トトガノート

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「神秘主義の人間学」

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p257)》
人は美しいものには愛情を覚え、醜いものには憎悪をいだく。しかし、無始よりこのかた六道・四生の間を往還するうちに、私たちが経験しなかったような愛と憎しみなどあるだろうか。敵と見、味方と見えたものはすべて仮我が演出した仮の姿ではなかったか。今、あなたが疎ましく思う人が、かつてあなたを慈しみ、育ててくれた両親であったかも知れないのだ。「吾、是れ無始より已来、四生六道の中に父と為り、子と為る。何れの生をか受けざらん。何れの趣にか生ぜざらん。若し慧眼を以て之を観れば、一切の衆生は皆是れ我が親なり」。
《引用終わり》

出典は『性霊集』(巻第八)。『歎異抄』にも「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」という一節があるようです。

ただ、これは「孝」が廃れてしまった現代では、疎ましく思う人が両親だったかもしれないと言われると、余計に疎ましくなったりするかもしれません(笑)。我が子だったかもしれないという方がいいかもしれません。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p256)》
真我と仮我、不生不滅のあなたと生滅するあなたの違いをよく理解しておかねばならない。本来不生であるにもかかわらず、生死去来しているものがある。それを適確に表現したのはヴィマラキールティであろう。「死(没)とは虚誑(こおう)の法の敗壊の相と為す。生とは虚誑の法の相続の相と為す」※1。真実ならざるもの(仮我)だけが、生・住・滅を繰り返す。この転変極まりなきものを彼は「虚誑の法(いつわりのもの)」と呼んでいるのだ。しかし、人間はこの無常なるものの内側に決して損なわれることのない真実なるものを蔵している。いわば時間と永遠の綜合として人間は存在している。これを法蔵は不思議常という。「是れ即ち無常に異ならざるの常にして不思議常と名づく」※2。
《引用終わり》

出典は※1『維摩経』(「見阿閃仏品」)、※2法蔵『華厳五教章』(「所詮差別」)です。

ヴィマラキールティとは維摩経の主人公のようです。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p255)》
如夢如幻の苦身を六道の辻に運び、輪廻しているのはこの仮我(幻我の子)なのだ。仮我ゆえに、私はどこから来て、どこへ行くのかという問いに悩まされるのであって、真我には(それを空海は「無我の大我」と呼ぶ)、そういった問いは一切ない。だからといって私は、パスカルやプランクを責めるつもりは毛頭ない。こういった問いをえ深めることもない多くの人々の中にあって、彼らの真摯な人間存在への問いかけに私は率直に敬意を表する。ただ、彼らは問題はもっと深いところにある、つまりそう問うものの真・仮(真我・仮我)にまで遡る問題であることに気づかなかっただけなのだ。私に真仮の二種があることを空海は次のように述べている。

「若し我が理趣を求めば則ち二種の我有り。一つには五蘊の仮我の理趣を求めば、則ち仮我は実体なし。実体無くんば何に由ってか得ることを覓めん。若し無我の大我を求めば、則ち遮那の三密即ち是なり……」。
《引用終わり》

出典は『性霊集』(巻第十)のようです。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p255)》
 ところで、殆どの人は自分といえば身(色)と心(受・想・行・識)からなると考えているだろう。自分を身心と考え、それと同一視している限り、死んだら私はどこへ行くのだろうと、心は不安にかられ、独り死にゆく自分を哀しく思うようになるのだ。しかし、身心(五蘊)のどこに私と呼べるようなものがあるだろうか。あなたは自分自身と対峙し、しばらく観察と分析を続けるならば、私などどこにも見出せないだろう。そして、私とは心が生み出した観念であり、実体のない仮名に過ぎないと知るだろう。しかるに、われわれはそれを自分と思い、かたくななまでに自己を守ろうとする。空海はそれを「五蘊の仮我」と呼んだ。
 そして、人は仮我の養いのために波々として人生を渡る。水面に浮ぶ泡沫のように生々死々を繰り返し、六道・四生の流れに随って様々な苦しみを受けてもきた。

「天獄の県に苦楽し、人畜の落(さと)に憂喜す。歎く可し、歎く可し、幻化の子……三界の業報、六道の苦身、すなわち生じ、すなわち滅して、念々不住なり、幻の如く影の如し」。
《引用終わり》

弘法大師の名文を見つけると、引用せずにはいられません。出典は『性霊集』(巻第八)、『吽字義』のようです。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p254)》
さて、生の始めはもとより、死の終りを知らないまま、幾度か徒に生まれ、徒に死にゆくわれわれ異生の凡夫(人間)を空海は慨嘆して言う。

生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し
《引用終わり》

『秘蔵宝鑰』の中の有名な一節です。松岡正剛氏の『空海の夢』のところでも引用しております。

《以下引用(p254)》
あなたが老いを憎くみ、死を恐れているだろうことはよく分かる。しかし、生もまたあなたが望んだものではない。それなのにあなたは六趣・四生の間を往還し、生死は尽きることがない。そしてあなたを産んでくれた父母もまた、冥々漠々として生の始めと死の終りを知らないであろう。生と死についてこれほどの無知が連綿と続いているとは何という不可解であろうか。生死去来している私とは一体何かが明らかにされねばならない所以である。
《引用終わり》

「六趣・四生」とは、『理趣経開題』の中の「六趣の夢苦は夢の中に極めて苦しみ、四生の妄憂は妄の裏にいたりて辛む」を踏まえているようです。

衆生とは衆多の生、つまり何度も生と死を繰り返しているものという意味であり、いくたびか徒に生まれ、徒に死を繰り返して来たということで「広劫多生」と言われております。

バルドの闇を私たちは何度もくぐり抜けて来ている…。

今回はせっかく仏法に出会ったのだから、そろそろやめませんか?というのが、これ仏教。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p253)》
われわれの認識が、知るもの(主観)と知られるもの(客観)というデカルト的二元論に基づく、知の活動であることは明らかである。そして、われわれはこの基本構造を自明のこととして一片の疑いを挟むことなく、主・客(心・物)の存在を認めてきた。
《引用終わり》

ルーミーのところ(第7章)でも、詳しく触れています。物理学者のボームが同様の疑問を呈していることが、「瞑想の心理学」で引用されていました。佐々木閑氏も同様のことを。

《以下引用(p253)》
ところが、仏教はこのような実在論的二元論を人間の深層意識(集合無意識)に眠る執拗なまでの囚われ、習性(習気)という意味で「二取(能取・所取)の随眠(ずいめん)」と呼び、ここからあらゆる人間の問題と悲惨が生じてくるが故に、この構造的な迷妄からの離脱を説く。世間(サンサーラ:虚妄)と出世間(ニルヴァーナ:真実)の違いが二種の随眠に依ることを『成唯識論』は次のように述べている。「二取の随眠はこれ世間なり。唯しこれのみをよく断ずるを出世間と名づく」。

われわれ人間が生死の絆に繋ぎとめられているのは人・法(主・客)の妄執(人我見・法我見)にまつわる無知と捉え、仏教はその虚構と欺瞞を徹底的に暴こうとする。「我に二種あり、いわゆる人我と法我となり。この二種はみなこれ妄情の所執なり」(ここで我とは誤って実体的に捉える妄執を意味する)。
《引用終わり》

以前作成した唯識に関する記事にリンクを張って見ました。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

本章は、『瞑想の心理学』のプロローグにもあった量子論の提唱者マックス・プランクの言葉で始まります。

《以下引用(p251)》
「私はどこから来て、どこへ行くのか。これは由々しい問題である。万人にとってそうなのだ。しかし、科学はその答を知らない」
《引用終わり》

また、『自己認識への道』にもあったパスカルの言葉も引用されています。

《以下引用(p251)》
「私はやがて死ななければならないということ、これが私の知っているすべてである。しかし、どうしても避けることのできないこの死を、私は何よりも知らないでいる。私は、私がどこから来たかを知らないと同様、私はどこへ行くかを知らない」。科学は日進月歩めざましいものがある。しかし、彼らの問いに、今も科学は勿論、キリスト教も納得のいく答を用意しているとはとても思えない。
《引用終わり》

仏教は少し違う…ということで、『維摩経』の一節。

《以下引用(p252)》
シャーリプトラはすすめられるまま、ヴィマラキールティに尋ねる。
 あなたはどこで命果て、ここに生れたのですか。
すかさずヴィマラキールティは応酬する。
 あなたは死と生が本当にあるとお考えなのですか。
不意をつかれたシャーリプトラは、この問いそのものが間違っていることに気づき、
 いえ、生も死もありません。
と答える、…。
《引用終わり》

生死とは、「私」の問題であり、「私」を空ぜしむを目指す宗教においては、生も死もまた空。

《以下引用(p252)》
宗教は本来、「私とは誰か」を問うことから始まる。だから空海も「かつて我の自性を観ぜずんば、何ぞよく法の空諦を知らん」と言うのだ。自己の本性(我の自性)を知ることなくして、どうして真理(法の空諦)など知り得よう、という意味だ。今回も、問われるべきはわれわれ自身であることを基本に据え、即身に成仏するという空海(774〜835)の思想の一端を辿ってみよう。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十一章 慧能」(p221〜250)を読みました。

「ねずみの嫁入り」のような、「青い鳥」のような…求めるものは、ずっと前からここに有った!というお話です。

《以下引用(p247)》
もうお分かりと思うが、世界は変わらないのに、換言すれば、世界を変えようとしたわけでもないのに、自己自身が変わったが故に世界も幻影から真実へとその様相を一変させたのだ。もう水面に浮かぶ月影を掬いとろうとして身を滅ぼした猿の愚かさを繰り返すことはないだろう。真実の人(無位の真人)に願わずとも真実は瞭々と現われている。「当処即ち蓮華国、此の身即ち仏なり」(白隠『坐禅和讃』)。神秘の扉を開く鍵はあなた自身の自己であり、その変容にあったのだ。
《引用終わり》

「身を滅ぼした猿」というのは『草堂詩集』(良寛)のことかと思われます。

《以下引用(p247)》
本源へと辿るプロセスを振り返ると、三つの“見る”段階があるようだ。�^媼院覆海海蹇砲良汁悗�主客(色心)の関係でものを見ている(科学、学問領域)。�⊆腟劼�共に消える意識の深層に突然無が現れると、ものは存在しているけれども目は何も見ていない。�,鉢△隆屬飽媼韻�表層から深層へと辿ると、その変化に応じて、また個人的、集合的な背景(カルマ)の違いから美しい色彩や様々な幻影の世界が現れてくるが、これについては触れない。「仏に逢うては仏を殺す」とあったように、すべて捨象されるべきものであるからだ。�L気涼罎卜韻泙辰涜狹召垢襪海箸�なければ、やがて生死の根本である無明の暗窟は打破され、忽ち純粋意識(自性)の鏡の中に全体が現れ、あなたはすべてのものを見ている。あなたは自分自身を失っているのであるが、かくしてのみあなたはすべてのものを受け取り直すのだ。そこには「喜も無く亦た憂も無く」、名もなければ形もない愛(真理)のみがある。この愛は存在するすべてのものに浸透し、尊卑、浄穢を問わず、どんな些細なものの中にも全体を現す。宙を舞う塵にも等しい人間もそうなのだ。「展(の)ぶる則(とき)は法界に弥綸(みりん)し、収むる則は糸髪も立たず。歴歴孤明にして、未だ曾つて欠少せず。眼も見ず、耳も聞かず。喚んで什麼物とか作す」(『臨済録』)。すべてはあなた自身の一部であり、花と咲いているのはあなたなのだ。

山を見るに是れ山、
山も見るに是れ山にあらず、
山を見るにただ是れ山。

返本還源の旅もようやく終りに近づいた。心の本源に帰入するとき、あなた(の心)は朝霧が陽光の中で晴れ渡るように消える。と、その背後から自然はあるがままの美しい裸身(独露全身、清浄身界)を現す。そこにあなたはいない(無我)。あなたはそれなのだから(大我)。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十一章 慧能」(p221〜250)を読みました。

《以下引用(p245)》
覚者と呼ばれた人達が辿った道は文字通り孤独な道なき道であった。彼らは自らの終焉と永訣を受け入れ、ひとり太古の海に消えたのだ。衆多の生を経験する中で積み重ねてきた自分の消息すべてをその中に葬り、たとえ後人が彼らの足跡を訪ねようにも見あたらない。

私たちは愛するものの死に幾度か悲しみの涙を流したことだろう。しかし、自分自身(仮我)の永訣(死)と独り対峙して、たじろぐことなく無の中に消えていった高貴な人が果たして現代にどれだけいるだろう。私たちは見当違いのところで喜び、見当違いのところで涙する。
《引用終わり》

前出の『入鄽垂手』と併せ読むといいかもしれません。

《以下引用(p246)》
真の宗教者は、世界が幻影(夢)だと言われてきたという理由から、世界を放棄し、世捨て人になったりはしない。また一般にそう思われがちだが全くの誤解である。自らの本源に帰入すると、世界も同様に海中の漚(あわ)のごとく本源に消えるさまを見て、「この世は夢の如し」と言ったのだ。「菩提を得る者は、寤(さ)めたる時の人の、夢中の事を話すが如し」(『首楞厳経』)。否、それだけではない。今や自らの本源(自性)の中に全世界は玲瓏たる真実(タタター)を現したのだ。それでも彼らが少しばかり世捨て人のように見えるとしたら、それは私たちが見ているような二元論的な世界が自然に消えたのであって、この世界に背いてどこか外に真理を求めたわけではない。真理は求めずとも、今、ここにあると知ったのだ。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十一章 慧能」(p221〜250)を読みました。

《以下引用(p233)》
「本心を識らずんば、仏法を学ぶも益無し。若し直下に自らの本心を識り、自らの本性を見れば、即ち仏と名づく」とあるように、慧能は、あなたの本心、あるいは本性が仏であると言う。さらにあなたが仏道を行じて仏になるというのでもない。あなたはすでにそれなのだから、さらに仏になることさえ要しない。「仏はまさに更に仏と作るべからず」(『臨済録』)。つまりあなたの本性に付け加えるべきものなど何もありはしないのだ。
《引用終わり》

あなたは何を達成する必要もない。あなた自身であればよいのだ。

《以下引用(p237)》
才能にめぐまれ、弛まぬ努力の結果、ひとりの天才が生まれるという意味で仏になることはない。すでにそれであるものに改めて成る必要もなければ、また成ることもできない。人為的な努力の結果あなたが何に成ろうとも、もしそれだけならばあなたは本来自分がそれであるものを取り逃がしたことになる。だからといって、本来仏であるから何の努力も必要ないと考えるならあなたは全く初歩的な誤りを犯すことになる(道元はこの問題をいだいて入宋した)。極めて逆説的な表現であるが、仏に成るためにあなたはあらゆる努力を傾けなければならないのだ。殊に現代のように宗教が形骸化し、その本質が見失われつつある状境を目の当りにして、その思いは強い。

そこで先程来述べてきたところを踏まえつつ、仏に成るとはどういうことかを要約すると、心を励して自らの努力の結果仏になるということではなく、すでにそれである本心、あるいは自性に目覚め、本来仏であることを自ら証するためにあらゆる努力が求められているとなろうか。
《引用終わり》

釈尊もそうでしたし、ヨハネもそうでした。バルドもそうでした。悟りの光明を前にして、私(生滅心)が仏にまで姿を変えて闇に留まらせようとする…。

《以下引用(p239)》
禅(だけではないが)の立場からいうと、仏でさえ心が投影したものである。粗大身から微細身に至るまで、仏は心のゆらぎが作り出した“光影”に過ぎない。本源へと辿るプロセスの中で、たとえ仏を見たとしても、そこに留まるべきではなく(臨済の「仏に逢うては仏を殺し」はこの意味である)、さらに内側へと辿ると、突然あなたは何も見ていない瞬間が訪れる。目が何も見ていないときあなたは心も見ていない。つまりあなたは無心となるのだ。
《引用終わり》

悟りのパラドクス…

《以下引用(p241)》
この一連のプロセスを見事に表現しているのは黄檗の次の言葉である。「心自ら無心ならば、亦た無心なる者なし」。私たちはこの意味を深く味わうべきだろう。「私」とは心が造り出した観念に過ぎない。その心が息むとき、さながら波が静まり大海とひとつに溶け合うように「私」も消える。心が消えて、あなたが無心となれば、無心なるあなたも無いのだ。
《引用終わり》

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