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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第三章 仏教の意識論」(p154〜236)の「1.六塵の境界」(p155〜185)を読みました。

『般若心経』の「無眼界乃至無意識界」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p155)》
これは十八界を空ずるなり。前の六根・六塵を合せて十二処という。この十二処に六識を加えて十八界というなり。六識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識なり。眼に青黄赤白黒の色、大小長短のかたちを分別するを、眼識というなり。耳に種々の音声を聞き分くるを、耳識というなり。鼻によき匂い、悪しき匂いを嗅ぎ分くるを、鼻識という。舌に五味を甞め知るを、舌識というなり。身に暑さ寒さを触れて覚え、痛さ痒さを分かち知るを、身識という。意に一切の是非・善悪を種々に分別するを、意識というなり。十八界というこころは、物の境かぎりあるを、界というなり。眼は声を聞かず、耳は色を見ず、その司るところの格別なる故に、眼界・耳界というなり。
《引用終わり》

十八界については前にまとめたのがありました

ところで…

《以下引用(p172)》
…身識について言っておきたいことがある。

一休は最晩年に盲目の森女と出遇い、78歳からほぼ十年間、逢瀬を楽しみ、この間「吸美人婬水」(美人の婬水を吸う)、「美人陰有水仙花香」(美人の陰に水仙花の香り有り)など、彼女との親密な関係を窺わせる漢詩をいくつか残したとされ、彼の人となりを俎上に載せる場合、格好の資料となっているようであるが、確かに読み物としては面白いかもしれないが、それで終わらせては詮も無い。…

一休が坐禅(〈定慧一体〉の瞑想)に専心するあまり顔色は憔悴し、それを見かねた弟子たちがお伺いをたてたところ、彼は次のように認めたという。

「本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ」
「我のみか釈迦も達磨も阿羅漢も この君ゆえに身をやつしけれ」

世の人恋という事は性肉的愛恋のみと知るも、霊の愛恋こそ霊界の偉人を産出する原因となる事を知らず。
   山崎弁栄『光明の生活』

愛(恋)にも二つがあり、いわゆる男女のそれ、もう一つは「霊界の偉人」たちが身を焦がした「君」、即ち本来の面目(真実の我)である。一休は自らも含め、かつて世に現れた釈迦、達磨、阿羅漢など、多くの聖賢たちは、この「本来の天真仏」(衆生は本来、先天的に仏であるが、今は客塵煩悩ゆえに生死に迷う迷道の衆生になっている)を知って身をやつしたのではないか。否、彼はその美の映しを盲目の森女の中にも見ていたのではないか。ところが世の人は「人恋」のみに終始し、そうであってはならないことを、弁栄は一休を例に挙げているのだ(私は性肉的愛恋を無下に貶めているのではない、むしろ私たちは「人恋」を通して「霊の愛恋」へと進むと言っておきたい)。「この君」を親鸞は阿弥陀仏(阿弥陀仏は我が心の異名であり、その心は「明々たる本心」を指していた)、空海は本より私たちの心の中央(心王)に坐す大日如来(遮那)とした。

遮那(しゃな)は中央に坐(いま)す
遮那は阿誰(たれ)の号(な)ぞ
本是(もとこれ)我が心王なり
《引用終わり》

一休さんにもスキャンダルがあったのですね。ただ、あこがれの「君」は、釈尊と呼ぶも良し、阿弥陀と呼ぶも良し、大日如来と呼ぶも良し…我が心王であるわけです。

最後に『ルーミー語録』からの引用をメモっておきます。

《以下引用(p174)》
神の御書(みふみ)の写しなる汝よ
王者の美を映す鏡なる汝よ
この世なるすべてを内に蔵した汝よ
自らの内面にこそ探し求めよ
これぞ我がものといいたいものがあるならば。
《引用終わり》

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