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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第二章 色即是空・空即是色」(p99〜151)の「2.真実と虚妄」(p137〜151)を読みました。

『般若心経』の「是故空中無色無受想行識」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p137)》
このこころは、右の如く、真空、相なしの上には、生滅の道理もなく、汚れもせず、清まりもせず、増すということもなし。また減るということもなきものなれば、この故に、色受想行識の五蘊も皆無ぞ。無というは、空というこころなり。空とは、有無を離れたるをいうなり。
《引用終わり》

再び、ジェームズ・ジーンズの文章を見てみましょう。

《以下引用(p146)》
現在、科学の目前にある唯一の仕事は、こうした影を研究し、分類し、できるだけ単純な方法で説明することである。そして私たちがこの新しい驚くべき知識の洪水のなかに見出していることは、そう言った影を何よりも明確に、完全に、そして自然に説明する方法は、数学的な方法であるということだ。   ジェームズ・ジーンズ『神秘な宇宙』

…科学が自然(四次元時空)から導き出したものは数学的写像(mathematic pictures)以上のものではないがゆえに彼は、「科学がいまだ究極的リアリティーと接触していないという意味では、それをフィクションと呼ぶこともできる」と言ったが、同時代を生きた科学者であり、哲学者でもあったアーサー・エディントン(1882-1944)は言う。

物質科学の手法を通してなされる外的世界の探求は、私たちを具体的な実在に導くものではなく、ただ象徴からなる「影の世界」に導くのみであって、その背景を見通すにはなじまない。その背景にさらに何物かが伏在するに違いないと感じつつ、私たちは人間意識に於ける私たちの出発点に戻ってくる。そこにこそ私たちは象徴の世界に制約されるものとは異なる衝動の啓示(真実であれ虚妄であれ)とを発見する。   エディントン『科学と見えざる世界』
《引用終わり》

ノンフィクションこそ、最大のフィクション?

《以下引用(p148)》
言うことが憚られるが、新たな発見や学問の発展にどれだけ寄与したとしても、すべては「影の世界」に手を染めたに過ぎないだろう。たとえ再生医療に道を開く最先端技術であっても、それは幻の如く影の如き身体(『維摩経』)の再生に過ぎず、波羅蜜多の意味する、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到る真の再生(復活)に繋がるものではない。真理に真諦(絶対)と俗諦(相対)の二つがあり、前者は世間、事法界、有漏路、生死の世界、後者は出世間、理法界、無漏路、涅槃の世界がそれぞれ対応し、私たちが辿るべきは前者から後者であり、勝義(第一義)としての一真実(真空の実相)である。ではそこに辿りついた仏・菩薩(悟れる衆生)にこの世界(事法界)はどのように映っているのだろう。それは空海の次の言葉に尽きている。

菩薩は一切の法に生を見ず死を見ず、彼此を見ず。尽虚空界ないし十方合して一相とす。   空海『一切経開題』

仏教者は、あるがままに見るとよく言うが、あるがままに「十方合して一相」と見ることができたら、それはもう悟れる衆生(仏・菩薩)なのだ。…私たち衆生の目には、生死をはじめすべての二元性は実際に有るかのように見えているが、勝義としては、即ち悟れる衆生の眼には生も死も、善も悪も、是も非も、美も醜も、愛も憎も重々無尽の一真実(一如)をなしている。
《引用終わり》

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