Category: ★仏教
三世諸仏(仏物23)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第六章 迷悟は我にあり」(p299〜334)を読みました。
『般若心経』の「三世諸仏」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p314)》
三世とは、過去・現在・未来をいうなり。仏とは、覚者なり。一切有情、皆覚性を備えたり。迷うが故に衆生といい、悟るを仏というなり。自心の外に仏なし。人々自心即ち仏なれば、これを諸仏というなり。三世というも、遠きことにあらず。前念すでに滅したれば過去、後念未だ生ぜざるは未来、その中間のすでに起こりたる当念は現在なり。過去仏、現在仏、未来仏なり。過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得なれば、ただ一念一仏にして、二心二仏あることなし。不去不来、三世常住なり。
《引用終わり》
仏教では、時間をどうとらえているか、ということですが…。
《以下引用(p324)》
…人は独り生まれ、独り死んで逝く。この余りにも当たり前の事実を、いつでも、どこでも忘れず(もちろん元気盛んに仕事に従事しながらも)、自らの心の襞深く繰り返し刻み込むならば、それはもう立派な瞑想(samma-sati)となろうが、多くの人はまた独り肉体を纏ってこの世(四次元時空)に生まれ来ることを「独死独来」という。
世の中の生死の道につれはなし
たださびしくも独死独来 『一休道歌』
しかし仏教(『般若心経』)は、勝義として、生死も輪廻も無い。つまり私たちは、初めより、生まれもせず、死にもせずということであった。そうすると、種々に顛倒迷妄する人間に、仏教は何を説こうとしたのであろうか。それを的確に詠んだものが先に引用した一休の「ひとり来てひとり帰るも迷いなり 来たらず去らぬ道を教えん」なのだ。人間は独り生まれて独り死ぬというのも迷いなら、生死の此岸から不生不滅の涅槃の彼岸に到るというのも本当は(勝義としては)正しくない。なぜなら、私たちは常に涅槃の床に住し、そこから一歩も離れたことはなく、ただ「無明の眠り」の中で「生死の夢」(今は人間という夢)を見ているがゆえに生死を言い、また涅槃を言うことになるからだ。
これについては、あなたも知っている、弘法大師空海の姪を母にもち、延暦寺の第五代天台座主として、また園城寺(三井寺)を再興し、天台寺門派の祖として、仏教の隆盛に尽力した智証大師円珍(814−891)を引き合いに出すのがいいだろう。
衆生の一念は生死涅槃の源底なり。故に一念三千の法門は顕現し、生死涅槃の二相出生するなり。然りと雖も、心性の本源に於いて全くこれ無し。ただ衆生、迷惑する(迷い惑う)に依りて、生死を説き、涅槃を説き、一念を説き、三千を言う。しかるに、本心を知見すれば、すべて生死涅槃の相を見ず、悉く寂然と無相の妙理あるのみ。生死涅槃の二相は悉く幻化の法なり。
智証『生死本源集』
「衆生の一念」、即ち無明の一念の迷い(心のゆらぎ)に因って、生死と涅槃の二相が生じてきたのであって、心を尽くして「心性の本源」、つまり「本心」を知れば、生死も涅槃も無く、ただ「無相の妙理」(真空の実相・真空妙有)があるのみ。しかし、生死に惑う私たち衆生を本来の場所(無相の妙理)に連れ戻すために、方便として仮に生死・涅槃を言うだけであって、それも「幻化の法」(方便)に過ぎないのだ。
《引用終わり》
仏教は輪廻からの解脱を目指す教えという捉え方もあると思うのですが、そこは初級編のツカミであり、方便なのですね。
《インデックス》
『般若心経』の「三世諸仏」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p314)》
三世とは、過去・現在・未来をいうなり。仏とは、覚者なり。一切有情、皆覚性を備えたり。迷うが故に衆生といい、悟るを仏というなり。自心の外に仏なし。人々自心即ち仏なれば、これを諸仏というなり。三世というも、遠きことにあらず。前念すでに滅したれば過去、後念未だ生ぜざるは未来、その中間のすでに起こりたる当念は現在なり。過去仏、現在仏、未来仏なり。過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得なれば、ただ一念一仏にして、二心二仏あることなし。不去不来、三世常住なり。
《引用終わり》
仏教では、時間をどうとらえているか、ということですが…。
《以下引用(p324)》
…人は独り生まれ、独り死んで逝く。この余りにも当たり前の事実を、いつでも、どこでも忘れず(もちろん元気盛んに仕事に従事しながらも)、自らの心の襞深く繰り返し刻み込むならば、それはもう立派な瞑想(samma-sati)となろうが、多くの人はまた独り肉体を纏ってこの世(四次元時空)に生まれ来ることを「独死独来」という。
世の中の生死の道につれはなし
たださびしくも独死独来 『一休道歌』
しかし仏教(『般若心経』)は、勝義として、生死も輪廻も無い。つまり私たちは、初めより、生まれもせず、死にもせずということであった。そうすると、種々に顛倒迷妄する人間に、仏教は何を説こうとしたのであろうか。それを的確に詠んだものが先に引用した一休の「ひとり来てひとり帰るも迷いなり 来たらず去らぬ道を教えん」なのだ。人間は独り生まれて独り死ぬというのも迷いなら、生死の此岸から不生不滅の涅槃の彼岸に到るというのも本当は(勝義としては)正しくない。なぜなら、私たちは常に涅槃の床に住し、そこから一歩も離れたことはなく、ただ「無明の眠り」の中で「生死の夢」(今は人間という夢)を見ているがゆえに生死を言い、また涅槃を言うことになるからだ。
これについては、あなたも知っている、弘法大師空海の姪を母にもち、延暦寺の第五代天台座主として、また園城寺(三井寺)を再興し、天台寺門派の祖として、仏教の隆盛に尽力した智証大師円珍(814−891)を引き合いに出すのがいいだろう。
衆生の一念は生死涅槃の源底なり。故に一念三千の法門は顕現し、生死涅槃の二相出生するなり。然りと雖も、心性の本源に於いて全くこれ無し。ただ衆生、迷惑する(迷い惑う)に依りて、生死を説き、涅槃を説き、一念を説き、三千を言う。しかるに、本心を知見すれば、すべて生死涅槃の相を見ず、悉く寂然と無相の妙理あるのみ。生死涅槃の二相は悉く幻化の法なり。
智証『生死本源集』
「衆生の一念」、即ち無明の一念の迷い(心のゆらぎ)に因って、生死と涅槃の二相が生じてきたのであって、心を尽くして「心性の本源」、つまり「本心」を知れば、生死も涅槃も無く、ただ「無相の妙理」(真空の実相・真空妙有)があるのみ。しかし、生死に惑う私たち衆生を本来の場所(無相の妙理)に連れ戻すために、方便として仮に生死・涅槃を言うだけであって、それも「幻化の法」(方便)に過ぎないのだ。
《引用終わり》
仏教は輪廻からの解脱を目指す教えという捉え方もあると思うのですが、そこは初級編のツカミであり、方便なのですね。
《インデックス》
無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顛倒無想 究竟涅槃(仏物22)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第六章 迷悟は我にあり」(p299〜334)を読みました。
『般若心経』の「無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顛倒無想 究竟涅槃」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p300)》
というは、真実相の上には、元来生滅なき故に、生死の恐れあることなし。顛倒無想とは、一切の有為の法は、夢の如く、幻の如くにして、実にあることなし。しかるを、凡夫は迷いて、実にありと思えるは、あだなる夢をまことと思えるが如し。これ顛倒無想なり。もし一念空ずる時、一法も得べきなし。これ即ち遠離なり。究竟とは、きわまり尽きたる義なり。万法、皆涅槃を至極とするなり。涅槃とは、不生不滅のところなり。円満清浄の義なり。清浄とは、空の異名なり。
《引用終わり》
解説としては、「仮我の死」と「肉体的な死」は違いますよ!という件を引用してみますと…
《以下引用(p309)》
…私たちは今、生死の二つに隔てられ、生まれることもなければ、死ぬこともない本分の自己(真実の我・本来の面目・金剛の正体)を知らず、世俗の我(五蘊の仮我)を自分と見なす妄執(我執・思惑)ゆえに生死流転しているのであるから、この仮我(妄執)はいつかどこかで終わらなければならない。それではと、仮我を力づくで終わらせ(例えば、自死などによって)、涅槃を得ようとしてはならない。それは鏡に映った自分の姿(「鏡中の像」)を消し去ろうとするようなもので、仮我を終わらせるどころか、かえって「無明の闇」(業縁)を深めることになる。というのも、この身体(仮我)は心が仮に形を結んだものであるから、直接身体に手を掛けるのではなく、つまり苦行をするのでもなく、向かうべきは心であるからだ。
《引用終わり》
以前「死亡したら仏にはならない」という記事を書きましたが、これに対応すると思います。
《以下引用(p312)》
…盤珪は「迷いも涅槃の迷い、悟りも涅槃の悟りなり。迷いて涅槃を出でず、悟りて涅槃に入らず」と言ったが、これは真正の覚者ならではの卓見であろう。すると仏と衆生に優劣・上下の区別はなく、本来無二平等でありながら、違いは「無明生死の夢」から目覚めるかどうか(覚・不覚)であり、しかも目覚めたところが、仏と同じ不生不滅の涅槃の楽界(涅槃の床)であるから、そのためにことさら何かをする、即ち親鸞のいう「自力修繕」(『正像末和讃』)ではないのだ。
《引用終わり》
この後、龍樹の『中論』に触れていきます。「生死即涅槃」を『中論』で初めて知ったときは、私も衝撃を受けました。
《インデックス》
『般若心経』の「無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顛倒無想 究竟涅槃」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p300)》
というは、真実相の上には、元来生滅なき故に、生死の恐れあることなし。顛倒無想とは、一切の有為の法は、夢の如く、幻の如くにして、実にあることなし。しかるを、凡夫は迷いて、実にありと思えるは、あだなる夢をまことと思えるが如し。これ顛倒無想なり。もし一念空ずる時、一法も得べきなし。これ即ち遠離なり。究竟とは、きわまり尽きたる義なり。万法、皆涅槃を至極とするなり。涅槃とは、不生不滅のところなり。円満清浄の義なり。清浄とは、空の異名なり。
《引用終わり》
解説としては、「仮我の死」と「肉体的な死」は違いますよ!という件を引用してみますと…
《以下引用(p309)》
…私たちは今、生死の二つに隔てられ、生まれることもなければ、死ぬこともない本分の自己(真実の我・本来の面目・金剛の正体)を知らず、世俗の我(五蘊の仮我)を自分と見なす妄執(我執・思惑)ゆえに生死流転しているのであるから、この仮我(妄執)はいつかどこかで終わらなければならない。それではと、仮我を力づくで終わらせ(例えば、自死などによって)、涅槃を得ようとしてはならない。それは鏡に映った自分の姿(「鏡中の像」)を消し去ろうとするようなもので、仮我を終わらせるどころか、かえって「無明の闇」(業縁)を深めることになる。というのも、この身体(仮我)は心が仮に形を結んだものであるから、直接身体に手を掛けるのではなく、つまり苦行をするのでもなく、向かうべきは心であるからだ。
《引用終わり》
以前「死亡したら仏にはならない」という記事を書きましたが、これに対応すると思います。
《以下引用(p312)》
…盤珪は「迷いも涅槃の迷い、悟りも涅槃の悟りなり。迷いて涅槃を出でず、悟りて涅槃に入らず」と言ったが、これは真正の覚者ならではの卓見であろう。すると仏と衆生に優劣・上下の区別はなく、本来無二平等でありながら、違いは「無明生死の夢」から目覚めるかどうか(覚・不覚)であり、しかも目覚めたところが、仏と同じ不生不滅の涅槃の楽界(涅槃の床)であるから、そのためにことさら何かをする、即ち親鸞のいう「自力修繕」(『正像末和讃』)ではないのだ。
《引用終わり》
この後、龍樹の『中論』に触れていきます。「生死即涅槃」を『中論』で初めて知ったときは、私も衝撃を受けました。
《インデックス》
依般若波羅蜜多故 心無罣礙(仏物21)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第六章 迷悟は我にあり」(p299〜334)を読みました。
『般若心経』の「依般若波羅蜜多故 心無罣礙」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p300)》
というこころは、菩薩、般若の空智によって修行す。故に、心は虚空界の如くなることを悟りて、一切の業障にさえられず。
《引用終わり》
これに対する解説は以下の通り。
《以下引用(p301)》
いずれにせよ、生死の二つに隔てられ、種々に顛倒迷妄する私たち有情(衆生)が生死を離れ、仏(菩薩)と成るべく定められていることを示したものであるが、菩薩(観自在菩薩)は「般若波羅蜜多に依るが故に」(依般若波羅蜜多故)、小さき心(小心)を尽くして、虚空の如き大心(本心・本性)を悟り、今や「心に罣礙(障り)が無い」(心無罣礙)ことを一休は、「般若の空智によって修行す。故に、心は虚空界の如くなることを悟りて、一切の業障(業縁)にさえられず」としたが、般若の智慧(その智慧もまた、知るもの(人)もいなければ、知られるもの(法)もない空であるから、般若の空智と言い換えている)によって、心は本来空(心空・無心)であると悟れば、人・物すべて(一切の諸法)が皆空となる(「我が心、空なるが故に、諸法もまた空なり」慧海『宛陵録』)。
《引用終わり》
「神秘主義の人間学」の文章と併せてお読み下さい。
「見るもの(人我)と見られるもの(法我)が消え去るところを空という。そして空の体験なくして真実は現われてこない。それは見ているあなたが消えて初めて起こり得ることなのだ。」
《インデックス》
『般若心経』の「依般若波羅蜜多故 心無罣礙」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p300)》
というこころは、菩薩、般若の空智によって修行す。故に、心は虚空界の如くなることを悟りて、一切の業障にさえられず。
《引用終わり》
これに対する解説は以下の通り。
《以下引用(p301)》
いずれにせよ、生死の二つに隔てられ、種々に顛倒迷妄する私たち有情(衆生)が生死を離れ、仏(菩薩)と成るべく定められていることを示したものであるが、菩薩(観自在菩薩)は「般若波羅蜜多に依るが故に」(依般若波羅蜜多故)、小さき心(小心)を尽くして、虚空の如き大心(本心・本性)を悟り、今や「心に罣礙(障り)が無い」(心無罣礙)ことを一休は、「般若の空智によって修行す。故に、心は虚空界の如くなることを悟りて、一切の業障(業縁)にさえられず」としたが、般若の智慧(その智慧もまた、知るもの(人)もいなければ、知られるもの(法)もない空であるから、般若の空智と言い換えている)によって、心は本来空(心空・無心)であると悟れば、人・物すべて(一切の諸法)が皆空となる(「我が心、空なるが故に、諸法もまた空なり」慧海『宛陵録』)。
《引用終わり》
「神秘主義の人間学」の文章と併せてお読み下さい。
「見るもの(人我)と見られるもの(法我)が消え去るところを空という。そして空の体験なくして真実は現われてこない。それは見ているあなたが消えて初めて起こり得ることなのだ。」
《インデックス》
心理学としての仏教
「○○としての仏教」という記事を書いてから、7年も経とうとしています。仏教に含まれる内容の幅の広さについて書いた記事です。
例えば「ぶっちゃけ寺」という番組があります。日本史への興味関心から嫌いじゃない内容ではあるのですが、何か違和感を感じてしまって視聴し続けることができません。もちろん、この番組も「仏教」には違いないのでしょうが、私が「仏教」に求めているものとは違う。
また、「葬式仏教」と揶揄する言葉があります。一般の人が仏教と接するのは死者を弔う時に限られるような現状ですから、仕方のないことかもしれません。これも、私が求めている「仏教」ではありません。
私が「仏教」に向き合うことにした理由、それは般若心経の中の「照見五蘊皆空度一切苦厄」だったような気がします。もっと絞れば「度一切苦厄」。生老病死という苦しみから救われる方法、他者を救う方法を見つけることを仏教は目指している!…と発見したのがきっかけです。
そして、今年に入ってから心理学の本を読むようになりましたら、その中に自分が仏教に求めていたものがあることに気づいたのでした。
ケリー・マクゴニガルさんの三部作(勝手に選定:「Yoga for Pain Relief」「Willpower instinct」「upside of stress」)を読むと、「呼吸法」「瞑想」「欲望のコントロール」「一日一善」等々、順不同で思いつくまま羅列しましたが、仏教の修行法とダブるものが多々あります。
仏教は長い歴史の中で、修行者の能力開発法を見つけ、ノウハウを蓄積していったのでしょう。心理学は科学的な実験によってその手法の数々を見つけ出しています。両者を結び付けていくことで、仏教の修行にもエビデンスを付け加えていくことができるような気がしています。
例えば「ぶっちゃけ寺」という番組があります。日本史への興味関心から嫌いじゃない内容ではあるのですが、何か違和感を感じてしまって視聴し続けることができません。もちろん、この番組も「仏教」には違いないのでしょうが、私が「仏教」に求めているものとは違う。
また、「葬式仏教」と揶揄する言葉があります。一般の人が仏教と接するのは死者を弔う時に限られるような現状ですから、仕方のないことかもしれません。これも、私が求めている「仏教」ではありません。
私が「仏教」に向き合うことにした理由、それは般若心経の中の「照見五蘊皆空度一切苦厄」だったような気がします。もっと絞れば「度一切苦厄」。生老病死という苦しみから救われる方法、他者を救う方法を見つけることを仏教は目指している!…と発見したのがきっかけです。
そして、今年に入ってから心理学の本を読むようになりましたら、その中に自分が仏教に求めていたものがあることに気づいたのでした。
ケリー・マクゴニガルさんの三部作(勝手に選定:「Yoga for Pain Relief」「Willpower instinct」「upside of stress」)を読むと、「呼吸法」「瞑想」「欲望のコントロール」「一日一善」等々、順不同で思いつくまま羅列しましたが、仏教の修行法とダブるものが多々あります。
仏教は長い歴史の中で、修行者の能力開発法を見つけ、ノウハウを蓄積していったのでしょう。心理学は科学的な実験によってその手法の数々を見つけ出しています。両者を結び付けていくことで、仏教の修行にもエビデンスを付け加えていくことができるような気がしています。
菩提薩埵(仏物20)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第六章 迷悟は我にあり」(p299〜334)を読みました。
『般若心経』の「菩提薩埵」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p300)》
これは天竺のことばなり。悟れる有情という義なり。即ち観自在菩薩なり。
《引用終わり》
《以下引用(p301)》
「菩提薩埵」はインドの古語bodhisattva の音訳で略して菩薩という。それを一休は悟れる有情と解釈し、観自在菩薩を指すとした。ただ有情と衆生は同義(新訳と旧訳の違い)であるから、悟れる有情とは先に彼が菩薩を悟れる衆生というに同じである。また、白隠は菩薩を「大心の衆生」(『毒語心経』)としたが、「大心」とは一休が提唱の初めに、心を大心(Mind)と小心(mind)の二相に分け、前者は一切衆生の我々の上に、元来備わりたる本性とし、大というこころを知らんとならば、先ず我が小さき心を尽くすべしと言ったことを思い出していただければ、一休と白隠が同じ心の理解であったことが分かる。
《引用終わり》
「菩薩」という言葉が多用されているので、「菩提薩埵」の略だと初めて知った時はかなり驚きました。
《インデックス》
『般若心経』の「菩提薩埵」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p300)》
これは天竺のことばなり。悟れる有情という義なり。即ち観自在菩薩なり。
《引用終わり》
《以下引用(p301)》
「菩提薩埵」はインドの古語bodhisattva の音訳で略して菩薩という。それを一休は悟れる有情と解釈し、観自在菩薩を指すとした。ただ有情と衆生は同義(新訳と旧訳の違い)であるから、悟れる有情とは先に彼が菩薩を悟れる衆生というに同じである。また、白隠は菩薩を「大心の衆生」(『毒語心経』)としたが、「大心」とは一休が提唱の初めに、心を大心(Mind)と小心(mind)の二相に分け、前者は一切衆生の我々の上に、元来備わりたる本性とし、大というこころを知らんとならば、先ず我が小さき心を尽くすべしと言ったことを思い出していただければ、一休と白隠が同じ心の理解であったことが分かる。
《引用終わり》
「菩薩」という言葉が多用されているので、「菩提薩埵」の略だと初めて知った時はかなり驚きました。
《インデックス》
無智亦無得 以無所得故(仏物19)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第五章 初転法輪」(p281〜298)を読みました。
『般若心経』の「無智亦無得 以無所得故」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p282)》
というこころは、般若の智を以て、五蘊・十二処・十八界・十二因縁・四諦等を観ずるに、畢竟、皆空なり。その智も空なれば、一法の得べきなし。これを人空・法空というなり。
《引用終わり》
八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)による瞑想の説明を見つけたので、メモっておきます。
《以下引用(p284)》
…正見とは四法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦)ということになり、この正しい見解と方向を見据えてこそ、意・口・身の三業が正され、正思、正語、正業となる。一般的には身・口・意の三業というが、行為の初めに意志(意)があり、それが言葉(口)となって表れ、ついには体(身)で以て実際の行動に移るから、意・口・身の順になっている。この三業が正されれば自ずと生活全体も整い(正命)、さらに一念発起して仏道(般若波羅蜜多)に専ら努めるならば(正精進)、八正道の鍵概念である正念を通して正定に入り、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到るであろうというのが八正道のおおまかなプロセスである。
《引用終わり》
正念について、さらに詳しく…
《以下引用(p285)》
そこで正念と正定ということであるが、正念(samma-sati)のsammaとは正しいという意味であり、satiは念、憶念、想起などの言葉が充てられるが、憶念(例えば、すべては無常・苦・空・無我と深く思い定めて忘れない)、あるいは、想起(例えば、自心即ち仏なることを忘れず、常に思い起こす)というニュアンスに近い。また、英語ではmindfulness、awarenessなどと訳されるようであるが、この世の一切の法(人・物・事)は、夢の如く、幻の如く、実際には存在しない空・無我であり、生死すら夢と深く心に留めておくというのが正念(sati)の基本であるが、さらに弟子のアジタが「煩悩の流れ(欲多く、悩み・不安が絶えないこと)をせき止めるものは何ですか」と尋ねたとき釈尊は次のように答えたという。
アジタよ、世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは正念(sati)であると私は説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。 『スッタニパータ』
《引用終わり》
正定については…
《以下引用(p285)》
心は感覚(五官)を通して、厳密に言えば、第六意識(心)は五根・五識を通して、外から入ってくるさまざまな情報(刺激)に反応して妄りに動くが、それを心のさざ波として、是非・善悪・好悪などを妄りに分別するのではなく、ただ観ていれば(心を観るという意味で天台では「観心」というが、心を心で以てただ観察することが瞑想の基本である。提唱に沿って言うと、自心即ち仏であるから、心を観察することは、自心の仏を想起することでもある)、風が止むと波は自然に収まり、元の静かな海に戻るように、妄道する心(煩悩の流れ)も次第に収まり、やがて元より生ぜず滅せず、それゆえかつて生死の流転を受けたことのない本心・本性(一心の本源)へと入って行く。それを正定(samma-samadhi)、即ち三昧に入るというが、そのとき智慧に目覚め(〈定慧一体〉の瞑想を説いた慧能を思い出していただきたい)、煩悩の流れは塞がれる。もちろん、ここでいう智慧は世間の智慧ではなく、私たちを生死の苦界から涅槃の楽界に渡す出世無漏の智、すなわち般若の智慧(真智)である。したがって、八正道は正念、正定から正智に到って完成し、かくて私たちは「この世(現世)とかの世(来世)」を共に超えた「不死の境地」に住まうことになる。
想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨てる 『スッタニパータ』
《引用終わり》
《インデックス》
『般若心経』の「無智亦無得 以無所得故」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p282)》
というこころは、般若の智を以て、五蘊・十二処・十八界・十二因縁・四諦等を観ずるに、畢竟、皆空なり。その智も空なれば、一法の得べきなし。これを人空・法空というなり。
《引用終わり》
八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)による瞑想の説明を見つけたので、メモっておきます。
《以下引用(p284)》
…正見とは四法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦)ということになり、この正しい見解と方向を見据えてこそ、意・口・身の三業が正され、正思、正語、正業となる。一般的には身・口・意の三業というが、行為の初めに意志(意)があり、それが言葉(口)となって表れ、ついには体(身)で以て実際の行動に移るから、意・口・身の順になっている。この三業が正されれば自ずと生活全体も整い(正命)、さらに一念発起して仏道(般若波羅蜜多)に専ら努めるならば(正精進)、八正道の鍵概念である正念を通して正定に入り、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到るであろうというのが八正道のおおまかなプロセスである。
《引用終わり》
正念について、さらに詳しく…
《以下引用(p285)》
そこで正念と正定ということであるが、正念(samma-sati)のsammaとは正しいという意味であり、satiは念、憶念、想起などの言葉が充てられるが、憶念(例えば、すべては無常・苦・空・無我と深く思い定めて忘れない)、あるいは、想起(例えば、自心即ち仏なることを忘れず、常に思い起こす)というニュアンスに近い。また、英語ではmindfulness、awarenessなどと訳されるようであるが、この世の一切の法(人・物・事)は、夢の如く、幻の如く、実際には存在しない空・無我であり、生死すら夢と深く心に留めておくというのが正念(sati)の基本であるが、さらに弟子のアジタが「煩悩の流れ(欲多く、悩み・不安が絶えないこと)をせき止めるものは何ですか」と尋ねたとき釈尊は次のように答えたという。
アジタよ、世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは正念(sati)であると私は説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。 『スッタニパータ』
《引用終わり》
正定については…
《以下引用(p285)》
心は感覚(五官)を通して、厳密に言えば、第六意識(心)は五根・五識を通して、外から入ってくるさまざまな情報(刺激)に反応して妄りに動くが、それを心のさざ波として、是非・善悪・好悪などを妄りに分別するのではなく、ただ観ていれば(心を観るという意味で天台では「観心」というが、心を心で以てただ観察することが瞑想の基本である。提唱に沿って言うと、自心即ち仏であるから、心を観察することは、自心の仏を想起することでもある)、風が止むと波は自然に収まり、元の静かな海に戻るように、妄道する心(煩悩の流れ)も次第に収まり、やがて元より生ぜず滅せず、それゆえかつて生死の流転を受けたことのない本心・本性(一心の本源)へと入って行く。それを正定(samma-samadhi)、即ち三昧に入るというが、そのとき智慧に目覚め(〈定慧一体〉の瞑想を説いた慧能を思い出していただきたい)、煩悩の流れは塞がれる。もちろん、ここでいう智慧は世間の智慧ではなく、私たちを生死の苦界から涅槃の楽界に渡す出世無漏の智、すなわち般若の智慧(真智)である。したがって、八正道は正念、正定から正智に到って完成し、かくて私たちは「この世(現世)とかの世(来世)」を共に超えた「不死の境地」に住まうことになる。
想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨てる 『スッタニパータ』
《引用終わり》
《インデックス》
空海がやりたかったこと(空ヨ06)
「空海とヨガ密教」(Gakken) 第6章「真言宗発展の真実」(p175〜200)、第7章「奥義ヨガ密教」(p201〜225)を読みました。
もうちょっとヨガのことについて書いてあるかなと思ったのですが、それを見つけることなく最後まで行ってしまいました。
ヨーガには、アーサナ、マントラ、呼吸などが含まれます。この片鱗は、しっかり仏教に見つけることができます。今日、全く別物として分類される両者ですが、本質は同じように思いました。
ヨーガの効用は科学的(心理学)に解析が進んできています。仏教の修行が目指すものは、前頭前野の活性化によってもたらされるもののようです。
空海は晩年、朝廷から命を受けて、いろんなことをやらされていると書かれていました。空海にしても、釈尊にしても、「宗教」という今日的な分類に納まることを喜んでいるか、最近疑問に思っています。彼らが本当にやりたかったことはこういうことなのか。
今日のような仏教の在りようは望まなかっただろうけれども、かと言って、これを見て嘆くとか怒るとか、そういう次元の人でもないだろうなあ…と。
そんなことを考えながら、この本を読んでおりました。
もうちょっとヨガのことについて書いてあるかなと思ったのですが、それを見つけることなく最後まで行ってしまいました。
ヨーガには、アーサナ、マントラ、呼吸などが含まれます。この片鱗は、しっかり仏教に見つけることができます。今日、全く別物として分類される両者ですが、本質は同じように思いました。
ヨーガの効用は科学的(心理学)に解析が進んできています。仏教の修行が目指すものは、前頭前野の活性化によってもたらされるもののようです。
空海は晩年、朝廷から命を受けて、いろんなことをやらされていると書かれていました。空海にしても、釈尊にしても、「宗教」という今日的な分類に納まることを喜んでいるか、最近疑問に思っています。彼らが本当にやりたかったことはこういうことなのか。
今日のような仏教の在りようは望まなかっただろうけれども、かと言って、これを見て嘆くとか怒るとか、そういう次元の人でもないだろうなあ…と。
そんなことを考えながら、この本を読んでおりました。
無苦集滅道(仏物18)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第五章 初転法輪」(p281〜298)を読みました。
『般若心経』の「無苦集滅道」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p282)》
これは四諦を空ずるなり。四諦とは、即ち苦諦・集諦・滅諦・道諦なり。先ず苦諦とは、過去の業障によって、今この身を受けて、種々の苦あるを、苦諦というなり。集諦とは、集はあつむると読めり。これは過去に諸々の悪業をの因を集め持ちたるをいうなり。滅(諦)とは、一切の煩悩妄想を滅し尽くすをいうなり。道(諦)とは、煩悩を滅して、不生不滅の涅槃の楽界に到る修行のところを、道というなり。これを取り合わせていうときは、先ず今この界へ生まれ、色々の苦を受くる、いかなる因縁ぞというに、過去にて悪行・煩悩を集め持ちたる故に、その因を以て、今この苦を受くる身をまねき得たるなり。さるほどに、この苦を厭い、出離を求むるには、先ず悪業・煩悩を滅する道を修行して、さて、不生不滅、寂滅為楽のところに到る。苦・集の体、元来自空なる間、滅すべき苦・集もなく、修行すべき道もなきが故なり。
《引用終わり》
「諦は真理を意味する」ということですが、釈尊による纏めがありますので、メモっておきます。
《以下引用(p284)》
苦しみを知り(苦諦)、また苦しみの生起するもとを知り(集諦)、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り(滅諦)、また苦しみの消滅に達する道(道諦)をも知った人々、彼らは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。彼らは輪廻を終滅させることができる。彼らは生と老いとを受けることがない。 『スッタニパータ』
《引用終わり》
さらに、苦しみのもととなる無明については次のようにまとめているそうです。
《以下引用(p285)》
,匹鵑紛譴靴澆生ずるのも、すべて無明に縁って起こるのである。
¬橘世残りなく消滅するならば、苦しみは生ずることがない。
このように二種を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。すなわち現世における悟りか、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。 『スッタニパータ』
《引用終わり》
現世における悟りとは、即身成仏ということでしょうか?
《以下引用(p286)》
二つの果報のうち「現世における悟り」を成し遂げたものを無余涅槃とするならば(これを親鸞は無上涅槃と言ったが、「余」とは身体に伴う煩悩のことであり、「無余」とはそれが無いこと)、いまだ身体を纏っているために、それに伴う煩悩を完全に拭い去ってはいないが、今生のこの身が最後(最後身)となり、再び「この迷いの生存に戻らない」ことから、それを有余涅槃という。親鸞はそれを「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」(『教行信証』)と言ったが、後者も身体を脱ぎ捨てる死の時、無余涅槃(無上涅槃)に入るであろうという含みがある。
《引用終わり》
密教と浄土教について、ちょっとだけ考えた記事を以前書いています。これと併せ読みながら、やはり親鸞の思想について学ぶ必要があると感じました。
《インデックス》
『般若心経』の「無苦集滅道」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p282)》
これは四諦を空ずるなり。四諦とは、即ち苦諦・集諦・滅諦・道諦なり。先ず苦諦とは、過去の業障によって、今この身を受けて、種々の苦あるを、苦諦というなり。集諦とは、集はあつむると読めり。これは過去に諸々の悪業をの因を集め持ちたるをいうなり。滅(諦)とは、一切の煩悩妄想を滅し尽くすをいうなり。道(諦)とは、煩悩を滅して、不生不滅の涅槃の楽界に到る修行のところを、道というなり。これを取り合わせていうときは、先ず今この界へ生まれ、色々の苦を受くる、いかなる因縁ぞというに、過去にて悪行・煩悩を集め持ちたる故に、その因を以て、今この苦を受くる身をまねき得たるなり。さるほどに、この苦を厭い、出離を求むるには、先ず悪業・煩悩を滅する道を修行して、さて、不生不滅、寂滅為楽のところに到る。苦・集の体、元来自空なる間、滅すべき苦・集もなく、修行すべき道もなきが故なり。
《引用終わり》
「諦は真理を意味する」ということですが、釈尊による纏めがありますので、メモっておきます。
《以下引用(p284)》
苦しみを知り(苦諦)、また苦しみの生起するもとを知り(集諦)、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り(滅諦)、また苦しみの消滅に達する道(道諦)をも知った人々、彼らは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。彼らは輪廻を終滅させることができる。彼らは生と老いとを受けることがない。 『スッタニパータ』
《引用終わり》
さらに、苦しみのもととなる無明については次のようにまとめているそうです。
《以下引用(p285)》
,匹鵑紛譴靴澆生ずるのも、すべて無明に縁って起こるのである。
¬橘世残りなく消滅するならば、苦しみは生ずることがない。
このように二種を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。すなわち現世における悟りか、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。 『スッタニパータ』
《引用終わり》
現世における悟りとは、即身成仏ということでしょうか?
《以下引用(p286)》
二つの果報のうち「現世における悟り」を成し遂げたものを無余涅槃とするならば(これを親鸞は無上涅槃と言ったが、「余」とは身体に伴う煩悩のことであり、「無余」とはそれが無いこと)、いまだ身体を纏っているために、それに伴う煩悩を完全に拭い去ってはいないが、今生のこの身が最後(最後身)となり、再び「この迷いの生存に戻らない」ことから、それを有余涅槃という。親鸞はそれを「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」(『教行信証』)と言ったが、後者も身体を脱ぎ捨てる死の時、無余涅槃(無上涅槃)に入るであろうという含みがある。
《引用終わり》
密教と浄土教について、ちょっとだけ考えた記事を以前書いています。これと併せ読みながら、やはり親鸞の思想について学ぶ必要があると感じました。
《インデックス》
マントラ・ヨーガ(空ヨ05)
「空海とヨガ密教」(Gakken) 第5章「初期真言教団の実態」(p154〜174)を読みました。
ここは、私的に「そうなのだろうな〜」という内容があったので、メモっておきます。
〔以下引用(p161)〕
この真言密教を現在の真言宗の僧侶の修行だと思ってはいけない。今の僧侶の修行は、家としてのお寺を継ぐためのもので、厳しくすると後継者がいなくなってしまうから、基準は低く設定され、行法は易しいものに限定されている。こう言うと、今でも厳しいと反論する人もいるだろうが、昔ほど厳しくないし、振るい落としがない。ある期間修行すれば、それでよろしいと言われる。これならば最澄からも不満が出なかっただろうし、最澄が唐で順暁から学んだ真言密教はその程度の水準であった。要するに、形式的なものであった。最澄はそれの延長だと思っている。つまりは知識(とはいっても頭脳だけ)の集積を期待している。この時代の僧侶は、膨大な経典を暗記しているので、経典の記憶力だけを問題にすれば他人にひけはとらない。だから自信があった。しかし、本物の真言密教の修得には二つの問題点があった。「語学力」(外国語の力)と「体操技術」である。
〔引用おわり〕
これは「真言密教」という言葉にそのまんま、空海のこだわりが表われています。
「真言」とは「サンスクリット語で」ということになります。「密教」とは「筆授できないこと」であり「体得しなければいけないこと」。
「真言密教はインド語でいうと「マントラ・ヨーガ」である」(p162)とあり、ヨーガのポーズを決めてマントラを唱えるのであれば、今日のヨーガと形の上では全く同じになります。
司馬遼太郎の『空海の風景』では、最澄の攻撃的な部分は余り語られていなかったような気がしますが、この本では描かれています。
〔以下引用(p161)〕
最澄はこの年(813年)の九月、『依憑天台宗』を書いた。すべての仏典の上に天台の教説があるというもので、法華一乗を強調したものであった。その中で「耳を尊びて、目を賤しむるは漢人の嘆くところ」と書いた。これが空海の真言密教に対するあてつけになった。「文章に書いてないことを口で言って、これが密教の極意だなどというのは、中国大陸で軽蔑されていることだ」という意味である。三年後に書いた序文では「新来の真言家は筆授の相承を泯ず」と書いた。つまり、「新米の真言家は文章に残して伝えることを軽蔑する」と言っている。
〔引用おわり〕
少なくとも、長安の人々が空海を軽蔑するというのは有り得ないですね。
ここは、私的に「そうなのだろうな〜」という内容があったので、メモっておきます。
〔以下引用(p161)〕
この真言密教を現在の真言宗の僧侶の修行だと思ってはいけない。今の僧侶の修行は、家としてのお寺を継ぐためのもので、厳しくすると後継者がいなくなってしまうから、基準は低く設定され、行法は易しいものに限定されている。こう言うと、今でも厳しいと反論する人もいるだろうが、昔ほど厳しくないし、振るい落としがない。ある期間修行すれば、それでよろしいと言われる。これならば最澄からも不満が出なかっただろうし、最澄が唐で順暁から学んだ真言密教はその程度の水準であった。要するに、形式的なものであった。最澄はそれの延長だと思っている。つまりは知識(とはいっても頭脳だけ)の集積を期待している。この時代の僧侶は、膨大な経典を暗記しているので、経典の記憶力だけを問題にすれば他人にひけはとらない。だから自信があった。しかし、本物の真言密教の修得には二つの問題点があった。「語学力」(外国語の力)と「体操技術」である。
〔引用おわり〕
これは「真言密教」という言葉にそのまんま、空海のこだわりが表われています。
「真言」とは「サンスクリット語で」ということになります。「密教」とは「筆授できないこと」であり「体得しなければいけないこと」。
「真言密教はインド語でいうと「マントラ・ヨーガ」である」(p162)とあり、ヨーガのポーズを決めてマントラを唱えるのであれば、今日のヨーガと形の上では全く同じになります。
司馬遼太郎の『空海の風景』では、最澄の攻撃的な部分は余り語られていなかったような気がしますが、この本では描かれています。
〔以下引用(p161)〕
最澄はこの年(813年)の九月、『依憑天台宗』を書いた。すべての仏典の上に天台の教説があるというもので、法華一乗を強調したものであった。その中で「耳を尊びて、目を賤しむるは漢人の嘆くところ」と書いた。これが空海の真言密教に対するあてつけになった。「文章に書いてないことを口で言って、これが密教の極意だなどというのは、中国大陸で軽蔑されていることだ」という意味である。三年後に書いた序文では「新来の真言家は筆授の相承を泯ず」と書いた。つまり、「新米の真言家は文章に残して伝えることを軽蔑する」と言っている。
〔引用おわり〕
少なくとも、長安の人々が空海を軽蔑するというのは有り得ないですね。