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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第六章 迷悟は我にあり」(p299〜334)を読みました。

『般若心経』の「三世諸仏」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p314)》
三世とは、過去・現在・未来をいうなり。仏とは、覚者なり。一切有情、皆覚性を備えたり。迷うが故に衆生といい、悟るを仏というなり。自心の外に仏なし。人々自心即ち仏なれば、これを諸仏というなり。三世というも、遠きことにあらず。前念すでに滅したれば過去、後念未だ生ぜざるは未来、その中間のすでに起こりたる当念は現在なり。過去仏、現在仏、未来仏なり。過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得なれば、ただ一念一仏にして、二心二仏あることなし。不去不来、三世常住なり。
《引用終わり》

仏教では、時間をどうとらえているか、ということですが…。

《以下引用(p324)》
…人は独り生まれ、独り死んで逝く。この余りにも当たり前の事実を、いつでも、どこでも忘れず(もちろん元気盛んに仕事に従事しながらも)、自らの心の襞深く繰り返し刻み込むならば、それはもう立派な瞑想(samma-sati)となろうが、多くの人はまた独り肉体を纏ってこの世(四次元時空)に生まれ来ることを「独死独来」という。

世の中の生死の道につれはなし
             たださびしくも独死独来      『一休道歌』

しかし仏教(『般若心経』)は、勝義として、生死も輪廻も無い。つまり私たちは、初めより、生まれもせず、死にもせずということであった。そうすると、種々に顛倒迷妄する人間に、仏教は何を説こうとしたのであろうか。それを的確に詠んだものが先に引用した一休の「ひとり来てひとり帰るも迷いなり 来たらず去らぬ道を教えん」なのだ。人間は独り生まれて独り死ぬというのも迷いなら、生死の此岸から不生不滅の涅槃の彼岸に到るというのも本当は(勝義としては)正しくない。なぜなら、私たちは常に涅槃の床に住し、そこから一歩も離れたことはなく、ただ「無明の眠り」の中で「生死の夢」(今は人間という夢)を見ているがゆえに生死を言い、また涅槃を言うことになるからだ。

これについては、あなたも知っている、弘法大師空海の姪を母にもち、延暦寺の第五代天台座主として、また園城寺(三井寺)を再興し、天台寺門派の祖として、仏教の隆盛に尽力した智証大師円珍(814−891)を引き合いに出すのがいいだろう。

衆生の一念は生死涅槃の源底なり。故に一念三千の法門は顕現し、生死涅槃の二相出生するなり。然りと雖も、心性の本源に於いて全くこれ無し。ただ衆生、迷惑する(迷い惑う)に依りて、生死を説き、涅槃を説き、一念を説き、三千を言う。しかるに、本心を知見すれば、すべて生死涅槃の相を見ず、悉く寂然と無相の妙理あるのみ。生死涅槃の二相は悉く幻化の法なり。
          智証『生死本源集』

「衆生の一念」、即ち無明の一念の迷い(心のゆらぎ)に因って、生死と涅槃の二相が生じてきたのであって、心を尽くして「心性の本源」、つまり「本心」を知れば、生死も涅槃も無く、ただ「無相の妙理」(真空の実相・真空妙有)があるのみ。しかし、生死に惑う私たち衆生を本来の場所(無相の妙理)に連れ戻すために、方便として仮に生死・涅槃を言うだけであって、それも「幻化の法」(方便)に過ぎないのだ。
《引用終わり》

仏教は輪廻からの解脱を目指す教えという捉え方もあると思うのですが、そこは初級編のツカミであり、方便なのですね。

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