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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第五章 初転法輪」(p281〜298)を読みました。

『般若心経』の「無智亦無得 以無所得故」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p282)》
というこころは、般若の智を以て、五蘊・十二処・十八界・十二因縁・四諦等を観ずるに、畢竟、皆空なり。その智も空なれば、一法の得べきなし。これを人空・法空というなり。
《引用終わり》

八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)による瞑想の説明を見つけたので、メモっておきます。

《以下引用(p284)》
…正見とは四法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦)ということになり、この正しい見解と方向を見据えてこそ、意・口・身の三業が正され、正思、正語、正業となる。一般的には身・口・意の三業というが、行為の初めに意志(意)があり、それが言葉(口)となって表れ、ついには体(身)で以て実際の行動に移るから、意・口・身の順になっている。この三業が正されれば自ずと生活全体も整い(正命)、さらに一念発起して仏道(般若波羅蜜多)に専ら努めるならば(正精進)、八正道の鍵概念である正念を通して正定に入り、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到るであろうというのが八正道のおおまかなプロセスである。
《引用終わり》

正念について、さらに詳しく…

《以下引用(p285)》
そこで正念と正定ということであるが、正念(samma-sati)のsammaとは正しいという意味であり、satiは念、憶念、想起などの言葉が充てられるが、憶念(例えば、すべては無常・苦・空・無我と深く思い定めて忘れない)、あるいは、想起(例えば、自心即ち仏なることを忘れず、常に思い起こす)というニュアンスに近い。また、英語ではmindfulnessawarenessなどと訳されるようであるが、この世の一切の法(人・物・事)は、夢の如く、幻の如く、実際には存在しない空・無我であり、生死すら夢と深く心に留めておくというのが正念(sati)の基本であるが、さらに弟子のアジタが「煩悩の流れ(欲多く、悩み・不安が絶えないこと)をせき止めるものは何ですか」と尋ねたとき釈尊は次のように答えたという。

アジタよ、世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは正念(sati)であると私は説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。   『スッタニパータ』
《引用終わり》

正定については…

《以下引用(p285)》
心は感覚(五官)を通して、厳密に言えば、第六意識(心)は五根・五識を通して、外から入ってくるさまざまな情報(刺激)に反応して妄りに動くが、それを心のさざ波として、是非・善悪・好悪などを妄りに分別するのではなく、ただ観ていれば(心を観るという意味で天台では「観心」というが、心を心で以てただ観察することが瞑想の基本である。提唱に沿って言うと、自心即ち仏であるから、心を観察することは、自心の仏を想起することでもある)、風が止むと波は自然に収まり、元の静かな海に戻るように、妄道する心(煩悩の流れ)も次第に収まり、やがて元より生ぜず滅せず、それゆえかつて生死の流転を受けたことのない本心・本性(一心の本源)へと入って行く。それを正定(samma-samadhi)、即ち三昧に入るというが、そのとき智慧に目覚め(〈定慧一体〉の瞑想を説いた慧能を思い出していただきたい)、煩悩の流れは塞がれる。もちろん、ここでいう智慧は世間の智慧ではなく、私たちを生死の苦界から涅槃の楽界に渡す出世無漏の智、すなわち般若の智慧(真智)である。したがって、八正道は正念、正定から正智に到って完成し、かくて私たちは「この世(現世)とかの世(来世)」を共に超えた「不死の境地」に住まうことになる。

想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨てる   『スッタニパータ』
《引用終わり》

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