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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第一章 菩薩―悟れる衆生」(p51〜98)の「1.有漏と無漏」(p53〜78)を読みました。

『般若心経』の「観自在菩薩」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p52)》
これ即ちこの般若を修行する菩薩なり。般若の智慧を以て、自心の本より清浄にして、煩悩の汚れを受けず、不生不滅、不去不来、空なることを観念して、一切のものにさわらず、自由自在なり。たとえば、万物の虚空の中にあれども、虚空をさえざるが如し。菩薩とは、悟れる衆生というこころなり。心空を悟って、空に止まらざるを、菩薩というなり。さるほどに、心なければ、人々皆観自在なり。外を求むべからず。
《引用終わり》

菩薩という言葉の由来については本書でも説明がありますが、このブログでも書いたことがあります
ところで、観自在菩薩とは誰なのか?

《以下引用(p53)》
題号の説明(概説)を終え、本論に入る前に、仏教経典は釈尊(仏)ご自身が説かれた教えであることを示すレトリックとして「如是我聞。一時、仏……」(是の如く我れ聞けり。一時、仏……)から始まるのが一般的であるが、『般若心経』にそれはなく、「観自在菩薩」から始まっている。しかしこれは玄奘訳『般若心経』の場合であり、法月訳の『普遍智蔵般若波羅蜜多心経』を見ると、例によって「如是我聞」から始まり、一時、仏(釈尊)は王舎城の霊鷲山中で多くの弟子(聴衆)たちに囲まれ、まさに説法が始まろうとしていたその時、観自在菩薩が座より立ち、私に「般若波羅蜜多」を説かせて下さいと釈尊に願い出たところ、それを認められた観自在菩薩は三昧(瞑想)の功力によって、身心を構成している色受想行識の五蘊は皆空なりと照見し、舎利子(舎利弗)をはじめ多くの人々に説かれたのが『般若心経』ということになっている。しかし一休の提唱では、釈尊が説かれたことになっているため、今後、多少の齟齬が見られることを初めにお断りしておきたい。
《引用終わり》

観自在菩薩=釈尊という解釈は若干無理があるような気がしていました。ただ、そこは重要なポイントではないですね。

《以下引用(p63)》
このように、生死に迷う私たち衆生が教え(法)に導かれ、此岸から彼岸へ悟りの道(般若波羅蜜多)を辿ることを決意し(菩提心を起こし)、自心は元より清浄・空なるものと悟って、涅槃の岸に辿り着いたものを菩薩(悟れる衆生)というが、それにつづいて心空を悟って、空に止まらざるを、菩薩というなりとあるから、まず自心は本来空(心空)と悟り終えて、心だけではなく、すべてのもの(一切の諸法)が皆空にして、元より生じもせず、滅しもせずという道理を悟って、涅槃に到ることになるが、そこで終わるのではなく、なお修行を重ねて究竟覚(究極の悟り)に到るまでの間を一休は、厳密な意味で菩薩と考えているようだ。

この背景にあるのは『華厳経』(「十地品」)に菩薩が仏の境界を目指して歩むプロセスに十の階位(十地)があり、歓喜地(入初地)から始まり最後の法雲地(究竟覚)に到って、修行は円満成就するというものだ。そうすると、初めの悟り(心空の悟り)を唯識学派の五位(五道)で言えば見道位(入初地)、華厳の四法界で言えば事理無礙法界、廓庵の『十牛図』で言えば第八図の「人牛惧忘」、悟元老人で言えば「元関の一竅」(有無相入)、親鸞で言えば、現生に不退の位に住し、菩薩(弥勒菩薩)と同じ位に定まるところ、ということになろうか。
《引用終わり》

菩薩に関しては、別の説明も以前取り上げています

《以下引用(p66)》
悟り(それはまず心空の悟り)とは何かを、一休の提唱に沿って、最もコンパクトに纏めれば、「心を尽くして、心を知る」(小心を尽くして、大心を知る)となろうが、さらに言うと、有漏の心(有心)を尽くして、無漏の心(無心)を知ることであり、いずれも前者は人それぞれ違いがあるものの、後者は私たちのだれもが本来備えている本心・本性である。それゆえ一休はさるほどに、心なければ、人々皆観自在なり。外を求むべからずと言ったのだ。心を尽くして、心が本来空である(自心はもとより空にして、生ぜず滅せず、畢竟、空なり)と知ったものが悟れる衆生、即ち観自在の菩薩であるということだ。
《引用終わり》

「心なければ」の心は、小心、有心の方なのですね。

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