上の畑焼陶芸センターの次は更に山に向かい銀山温泉へ。温泉街の奥に白銀の滝がありますが、その更に奥に銀鉱があります。
紅花は仙台藩で生産された物も笹谷峠を越えて山形に運ばれ、最上川→海路を通って消費地(江戸?京都?大阪?)に運ばれたようです。ところが銀は銀山からすぐに山を越えて仙台藩に運ばれ、おそらく江戸に運ばれたようです。
銀の採掘は金よりも難しかったそうで、世界的に金よりも価値があった時代が長かったようです。技術革新で比較的容易になり、銀の採掘が世界的に増えたのが日本で言うと戦国時代後期。延沢銀山もこの流れのひとつだったようです。江戸初期は最上領となっていましたが、最上家が改易になって鳥居氏の支配となり、幕府領となったようです。このときは、かなりおいしかったようです。
産出量の漸減(鉱道への浸水などが原因?)が理由だと思われますが、寛政年間に長瀞領となりました。米津氏が他の殖産興業を模索しなければいけなかった(これは前回の上の畑焼の話)ほどですから、銀山経営は全然おいしくなくなっていたのですね。
散策の途中で何度か立ち止まりながら解説していただき、銀山の歴史へとドンドン引き込まれていきました。しかし、暑い!銀鉱の中が涼しくて「ここで暮らしたい」という娘たちでした。

↑急激な温度差で長女の目がイっちゃってます(2015/8/2 10:57)
さて、延沢銀山は1456年に初めて発見されたと言われています。金沢の富豪、儀賀市郎左衛門の像が立っています。苗字は「ギガ」。何て現代的な名前でしょう。フツーの1000倍がキロ、キロの1000倍がメガ、ギガはメガの1000倍です!

↑伝説の超人?今にも光速を超えるスピードで飛んでいきそう(2015/8/2 11:03)
でも、儀賀さんが発見したというのは創作だろうと言われています(笑)。
紅花は仙台藩で生産された物も笹谷峠を越えて山形に運ばれ、最上川→海路を通って消費地(江戸?京都?大阪?)に運ばれたようです。ところが銀は銀山からすぐに山を越えて仙台藩に運ばれ、おそらく江戸に運ばれたようです。
銀の採掘は金よりも難しかったそうで、世界的に金よりも価値があった時代が長かったようです。技術革新で比較的容易になり、銀の採掘が世界的に増えたのが日本で言うと戦国時代後期。延沢銀山もこの流れのひとつだったようです。江戸初期は最上領となっていましたが、最上家が改易になって鳥居氏の支配となり、幕府領となったようです。このときは、かなりおいしかったようです。
産出量の漸減(鉱道への浸水などが原因?)が理由だと思われますが、寛政年間に長瀞領となりました。米津氏が他の殖産興業を模索しなければいけなかった(これは前回の上の畑焼の話)ほどですから、銀山経営は全然おいしくなくなっていたのですね。
散策の途中で何度か立ち止まりながら解説していただき、銀山の歴史へとドンドン引き込まれていきました。しかし、暑い!銀鉱の中が涼しくて「ここで暮らしたい」という娘たちでした。
↑急激な温度差で長女の目がイっちゃってます(2015/8/2 10:57)
さて、延沢銀山は1456年に初めて発見されたと言われています。金沢の富豪、儀賀市郎左衛門の像が立っています。苗字は「ギガ」。何て現代的な名前でしょう。フツーの1000倍がキロ、キロの1000倍がメガ、ギガはメガの1000倍です!
↑伝説の超人?今にも光速を超えるスピードで飛んでいきそう(2015/8/2 11:03)
でも、儀賀さんが発見したというのは創作だろうと言われています(笑)。
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