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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第二章 色即是空・空即是色」(p99〜151)の「1.華厳の四法界」(p101〜136)を読みました。

『般若心経』の「舎利子」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p100)》
これは、仏の八万人の大衆の中にて、智慧第一の弟子なり。さるによって、大衆たちのために惣の名代に、仏に向かい、舎利子、法を問いたてまつり、答をせらるるなり。よって仏、色心不二の御法を説きたまわんとて、その名を呼び出して、告げたまうなり。
《引用終わり》

舎利子は智慧第一の弟子だったけれども、それは文字般若であって、心般若ではなかったのではないか?と著者は書いています。

《以下引用(p101)》
こんな不埒なことを思うには理由がある。それは同じ十大弟子の魔訶迦葉に「拈華微笑(ねんげみしょう)」という逸話があり、ある日の法坐において、釈尊が一言も発せられることなく、優曇華を拈(ひね)って弟子たちに示されたが、だれもその意趣が理解できない。しばし沈黙の後、魔訶迦葉ひとりが破顔微笑するのを見て、釈尊は自ら悟った真理(法)を彼に託したというものである(「世尊、優曇華を拈(ねん)じて瞬目す。時に魔訶迦葉、破顔微笑せり。世尊言く、我に正法眼蔵、涅槃妙心有り、魔訶迦葉に付属す」道元『正法眼蔵』「優曇華」)。道元はこの故事を「以心伝心」と捉え、過去七仏(諸仏)は言葉に拠らず、「拈華微笑」によって悟り、同じことであるが、仏と成り、仏法(真理)は脈々と今日まで伝えられてきたという(「七仏諸仏はおなじく拈華来なり」同上)。
《引用終わり》

確かに、聞かなくとも以心伝心で分かってしまう人は、説明の聞き手としては不適任ですね(笑)。

道元(1200-1253)は曹洞宗、一休(1394-1481)は臨済宗ですが、『正法眼蔵』は読んでいるでしょうね。

《以下引用(p102)》
しかしなぜ私が、あったかどうかも判らない故事にこだわるのかというと、宗教体験(覚醒体験)というものが(もちろんこれがすべてではないが)、どこからともなく湧き起こる破顔微笑を伴う歓喜の体験であると思うからだ。
《引用終わり》

ここは、私もよくわかりません、まだ(笑)。

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