トトガノート

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p271)》
あなたの心が真実を覆うが故に、あなたの世界は冗々として混乱するばかりで、ここが本当はどんな世界なのかが分からないのだ。しかし、それは誰の責任でもない。「衆生の罪なり。……此の土は浄けれども汝は見ざるなり」(『維摩経』「仏国品」)。…

宗教は決して反社会的でもなければ、まして社会に敵対しているのでもない。不覚の心をもって世界を眺めている限り、見るものすべてが虚妄となり、それに立脚してなされるあらゆる試みは、問題の上に問題を重ねるようなもので、これには終るということがない。

宗教は「哀なるかな、哀なるかな、長眠の子、苦なるかな、痛なるかな、狂酔の人……此に死し、彼に生き、生死の獄出で難し」(空海『教王経開題』)とは言うかも知れないが、誰を責めているのでもない。また社会が悪いとも言っていない。真実に目を閉じて、長夜の夢に酔い痴れ、自分が何をしているのか分からなくなるほど無知と狂気の淵に沈むことがないように、目覚めなさいと言っているのだ。ところがそう呼びかけるものを嘲けり、笑って取り合わないのがわれわれ人間なのだ。「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。(空海『般若心経秘鍵』)」
《引用終わり》

これは例えではありますが、
たとえ「酒肆魚行(しゅしぎょこう)」の巷であっても、「化(け)して成仏せしむ」ことにもなろう。しかし、決してそこに長居はしない。いそいそと家(一窟)へと帰り、独り無為の凝寂の処に憩うのだ(「瓢(ひさご)を提(さ)げて市に入り、杖を策(つ)いて家に還る」)。
というような人は、失笑を買うのが普通でしょう。それが、この世の哀しいところ…。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p270)》
無明とは心の本源を如実に知ることができない不覚であり、いわゆる無知とは違う。それどころか無明は豈図らんや、くさぐさの知識と情報をため込み、そこから果てしない言語ゲーム(戯論)を始める。「一切の言説は仮名にして実無く、但妄念に随って生じてくる」(『大乗起信論』)ことを知らないで、人は議論を戦わすが、宗教はむしろ言葉から離れるために言葉を利用するに過ぎない。それを「言に因って言を遣る」と言う。本来宗教は饒舌から沈黙に向かうものなのだ

心の本性は清浄であるにもかかわらず、「衆生はもろもろの妄想(妄心)のために浄心を迷覆せられ」(空海『秘密三昧耶仏戒儀』)、自ら造り出す虚妄の世界でひとり呻吟している(心性本浄、客塵煩悩)。われわれは真心(浄心)を妄心で覆うが故に、見るものことごとくが虚妄となり、一方、菩薩(仏)は妄心を捨てて真心でもって見るが故に、見るものすべてが真実となる。

諸の凡夫は、真を覆いて一向に虚妄を顕す
諸の菩薩は、妄を捨てて一向に真実を顕す
(『摂大乗論』「果断分」)

・・・
「雲霧日月を弊す。雲霧披れて日月を見るに、日月今更に生ずるにあらず。これは密教に本有を顕はすの喩なり」(空海『秘蔵記』)。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p269)》
…心の本性も心を離れてあるわけではないから、たとえ遥かな道のりであっても、われわれは自らの心を手掛かりとして悟りへの道を歩むしかないのだ。そして、幸いにも心の本源(心源)を覚ることができたら、それが如実知自心、すなわち空海のいう悟りなのだ。…

「無上菩提の心を発さんと欲はば、まさに先ず深く心に観察すべし」(空海『秘密三昧耶仏戒儀』)。

悟りを自らの心に尋ね求めるという空海の思想の背景には「秘密主、自心に菩提と及び一切智とを尋求せよ。何をもっての故に、本性清浄の故に」(空海『十住心論』「第八一道無為心」,『大日経』「住心品」)とあるように、心の本性は本より清浄であり、常に変わらずそうなのだ。誰もが本来有しているこの心を自性(本源)清浄心と呼ぶ。

しかし、如実にその心を覚ることができなければ、忽然として念(心)が起こる。それを『起信論』は「無明の忽然念起」と呼んだ。そして、この不覚の心(妄念)に覆われて、自性清浄心が分からず、六趣の垢穢を往還しているのが人間なのだ。「衆生、苦海に沈淪し、生死の河に没して、自心の源に迷い、恵命を喪失す」(空海『秘密三昧耶仏戒儀』)。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p267)》
空海のいう悟りは、ひとえに『大日経』(住心品)の「秘密主よ。いかんが菩提とならば、謂く実の如く自心を知るなり」に依っている。悟り(菩提)というものが、如実に自らの心を知ることだとすると、どんな人も心は持っている。そして心を持っているものは、かならずや悟りを得るであろうというのは大乗仏教の基本的な教えだ。「衆生も亦た爾なり、悉く皆心有り。凡そ心あるものは定んで当に阿耨多羅三貘三菩提を成ずることを得べし。是の義を以ての故に我“一切衆生悉有仏成”と宣説す」。
《引用終わり》

『大日経』の凄さは、松岡正剛氏もすぐに気づいたそうなのですが、まだ私は読んでいません。どんなふうに凄いかを書いてくれているのが司馬遼太郎氏です。

《以下引用(p268)》
空海はこの『涅槃経』の言葉を要約した『儀軌経』の「一切衆生の身中にみな仏性あり、如来蔵を具せり。一切衆生は無上菩提の法器にあらざることなし」を『十住心論』(「第八一道無為心」)で引用している。悟りを如実知自心としたことで、迷悟の鍵があなた自身にあることは言うまでもない。・・・

そこで自分の心は自分が一番よく知っている。それなのに何故悟りとなり得ないのかとあなたは言うかもしれない。

問うていわく、もし即心これ道ならば、
何故に衆生は生死に輪廻して、成仏することを得ざるや。
答えていわく、実の如く(自心を)知らざるを以ての故に……(『大日経』「住心品」)

心を知ることが悟りへの道であるが、まだあなたは実の如く自分の心を知っているのではない。この微妙な違いは『大乗起信論』が心を心生滅(妄心)と心真如(真心)の二相に分けたように、心と心の本性(心性)の違いなのだ。空海の言葉でいうなら、妄念と本心の違いだ。「一切の妄念はみな本心より生ず。本心は主、妄念は客なり。本心を菩提と名づけ、また仏心と名づく(空海『一切経開題』)」。要するに、如実に自心を知るとは、あなたの心の本源(本心=真心)を知ることであって、日夜思い煩っている心(妄念=妄心)ではない。…
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

般若心経のマントラ(真言)に関しては以前にも取り上げました。その時の解説と比較してみて下さい。

《以下引用(p265)》
私はここに空海の思想のエッセンスが纏められているように思う。彼の多くの著作はこの詩頌の脚注と見ることができる。

…どんな人も真の安らぎの場を求めているのであろうが、ここ(三界)は客舎であって、あなたがいつまでも留まるべき本当の場所ではない。旅の途次、家を構える人などいないであろうが、われわれがしていることはそれと変わらないのだ。そして、何度も試みては、壊れていった。その哀しみをわれわれは幾度も経験している。われわれ自身がどこにも身体を休めることができず、生死去来しているまろうどであるとも知らず、客舎を飾って、どれだけ長く留まれるものであろうか。そう、われわれ人間は心の内側に帰るべき永遠の故郷があることをすっかり忘れているのだ。「久しく方(みち)を還源(げんげん)に迷うて、長く境を帰舎に酔えり(空海『性霊集』巻第七)」。

そこはわれわれが現れ出てきた本源(原初)であるが故に帰るべき故郷なのだ。初めに原初があり、終りに原初がある。人間は二つの原初(gzhi)の間で悲喜こもごも生死の夢を見ているのだ。

心の本源(一心)は、もとより静寂で、至福と安らぎに充ちている。何ら欠けるものはない(円寂)。いつも変わらずそうなのだ。ところが、あなたは本源に背き、末節に向かうが故に生死の苦海に自ら身を淪め、遠き異郷の地をさ迷い始めたのだ。そして、あなたがこの地上で捨身しなかったところを探し出すのは難しい。これ以上どこへ行くことも、また何をする必要もない。ただ、あなたは自分の内側へと深く、より深くへと入り(行行)、自分も世界もすべてが銷殞する(去去)、原初へと辿り着けさえすればよいのだ。そこがあなたの永遠の故郷であり、真に安らぐ涅槃の都(本居)であるからだ。…

…「衆生は狂迷して本宅を知らず、三趣に沈淪し四生に趻跰す。苦源を知らざれば還本に心なし(空海『十住心論』第一異生羝羊心)」。…

さらに空海は「末を摂して本に帰すれば、一心を本となす。一心の性、仏と異なることなし(空海『遺誡』)」と言う。彼は心の本源(一心)が仏であると言うのだ。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p262)》
…主客の実在論的二元論の構造が根底から崩れ、あらゆるものが銷殞するとき、初めて真理の一瞥が可能になるということだ。これを「人と法との二種において無我になることを知るを謂う。能取と所取とに体有ること無きを知るに由るが故なり」。(無著『大乗荘厳経論(随修品)』)
《引用終わり》

「銷殞」という言葉、好きです。p258にも出てきましたが、『十牛図』の説明でも出てきました。

《以下引用(p262)》
この場合の真理はその都度、単独者の主体的な体験として、各々が自ら獲得しなければならないものである。宗教が組織や団体になると形骸化が避けられないのも、宗教的真理のこの特異性にある。宗教が単独者の主体の問題であるといわれて、それに耐えられる人は多くないからである。
《引用終わり》

宗教の問題点ですね。これについては5章でも触れられていました。8章では、聖職者が凡夫の俗っぽい祈りを導いているおかしさが指摘されていました

《以下引用(p262)》
主客の実在論が捉えるいわゆる科学(客観)的真理と宗教(主体)的真理の違いは今述べた認識の形式にある。私が学問とはひとつの仮説に過ぎないというのも、観察するものと観察されるものがいずれも空から生じた仮有であり、主客の妄執が構築した理論(もの)であって、それには終るということがあるからだ。もっとも共同幻想の世界に生きる限り、その仮説にも意味はあろうが……。
《引用終わり》

これは科学(学問)の問題点ですね。学問と宗教の違いについて、もう少し詳しく書いているのがこちらです。

《以下引用(p262)》
このように摂末帰本の道を辿り、見るもの(人我)と見られるもの(法我)が消え去るところを空という。そして空の体験なくして真実は現われてこない。それは見ているあなたが消えて初めて起こり得ることなのだ。だから空海は「人我の空を解(さと)らずして、何ぞ法空の理を覚らん。この故に生死に流転して涅槃を得ず」(『十住心論』「第四唯蘊無我心」)と言うのだ。
《引用終わり》

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《以下引用(p260)》
間違ってはならないのは、虚妄なる世界にわれわれが迷い込んだのではない。本源を運んで「三界を画作」しているのはあなた自身なのだ。もしそのように考えるなら世界(世間)を超える(超過三界道)という宗教的要諦が、この世界を離れたどこかに真実の世界を探し求めるというとんでもない間違いを犯すことになる。虚妄の世界と真実の世界が二つ存在しているのではない。本源に徹し、覚ることができれば虚妄は真実ともなる。「是の如く真諦(真実)と俗諦(虚妄)は但だ二義のみ有って二体あることなし」。法蔵『華厳五教章』(「所詮差別」)より
《引用終わり》

このことは今までにもいろいろ出てきましたが、5年ほど前に「龍樹」から引用している記事がありました。懐かしい…。

《以下引用(p261)》
しかし、ここに奇妙なことがある。それはあなたが自らの実存に深く入っていくと、あなたは自分が消えていくように感じるだろう(人無我)。それだけではない、あなたがこれまで見ていた世界もまた消える(法無我)。何故であろうか。それはわれわれの内なる本源が本より空(無)であるからだ。逆に言えば、あなたを含むあらゆるものが空から生じた仮有であり、実際には存在しないにもかかわらず連綿と形をとって現象してきているのだ。「空はすなわち仮有の根なり。仮有は有にあらざれども有有として森羅たり」。空海『十住心論』(「第七覚心不生心」)より
《引用終わり》

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《以下引用(p259)》
人間は意識・無意識を問わず共同幻想の中に生きている。そして、人の一生は問題に継ぐ問題であるように思われるが、それらはすべて冗々として事、麻の如き共同幻想の中にのみ存在するものなのだ。存在の意味を共同幻想の枠組の中でいくら考えても見い出せないだろう。考えるほど泥沼の深みに嵌るのが落ちだ。

「世間虚仮」(聖徳太子)、「三界唯心夢幻空華」(臨済)、「三界虚偽唯心所作」(馬鳴)。このように彼らはいずれも同じ世界認識に到達している。共同幻想を生きているわれわれが世界は虚妄(夢のように仮有実無であるということ)であるなどと言うはずはないし、また言えない。当然、このように見たのは共同幻想から目覚めた覚者ということになる。しかし彼らは、われわれが今見ている世界が虚妄であると言ったのであって、世界そのものが虚妄であるとは言っていない。まして世界が自ら虚妄であると言うはずもない。

「三界は自ら我れは是れ三界なりと道(い)わず」(『臨済録』)。
《引用終わり》

他にも「三界虚妄」(『華厳経』)、「三界虚偽」(『起信論』)、「三界如幻」(『楞伽経』)というのがあります。

《以下引用(p260)》
事実、覚者の目には同じ世界がことごとく真実と映っている。ただ、われわれの目にそう見えていないだけ。つまり、われわれ人間の中で奇妙な転倒が起こっているのだ。…

「誠にこれ本に背き末に向ひ、源に違して……、幻野に荒猟して帰宅に心なく、夢落に長眠す。覚悟何れの時ぞ」(空海『吽字義』)。本源に背き末節に流れるが故に、夢の如き世界(夢落)に、長き眠りをむさぼって、一向に目覚めようとしない。これが人間の偽らざる姿なのだ。
《引用終わり》

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《以下引用(p258)》
数ある仏教の教義の中で、瞠目すべき教えは無我の思想であろう。五蘊の仮我が消えたところが無我であり、その後に現成してくるものを空海は大我(真我)と呼んだのだ。しかし、その大我にも実体はなく、あたかも雫が大海に溶け、一味となるように、あなたはどこにいるのでもないが、遍く存在して、ついに終るということがない。仮我が銷殞して無我の大我となる。これこそ空海が「我が理趣」を求めて行き着いた実践的結論であった。

人間に真我と仮我があるところから出発したが、ではその違いは一体どこから生じてくるのであろうか。結論からいうと、私の本源、それはまた全宇宙の本源でもあるのだが、それを見てとれないために(不覚)、人は妄りに生死の夢を見、自ら衆多の生を重ねることになるのだ。「世間の凡夫は諸法の本源を観ぜざるが故に、妄に生ありと見る。所以に生死の流れに随って自ら出ずること能わず」空海『吽字義』。

仮我と真我、生死と涅槃、虚妄と真実、世間と出世間、衆生と仏……これらの相違は本源(gzhi)の覚・不覚に依るのだ。しかし、あなたがいかなる状況にあろうとも、言い換えれば、覚・不覚にかかわりなく、本源を失うことはないのだが(「諸仏の真源は衆生の本有なり」廓庵『十牛図』)、その不覚ゆえに、自ら造り出した虚妄の世界(三界)に自ら淪み、妄りに生死を繰り返す。「自ら諸法の本源を運んで三界を画作して還って自らその中に没し、自心熾然にして備に諸苦を受く」空海『吽字義』。

分かるだろうか。われわれ人間が自ら泥濘に落ち込み、そこから抜け出せないブーツストラップ状態が如何に矛盾に満ちたものであるかが。われわれはこんなところで人生を語り、夢を描くが、自ら造り出した(画作)、如夢如幻の世界(三界)で、さらに夢を重ねてどうしようというのだろう。「一体この世界は幻想の上に成り立っている。それなのにこの世界を人は現実と呼ぶ。それが目に見え、直接感覚に訴えてくるからだ。そして、この世界の存在の源となる形而上的なものを幻想と呼ぶ。本当は正反対なのだ。この世界こそが夢幻である」ルーミー語録(井筒訳)。
《引用終わり》

「本当」の世界には…
すべての物があって、すべての者がいる。そして、すべての状態がある。


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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p257)》
仮我は様々な姿をとって現れ、状況が変われば如何ようにも変化する。その背後に同じ真我を宿していることを知らないで、人は敵対し、憎悪をあらわにするけれども、いずれも仮我と仮我が利害をめぐって対立し、仮想の敵に戦いを挑んでいるに過ぎない。しかし、この無知と狂気ゆえに人類は今日に至るまで、どれほど多くの血を流し、悲嘆の涙にくれたことであろう。

仮我の本源に真我(大我)があることを知らず、仮我が紡ぎ出す如夢如幻の世界で存在の不条理を託つ人間。堂々巡りをするばかりでどこに行き着くのでもない行き場のなさこそ現代人が漠然と感じている不安なのだ。

五蘊の仮和合である私が自らの業(カルマ)に随って生死海に淪んでいる。それならばと肉体を放棄して、サンサーラの悪循環から逃れ、真我に到達しようと短絡的に考えてはならない。また殆どの人の場合がこれにあたるが、単なる肉体の死が仮我を捨てて、真我に帰し、永遠の生命にあずかると考えてもならない。「人死するとき、必ず性海に帰し、大我に帰して、更に生死の輪廻なしと云うは、外道の見なり」。
《引用終わり》

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「死んで仏になる」ということを当たり前のように言い、亡くなった人はみんな仏になるようなことをお葬式の時にはお坊さんまでが言うようです。可藤さんや、他の方々が書かれた仏教書を読むと、このことがすごく引っかかるようになります。死ねば誰でも仏になれるのなら、何の努力も要らないし、仏のありがたみも皆無です。

「外道の見」とは凄まじい…でも、仏教の根本に矛盾しているのですから、全くその通りなのですが。

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