トトガノート

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COP10というのが開催されているようで、「生物多様性」という言葉がよく聞かれます。

多様性の意義はいろいろあるんでしょうが、現存する遺伝情報にバリエーションがあることの重要性は、今回話題になった「遺伝子資産」という言葉の流布を待たなくとも、認識されておりました。

地球環境の変化というのは必ず起こり得ることですので、いまの環境に適応した遺伝情報だけが生き残ることになると、環境が変化したときに生物が全滅する可能性が出てきます。

遺伝情報のバリエーションを増やす有性生殖の生物の存在意義がここにあります。これを踏まえて人間や思想の多様性も重要であることは以前も書きました

今回は「人物多様性」という言葉を提唱したいと思います。

江戸時代の庶民は長屋暮らしなどをしていましたから、運命共同体としての連携が強かったそうです。特に世界的大都市だった江戸は、なにかちょっとしたことが商売になり、その日暮らしでも食い繋いでいくことができました。(爆笑問題のニッポンの教養#122「落語ぢから」参照

さらには困っている人を助けようという機運が強く、勝海舟の父親のようなとんでもない変わり者でも、他人に助けられて、生きていくことができました。(歴史秘話ヒストリア第53回「大江戸なんだこりゃ!?ハジケて笑える“文化文政時代”」参照)こんな変わり者の息子だからこそ、江戸城無血開城というような当時としては奇想天外なことを実現できたとも言えます。

「生物多様性」が危機にさらされているのと同様、「人物多様性」も危機にさらされているような気がします。変わり者は潰してしまえ!という風潮が感じられるからです。

江戸のように、懐が寒くても、懐の広い、心の暖かい社会が実現できないものでしょうかね…
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先日、ビジネス理論とかマーケット理論とか、精力的に勉強されている青年と議論する機会がありました。彼には、より多くのお客様を獲得できそうな分野への進出を薦められました。完全な商売替えでもないので、ある意味尤もな話だったのですが、自分のポリシーに反するからしないのだということで議論は終わりました。

こういった理論、全部が全部ではないだろうけど、やはり当たり前のことながら多数派のニーズを最も大切にするわけです。大儲けするには、最も需要のある分野をまず考える。

基本的には、それでいいと思うのです。商売を始めても喜んでくれる人がほとんどいないのでは店をたたむしかありません。ただ、お客様の嗜好が間違っている場合もあります。

分かりやすい例で言えば、カウンタで何杯も水割りをお代わりしてどう見てもヤバいお客さん。「もう一杯!」と言われたときに、すぐさま出してあげるか、「そろそろやめといた方がいいですよ。」と言って出さないか。

顧客満足だけを追いかければいいのか?と疑問を抱かざるを得ない場面は必ずあるものです。お客様が間違っていると思った時にきちんと諌めることができるかどうか…そこでポリシーとか信念の有無が問題になってくると思います。

どうして、この仕事をしたいのか。その理由がはっきりしていれば、どのようにその仕事をしたいか、どのようにしなければいけないか、という自分の考えが決まってきます。そうできなければ、自分がこの仕事をする意味がない。そうできないのなら、この仕事なんかできなくてもいい。(これを私は四誓偈的精神と呼んでいます)

お金が儲かりさえすればいい、というのもひとつのポリシーかもしれません。でもそれは「その仕事をしたい」ということではなくて、「金になりそうな仕事がたまたまそれだった」ということです。状況が変われば、別の仕事をしたくなります。それは、顧客に振り回されていると言えなくもない状況です。極端にいえば、顧客が1円でも多く金を出してくれるのなら何でもします!という奴隷に似た状況。

少なくともその商売をすると決めて、いろいろ勉強したのであれば、その知識を使って、間違った客は諌め、教育していくという気概も必要なのではないでしょうか。

現在、最も奴隷的な職業が政治家だと思います。どうして政治家になりたいかが希薄な人が多いのではないでしょうか?とにかく政治家をやっていたい。一票でも多く集まるのであれば、何でもします。ポリシー(政策)なんてどうでもいい。四誓偈とは真逆の精神です。

以前は、大方の世論はなかなか動きませんでした。よって「山」に例えられ、土井さんの党が勝った時には「山が動いた」と言われました。だから、政治家もある程度の期間、同じ主張を続けることができました。

でも今は、山というよりも海。世論は波のように常に動いています。これを追いかけていたのでは、ポリシーも節操もあったものではない。ポリシーが無ければリーダーになどなれるわけがない。

ポリシーの無い政治家って…コーヒーを入れないコーヒーみたいですね。
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教科書のデジタル化について書いてから、ばんやり考え続けていたのですが、「デジタル」という革命がどういうことなのか、現段階で自分なりに整理がついたので書いておこうと思います。

産業革命と比較してみました。産業革命は内燃機関の発明と普及が世の中を変えていきました。汽船、汽車、さらに発展形として自動車。人間はそれまでには考えられない速度で移動し、大量の物資を輸送することができるようになりました。輸送にだけ着目すれば「足」の機能を代替する画期的な手段ができたという革命です。

「江戸に行く」ということは、一歩一歩、ミクロの積み重ねでした。道端の花に目を止めたり、湧水を飲んだり、いろんな宿に泊まったり…「江戸に行く」ということの中には、それによって派生する様々なことが含まれていました。でも、現在では東京出張は日帰りです。ひとつのマクロ処理になってしまいました。東京に行くということで派生する様々なことはほとんど無くなりました。味気なくなったと言えますが、格段に効率的になったということでもあります。

IT革命はコンピュータの普及が世の中を変えました。コンピュータと言ってもパソコンだけではありません。CPUとかDSPとか、小さいコンピュータがほとんどの工業製品に入っていると言っていい状況だと思います。これは機械の制御信号をデジタル化したことに起因します。デジタル化すれば、電卓をポンポンと叩く要領でいかなる制御信号でも作り出すことができます。

これは「脳」の機能の一部を代替する手段の革命と言えるかと思います。データを探し出したり、並べ替えたり、集計したり、記憶したり…というコツコツとミクロの積み重ねでやらなければいけない作業が、ほとんど自動化できるようになりました。自動化のプログラム(エクセルならばマクロ)さえ作っておけば、かつて膨大な時間を要した作業はほとんど要らず、ただ最初の生データさえ入力すればよくなった。

先の革命は肉体的作業の自動化、今回の革命は知的作業の自動化。自動化することによって、何年もかかっていた大仕事(大プロジェクト)の一部が一足飛びに処理できるようになり、小さな仕事になっていく。それが文明が進むということなのかもしれません。

ただ、古典的な手段が無くなってしまうわけではありません。基礎的な運動能力は健康のためにも必要ですし、スポーツという形で運動能力を競い合い高め合うことは重要です。

モーター・スポーツという言葉には少し違和感を感じます。体をほとんど動かさないのにスポーツなのですから。産業革命を踏まえたスポーツといえるかもしれません。私は弓道部でしたが、「あれは運動部なのか?」とよく言われたものです。でも、体をほとんど動かさないスポーツがあるんですから、体をほとんど動かさない運動部があってもいいわけです。

最近、テレビゲームで競い合う競技大会が海外で盛り上がっているそうで、これもスポーツとみなされているようです。これはIT革命を踏まえたスポーツと言えるかもしれません。

こんなふうに考えていきますと、IT革命を踏まえた教育というのも何となくイメージが湧いてくるような気がします。つまり、読んだり書いたり計算したりという基礎的能力は、やはり必要でしょう。そういうコツコツ作業の要領や意味をしっかりと踏まえた上で、そういった作業群をひとつのマクロとし、複数のマクロを組み上げて大きなプロジェクトを構想し、遂行する能力が新たに求められるようになってくる…ということなのかなと思います。

調べものも楽になります。もちろん、重たい書物をひっくり返してページをめくりながらのコツコツ作業も必要です。そうしなければ調べられないことは必ずあるはずですから。でも、クリックひとつで分かることは、可能かつ適切な範囲で活用していくのもこれからの能力と言えます。

考えてみれば、このトトガ・ノート。自分のノートの中をクリックひとつで行ったり来たりしながら復習できるノート…というコンセプトで作り始めたものです。しかも、ケータイでいつでも見返すことができる。

筋肉や経穴に関する情報も、訪問治療の出先で、ケータイで確認することができ、治療の質を高めることができます。

この方法を使ったから自分は仏教の勉強が続いているんだと思います。いろんな本を引っ張り出して読み比べたりするのは、面倒くさがりでできないんです…

やっぱり、デジタルって便利かも。
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いつものようにNHKオンデマンドの番組を流しながら事務処理をしようと思いまして、「SONGS心に響く歌2010」というのを何気なく選びました。歌だったら画面見ないで聴くだけだから、ながら仕事にはちょうどいい…と思って。ところが、全然ダメでした。心に響き過ぎたのです。

クミコの「INORI〜祈り〜」。広島平和記念公園に立つ、折り鶴を掲げた「原爆の子の像」。2歳で被爆、12歳で亡くなった佐々木禎子さんがモデルになっています。

こういう重いテーマはいつも敬遠しているのですが、何気なく聞いてしまっただけにショックでした。

原爆症の薬を毎日飲む。昔、薬は正方形の紙に包まれていました。しかも、対角線に折られている。折り鶴の折り方と同じ。いつしか少女は薬の紙で折り鶴を折り始める。

もう自分は治らないだろうことに気づいている。近いうちに死が訪れることに気づいている。死が刻一刻と近づいてくる恐怖、「生きたい」という内からこみあげてくる悲鳴。しかし、それらを口にしても仕方がないことも少女は知っていた。

ただただ震えながら、毎日増え続ける折り鶴に語りかけた。そして祈りを込めた。千羽になったら…もしかしたら…


そんな光景をイメージして、ただただ私も泣いて泣いて泣いて…悲し過ぎます。

その後に衝撃的な番組を見てしまいました。NHKも憎いことしてくれます。それが「原爆投下を阻止せよ」という番組。

原爆のプロジェクトは秘密裡にバーンズという高官によって進められた。この人は予算集めが上手で、アメリカ史上最大規模の国家予算が「マンハッタン計画」に投入された。代わったばかりのトルーマン大統領に原爆の投下を強硬に勧めたが、その主な理由はどうやら2つ。1つは、当時東欧に勢力を伸ばしていたソ連を牽制するため(これはきちんと記録が残っている)。もう1つは、膨大な税金を投入してしまったために、原爆が不発に終わったのでは格好がつかない。原爆を使う前に日本に降伏されては困るので、日本に提示する降伏の条件から天皇制の維持を認める条項をバーンズは独断で削除している。

つまり、ヒロシマじゃなくても良かった。どこでも良かった。アメリカは、通り魔程度の動機で原爆を投下した…。

実は、この番組の主役はグルーという高官で、この人はバーンズの動きを阻止して原爆投下をやめさせようとしました。アメリカにもまともな人はいたのか…と思おうとしたのですが、グルーはウォール街の人間で、日本に投資した資金が無駄になるのを恐れて原爆投下に反対していたらしい。つまり銭ですね。

やれやれです。神も仏も無いのか…米大統領は聖書に手を置いて就任の誓いをするらしいから、やはりニーチェの時代に神は死んでいたんだなと思ってしまいます。死んで仏になったかもしれないから、やはり仏を拝むしかない…

こんな状況でも私たちは怒ってはいけないのですね。ただただ悲しみ、祈るしかない…
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仙台で見てきた話は先日書きました。その時に考えたこと…「映画を見た時との違い」そして「怒るということ」。

この映画を見たのはテレビで、確か淀川長治さんが解説していたように思います。二十年くらい前でしょうか。今、この劇を見ると、最初に浮かぶのは裁判員制度です。が、これについて再び考えるのは疲れてしまいました。それよりも、この制度に対する自分の考え方、あるいはアメリカという国に対する考え方がすっかり変わってしまったことに気づいたのでした。

二十年前(もっと前かもしれない)、私の中にはまだアメリカという国への信頼とあこがれがありました。劇中のセリフの中にも、「自由の国」とか「民主主義の国」とか「フェアネス(公正さ)を重んじる国」としてのアメリカを誇っているニュアンスが感じ取れます。それにいちいちうなづいていました。「やはりアメリカはスゴイな」と。陪審員制度なんてあるんだからな…。日本ではそんなこと何年たってもできやしないだろう…。

今、裁判員制度が導入され、賛否はどうあれ、この制度のメリットは何なのか?まだよく分かりません。日本もそういう制度を導入できるようになった(せざるを得なくなった?)けれども、それが良いこととはとても思えない自分がいます。まして、アメリカが自由で公正な民主国家だなんて…。

ただ、このお話、「怒る」ということをなかなかうまく描いています。十二人の男が、それぞれの形で怒っています。貧民階級への偏見から生じる怒り、自分と対立している息子と被告をダブらせての怒り、何で赤の他人のために相談しなくちゃいけないんだという怒り、冷静にあるいは論理的にみんなが議論しないことに対する怒り、フェアネスの国にいてフェアな裁判をしようとしない人たちへの怒り…。

しかし、怒りはどれも、理不尽であり、強引である。やはり、人は「怒り」を原動力にして生きてはならないのだな、と思いました。
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テレビ地上波の次は、学校の教科書がデジタルになるようです…。

情報革命に関するNHKの「大人ドリル」を見ました。デジタル教科書の全面導入を10年後に設定し、文科省が検討に入っているというのは驚きました。うちの娘はギリギリで中学校を卒業するかどうかくらいですから、関係ないと言えば関係ないのですが、その世の中の動きに無関係ではいられません。

公文の塾は続けているでしょうから、どんなふうに対応していくかという問題もあります。

ナンセンスな冗談を笑うためには、常識的なセンスが前提にあります。常識が無ければ非常識は分からない。バーチャルとリアルもそんな関係にあると思います。現実社会(リアル)に充分馴れ親しんでいない小学生が、いきなり仮想社会(バーチャル)に入り込んでしまっていいのか?という不安はどうしてもぬぐえません。仮想空間の中だけで生きていくことはできないですからね…。

しかし、技術の進歩は、仮想空間に全く関わらずに生きていくことをも難しくしています。

お年寄りに言わせれば、パソコンでいろいろなことができるようになることは、むしろ世の中が厄介でややこしいものになるだけのようです。薪でお風呂を沸かすしかない時代の方が、簡単で分かりやすかった…。

新しい技術への対応を考えるときに、いつも思い出すことがあります。会社勤めしていたころに聞いた話ですが、「マシン語が分かる人の方が、高級なプログラミング言語しか知らない人よりも良いプログラミングをする」ということ。私はハードウェアの設計をしていましたから、「トランジスタ・レベルで設計したことがある人の方が、論理回路しか分からない人よりも良い設計をする」というふうに置き換えて、納得していました。

これをヒントに考えれば、現実社会での積み重ねの多い人の方が、仮想社会でも活躍できる可能性があると言えそうです。NHK趣味悠々のパソコン講座を担当されている中谷日出解説委員によれば、高齢の方のブログの方が読み応えがあるとのこと。

しかしながら、回路設計業界がそうであるように、昔の技術ばかりではもうやってられない。トランジスタレベルから人手でLSI設計をしていたら、一生かかっても一つも仕事が終わらないことでしょう。

仮想社会はどんどん膨れ上がり、そこにかかわる時間がどんどん増えていくのがこれからの時代の趨勢であることは間違いありません。

そうなると、やはり教科書もデジタルでなければいけないんでしょうかね…。
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「空海の風景」(中公文庫)「あとがき」から。

《以下引用》
私自身の雑駁な事情でいえば、私は空海全集を読んでいる同時期に、『坂の上の雲』という作品の下調べに熱中していた。この日本の明治期の事象をあつかった作品はどうにもならぬほどに具体的世界のもので、具体的な事物や日時、具体的な状況、あるいは条件を一つでも外しては積木そのものが崩れてしまうといったような作業で、調べてゆくとおもしろくはあったが、しかし具体的事象や事物との鼻のつきあわせというのはときに索然としてきて、形而上的なもの、あるいは真実という本来大ウソであるかもしれないきわどいものへのあこがれや渇きが昂じてきて、やりきれなくなった。そのことは、空海全集を読むことで癒された。むしろ右の心理的事情があるがために、空海は私にとって、かつてなかったほどに近くなった。
《引用終わり》

この代表的な2作品が、ポジとネガの関係だったようで、興味深いです。奈良の都に作った「国」らしきものを、京の都を中心に更に発展させようとしていた時代。一方、明治政府という近代国家らしきものを、列強の方法論をまねて発展させようとしていた時代。日本という国の事情も似ていた時期かもしれません。

「国」という言葉が、夢とか、理想とかいう言葉とほぼ同義で用いられていたに違いありません。「国」をしっかりと確立しなければならない、その必要性を信じて疑わなかった時代。

平城遷都1300年ということで作成された番組の再放送を見ながら、昔の人が羨ましい気分になりました。唐の方法論をまねて、次々にいろいろなものを制定しています。女性が天皇になって政治をしている点は、現代日本よりも先進的です。

「国」というものを欲したのは、国際社会を意識してのことでしょう。グローバル化の流れです。そして、唐なり欧米なり御手本が必ずありました。しかしながら現代は、むしろグローバル化の結果として、世界が同時に苦境に嵌り込んでいて、そこから抜け出すための御手本も見当たりません。

「国」という言葉に別の万葉仮名(?)をあてるとしたら、「苦荷」とかしか、思い浮かびません。その必要性すら、よく分からなくなってきています。
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現実を「受けとめる」…

「受け入れる」のではないですから妥協ではありません。と言って、「受け付けない」のでもないですから拒否とか批判というわけでもありません。現実に対してニュートラルな態度です。

私の世代は、自分をはっきりと主張しなさいと学校では教育されました。友達からは、はっきり表現しないと「暗い」と言われ、「何を考えているか分からない」と気味悪がられました。

その成果が実を結んだということなのか、最近は、ニュートラルな態度は世間的には受けが悪い。即座に何らかの反応を示すことが良しとされるようです。より分かりやすい、激しいレスポンスの方が受けがいい。それが「面白い」レスポンスであれば「面白い人」と評価されるし、「適確」であれば「判断力のある人」と評価される風潮があるみたいです。

現実を「受け止める」…

最近、政治について特に感じます。ここ数年の政治を「受け入れる」なんてとてもできない。ニュートラルという選択肢が無いとすると、「受け付けない」、拒否、批判ということになります。風潮から、完全拒否・徹底批判が流行ります。

それが、政治の動きを鈍くしているだろうし、首相の任期を短くしているのかもしれません。もちろん、首相の舵取りが間違っている可能性もありますから、それ自体、悪いこととはいえませんが。

以前書きました国会はねじれていていいんじゃないか?という内容の記事は、政治を受け止めたいという思いから書いたものです。

細川政権辺りから、国会では、あからさまな数合わせが行われてきました。主義主張に全く関係のない連立です。当初行われた手法は、小さい政党をその党首を首相にしてやるという条件で連立を組ませるというものでした。細川さんとか村山さんとかですね。でも、仲がいいのは最初だけで、連立内で多数を占める自民党が結局幅を利かせ、首相は傀儡となっていく…。

鳩山政権も数合わせは変わりがなかったのですが、連立内で多数を占める民主党から首相が出たにも関わらず、紐がこんがらかった傀儡になってしまいました。何をしたいのか分からない奇妙な動きが目立ちました。

国民新党の活躍で、大きな借金を増やす巨大な予算になりました。郵政民営化も逆行しましたが、国民はそんなことにはあまり興味がないことが今回の選挙で示されました。

社民党の活躍で、もともと奇妙の動きをする首相の動きが、ますます奇妙になりました。沖縄の基地問題は、社民党が閣内にいなくても混迷が膨らんだでしょうが、社民党がこれを破裂させてくれました。

小沢一郎さんが一番活躍していただろうとは思いますけど、連立内で少数の政党が幅を利かせたというのが新しい動きではないかと思います。

参院選は、得票数では民主党が勝っていたらしいのですが、議席数で大敗するという結果になりました。得票数と議席数にねじれが生じるというのは選挙システムに問題があるのではないか?とも思うのですが、これでねじれ国会が実現したわけですからヨシとして、「受け止める」ことにしましょう。

みんなの党が脚光を浴びました。現在は連立を否定されているようですが、当初は「アジェンダの党なので民主党が丸呑みするなら連立するかも」というような態度でした。選挙で議席を増やしたとは言え、小さな政党であることに変わりがありません。小さな政党に牛耳られる連立政権が再び誕生するんだろうか…と思いました。

これ、ウイルスに似てるかな…と思います。自分よりもずっとずっと大きな細胞の中に入り込み、核内(閣内?)に入り込み、その細胞の振る舞いをコントロールしてしまう。

こういうのもありかなとも思います。ウイルスも悪いことばかりではないようですし。

その時その時で大きく変わる世論に対応するため、いろいろな少数政党がレトロウイルスの如く乱立して選挙に臨む。そこで多くの支持を受けた政党が、玉虫色の選挙公約(要するに全方位的政策)で多数の議席を獲得した与党の中に入り込み、政権の方向性を決める。

ポリシーだけの小さな政党と数だけの大きな政党が手を組む、という政党政治。もしもまた連立が誕生するようであれば、こんなふうに「受け止め」てみようかと思ってます。

閉塞しきった現実を「受け止める」こと、それは現時点から最善の一歩を踏み出すために最も必要なことのように思うのです。
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サイエンスZERO(7月10日放送分)を見ました。ヘルペスウイルスが遺伝子操作という手法で人に飼い慣らされ、がん細胞だけを噛み殺していく…品種改良を重ね、生まれてからの教育も重ね、育てられる猟犬のようだな、と思いました。

犬を飼い慣らすテクニックは、長い歴史の中で培われてきました。それが、ウイルスでも、これから繰り広げられていく時代に入ったのだな、と。

ヘルペスウイルスが非常に研究し尽くされているということ、そして抗ウイルス薬があるので非常にコントロールしやすいということは、先日書きました。大人の人は、ほとんどが何らかのヘルペスウイルスを持っている、そういう意味でも非常に身近なウイルスです(犬のように!)。それを使って、人の疲れを測る手法も開発されています

今回、ヘルペスウイルスに対して3つの遺伝子操作を行ったということです。

1つめが、細胞の自滅を阻止する遺伝子の働きを止めること。ウイルスに感染した細胞は自殺して感染の拡大を抑えるようにできているのだそうです。しかし、ウイルスの中に、自殺させないようにする遺伝子が組み込まれており、これが働くことでウイルスは増殖するようになっています。この働きを止めることで、感染した細胞は自殺するようになります。ところが、がん細胞は自殺する機能が無いので、がん細胞だけは自殺しません。改変したヘルペスウイルスは、正常細胞の中では細胞自身の自殺によって増殖が妨げられますが、がん細胞の中では増殖しつづける…。ややこしいですが、よく考えましたね。

2つめがDNAの複製に必要なたんぱく質を作る遺伝子の働きを止めること。このたんぱく質は、ウイルスの増殖のためにも必要なので、この遺伝子が働くことでたんぱく質が作られ、ウイルスは増殖することができます。この遺伝子の働きを止めると、正常細胞ではたんぱく質が不足し、ウイルスは増殖できません。ところが、がん細胞にはこのたんぱく質に似たたんぱく質が多く存在するため、ウイルスは増殖します。

3つめは免疫から逃れる遺伝子の働きを止めること。この遺伝子は、ウイルスのたんぱく質が細胞表面に露出しないようにするもので、これが働くことにより、ウイルスは免疫からその存在を覚られずに潜伏することができます。この働きを止めると、ウイルスに感染した細胞の表面にウイルスのたんぱく質が露出しますから、それが標的となって免疫細胞が攻撃します。

最初の2つは、がん細胞にだけ、改変したヘルペスウイルスが増殖するようにしたものです。ヘルペスウイルスによって、がん細胞の増殖は抑えられます。世界で、この治療法の試験が行われていて、もうすぐ実用化されるそうです。

そして、3つめの手法が東大医学部独自のもののようで、免疫ががん細胞を攻撃しますから、ラットによる実験でですが、これによってほぼ壊滅させることができるとのこと。これはまだ、安全性を確認するという、試験としては最初の段階だそうですが、実用化が楽しみです。

抗がん剤の効果を疑問視する内容は以前書きましたが、まだまだ可能性はあるということですね。
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「何のために勉強するの?」
「世界中の人と理解し合い、仲良くして、平和で幸せな社会を作るためだよ」

「喧嘩ばかりのこの世の中で本当にそんなことができるの?」
「宇宙から見たら地球なんて点に過ぎない。そのひとつの点の中にみんながいるんだから、いつかはできるさ。みんなが同じひとつの点なんだから、できないはずがないだろう?」

「でも、本当に本当?大人のウソでしょ?」
「…」


「できる」という確証のあることしか、してはいけないんだろうか?
「できる」という確証のあることしかしない生き方って、楽しいだろうか?
「できる」という確証のあることって、この世にどれだけあるんだろうか?
「できる」という確証のあることしかしない生き方って、生きていることになるんだろうか?

そんな生き方ばかり目指すから、生きたくなくなるんじゃないだろうか?
自分をも、他人をも、生かしておきたくなくなるんじゃないだろうか?

「生きる」とは、誰かが描いた線をなぞることではない。
「生きる」とは、誰も描かなかった線を描くことである。

到達できる目標に向かって、自分の線を描き、達成感を得る。
それを繰り返して、人は少しずつ力を蓄え、少しずつ目標を遠くに置いていく。

届かない目標でもいいじゃないか?その目標が素敵なものならば。

無限に遠い目標でも、それを目指して走り続ければいい。

「そんなとこまで、行けると思ってるのかい?」と嘲る人もいるかもしれない。
「進んでさえいれば、いつか辿りつくさ。」と平然と答えればいい。

それが、大人のウソ…

娘よ…早く…いや、早くなくていい。
でも、いつの日か、必ず、こんな「大人のウソ」が分かる人になって欲しい。
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