと失礼なことを言いますが、本人の動揺・恐怖・混乱はそんなものではありません。「死」に進むことを恐れ、消えつつある「自分」にしがみつこうとする…

その様子は、例えば「十字架の聖ヨハネ」の章に書いてありました。

《以下引用(p183)》
輪廻する人間の果敢なさ、空しさの根本原因が自己の真偽さえ明らかにできない無知(無意識)に起因していることに気づいている人は本当に少ない。「4日と半日の間あなたは無意識の状態にある」。そして目覚めてみるとそこがどこなのか、自分に何が起こったのか、死んだはずの自分がまだいる。もちろんこの時、生前の肉体(粗大身)はないが、心からなる意成身(微細身)は存続している。この場合の死は『死者の書』が目指していたぅ船エ・バルドにおける悟りとはならず、ということはカーラチャクラ・タントラもいうように、誰もが死の瞬間に真の光明(オーセル)を体験しているわけではなく、肉体と魂(意成身)が分離したまでのこと。このような分離の体験ならこの地上においてもないわけではないが、ぅ船エ・バルドを経て肉体と魂が決定的に乖離すると、われわれがこれまで一度も経験したことのない異形の世界が現れてくる。よくも悪くもかつての自分は生きのびニ\のバルドへと入っていくのだ。
《引用終わり》

「よくも悪くも」とあるように望ましくない展開なのでしょうが、次回はニ\のバルド。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第九章 ロンチェンパ」(p175〜196)を読みました。

以前もバルドについての内容がありましたが、今回はさらに詳しいです。

《以下引用(p181)》
輪廻転生の思想を簡単に言えば、われわれの生が単なる肉体の生命に限られるのではなく、死後最長でも49日の間、バルド(中有)をさ迷い、再び生まれるということだ。『チベット死者の書』はわれわれが辿るバルド(bar-do)には六種類の状態があるという。
〆生のバルド(キエネ・バルド)
¬瓦離丱襯鼻淵潺薀燹Ε丱襯鼻
b堊曚離丱襯鼻淵汽爛謄鵝Ε丱襯鼻
せ爐僚峇屬離丱襯鼻淵船エ・バルド)
ニ\のバルド(チョエニ・バルド)
再生のバルド(シパ・バルド)
この中で『死者の書』はせ爐僚峇屬離丱襯匹らイ魴个騰再生のバルドにある者に聞(トエ)による解脱を説く、文字通り死者のための書なのである。
《引用終わり》

おおまかな流れは…

《以下引用(p182)》
無明の闇を突き破って死の光明(オーセル)があなたの内なる実存を照らし出すとき、一瞬にして生の源泉は開示され、あなたの意識は色もなければ形もない空性の大楽に包まれる。この意識の根源的な状態は始めもなければ終わりもない永遠の光であり、仏性に他ならない。そして仏性とはあなたの本性であり、もしあなたがそれを悟ることができたら、あなたは不生のダルマ・カーヤ(法身)を得て仏になる。そしてそれ以後バルドはもちろんのこと、空しく輪廻(サンサーラ)の世界をさ迷うことなく涅槃(ニルヴァーナ)の世界に入る。そしてわれわれが生と呼んでいたものがこの永遠なる生の上に浮び上がった幻影に過ぎなかったと知るであろう。ゾクチェンは輪廻(サンサーラ)の根源(kun-gzhi)と涅槃(ニルヴァーナ)の根源(dharmakaya)を区別しながら、われわれを完全な悟りを意味するダルマ・カーヤ(真理の身体)へと誘うのだ。
《引用終わり》

興味深いところなので、詳しく見ていきたいと思います。

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《以下引用(p179)》
さて心は何に触れてもそれなりに反応し、言語化されて思考となる。われわれに様々な問題を投げかけてきたのもこの思考である。曰く、私は幸福にならねば、私はまだしにたくない……と、いろいろ手を尽すが、その背後には焦燥感にも似た思考が働き、われわれを行為へと駆り立てる。…

…思考はわれわれの過去の経験や知識が新しい状況と反応して構想された未来と言えるだろう。…思考は、…各人の過去の記憶(情報)に制約され、われわれはさして新しくもない経験を繰り返すことになる。また記憶は今生における経験や知識にかぎられるのではなく、数限りない生死を繰り返してきた太古にまで遡ることができるだろう。そして個人的なものから集合的なものまであらゆる記憶を内蔵している心があなたなのだ。一方、肉体もまたそれ自身の中に宇宙創造にまで遡る記憶(情報)をたずさえ、生物的(本能的)、知的な進化のプロセス全体を内蔵している。われわれ人間は心理的にも肉体的にも連綿と続く記憶の影響を強くうけ、制限されているのだ。このように記憶によって条件づけられた心、あるいは肉体をわれわれは自分と見なしているのである。
《引用終わり》

肉体の情報(DNA)に関しては、私も考えたことがあります。

《以下引用(p180)》
肉体的、心理的にプログラムされた人間は、つづまるところ記憶が新しい情報と反応し、シミュレートしたものを、それを思考(願望)というのだが、追体験しているだけということになる。創造性豊かとみられる新奇な事柄も、すべては過去の経験や知識に基づく修正に過ぎないのではということだ。事実われわれの思考の形式は変ってきたけれども、その内容に至ってはいつの時代も同じであり、たとえ新しい肉体をまとおうとも本質的にわれわれは同じことを繰り返している。…繰り返しプログラムされるうちに思考は習性(ヴァーサナ)をおび、知覚を通して入ってくる一定の情報に機械的に反応するようになる。つまり生物的、感情的、知的にプログラムされ、条件づけられた人間は自我の狭苦しい殻の中で同じ思考と行動パターンを繰り返す「籠の鳥」であるということだ。もっとも極めてソフィスティケイトされてはいるが……。
《引用終わり》

DNAについては解析がかなり進んでいます。世代を重ねる中で、個々の情報は個人的なものでもあり集合的なものでもあり、個体に対しては制約を与えるものであり、新しい情報と出会っては反応を繰り返し…上の文章の内容がそのまま当てはまるように思います。

肉体だけでなく心の次元においても同様のことが当てはまると考えてはいけないという理由は無いように思います。

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《以下引用(p178)》
ゾクチェンは何よりも時空を越えて遍在する生の源泉、あるいは原初(gzhi)を教義の中心にすえている。それは誰もが生まれながらに具えている本性であり、それを悟るとき大いなる完成(ゾクチェン)があるという。が、その始まりを知ることは誰にもできない。というのもそれには始まりがないからだ。…そしてゾクチェンはこの原初へとあなたを連れ戻そうとする。…あなたがもと来たところへ再び立ち帰ることが生の目標といえば言える。というのも普通目標と言われるものはすべてあなたを原初から遠ざける。目標は常に未来にあるからだ。
《引用終わり》

私たちは何かを成し遂げようとすればするほど、根源的な生の目標から遠ざかる…だから、何も達成しなくていいし達成しても空しくなるということでしょう。

《以下引用(p178)》
では原初とその間の違いをどう理解すればよいのか。原初は失われてはいないけれども現在せれは自覚されていない。…今もそれはあなたの根底にあるが、その経験は失われている。…(これを理解するには)目覚めている自分と夢を見ている自分を考えてみるのがいいだろう。
《引用終わり》

これは胡蝶の夢のような話。

《以下引用(p178)》
あなたは眠りにつくとありもしない夢を見始める。するとそこにもうひとりの自分がいる。夢の中に現れた自分が夢に一喜一憂している状況を想像してもらえばよい。夢を見ている最中にはこの自分しかいない。目覚めた状態にある自分のことなどすっかり忘れている。そして目覚めない限りあなたは夢の自分とかかわり、それを自分だと信じて疑わないであろう。これと同じようなことがあなた自身にも起こった。つまり原初とその間に形而上的眠りがあった。不覚にも眠りこけたために原初の経験は失われ、代わって心が造り出す様々な夢(欲望)を追い求める自分がそこにいると考える。この我ありとする迷妄が根本的な無明(ma-rig-pa)と言われるものだ。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第九章 ロンチェンパ」(p175〜196)を読みました。

《以下引用(p176)》
チベット密教ニンマ派(古派)に伝承されてきたゾクチェン(大いなる完成)は、他でもないあるがままのあなたを指す言葉なのだ。その意味をニンマ派を代表する思想家ロンチェンパ(1308-1363)を引合いになぞろうとするのだが、今回もまた言わずもがなの繰り言になるだろう。なぜといってあるがまま(ji bzhin nyid)を言い表す言葉などあろうはずがないではないか……。
《引用終わり》

愚痴ってるようなとこ、いいですね(笑)

さて、以下は「自分」という心の構造…

《以下引用(p176)》
われわれは常に自分を中心に事を計る。まるで自分なくして何事も始まらないかのようだ。しかし行為の中心にある自分がどこから生じて来たかを問う人は少ない。自分とは自ら分かれるという意味だ。では分かれて来たのはどこであろうか。それはあなたの真の本性、あるいは原初(gzhi)から離れたのだ。その結果として主客分裂する心(分別心)などというものを持つようになった。そしてその心を自分だというふうに考える。つまり、自分とは心が造り出すさまざまな観念(蘊)の巣窟に過ぎない。
《引用終わり》

以下は、夢の構造…

《以下引用(p176)》
ここから奇妙な、というよりも、自分の心に浮かんだ欲望や夢の実現に向けて努力する人間という構図ができる。しかし心を離れて自分がないのであれば、あなたは自分の影を捕らえようとして走り始めたのではないか。つまりあなたは自分が投影したものを自分で追いかける独り隠れん坊をしているのだ。このように心は経験するもの(主)と経験されるもの(客)に分れ、堂々巡りをしているのに、あなたはそのまやかしに気づいていない。
《引用終わり》

この文章を読んだら、高崎直道先生の唯識の説明を思い出しました。

夢を持ち、それに向かって邁進し、達成に歓喜する…これこそが生きる意味だ!という捉え方が一般的だと思うし、この捉え方をやめようとしてもなかなかやめられません。そういう捉え方に基づいたプラス思考・ポジティブシンキングを唱えるメッセージが巷に氾濫しています。

《以下引用(p177)》
どんな成功も失敗と同じようにあるがままのあなたの本質に何かを付け加えることもなければ奪うこともない。…どんな夢もひとたびかなえられると空しく思えてくるのも、求めるものと求められるものが同じ心の仮構した観念であり、それらが堂々巡りをしているだけで、あなたをどこへも連れて行きはしないからだ。そういう意味において達成とか成就という観念は極めて疑しい。とはいっても人はあるべき自分の姿を求めて夢を追い続けるであろう。とにかく現在の自分に満足などしておれないからだ。
《引用終わり》

本当は、何を達成する必要もないのに…。

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