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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p286)》
心の本源は真理そのもの(真如)であるから、そこに辿り着きさえすれば、われわれは何をした訳でもないけれども大いなる完成(ゾクチェン)」を実現したことになる。捨て去るべきものなど何もない。見るものすべてが真理を顕している。言い換えれば、すべてのものが仏性を得ている。どこを向いてもそこに神の顔があるのだ(コーラン)。「法身の微細の身は虚空ないし草木まで一切処に遍ぜざるところなし。この虚空、この草木すなわち法身なり。肉眼に於いては粗色の草木を見るといえども、仏眼においては微細の色なり。この故に本体を動ぜずして仏と称するに妨碍なし」(空海『秘蔵記』)。

人間だけではない、草木を含む全宇宙がもとより真理を顕している。ただ肉眼には見えてこないのだ。仏眼(アウグスチヌスは「魂の目」と呼び、ルーミーは「心の目」と言った)でもって見るならば、存在するすべてのものが神なるものを顕している。神(仏)とはこの全体を言うのだ。

当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり (白隠『坐禅和讃』)

仏教は無神論だといわれてきた。果たしてそうであろうか。彼らは同じ心の本源に究極の真理を見ていたのではないか。ここにはいわゆる一神教的な神の概念は当てはまらない。そして神の概念をめぐって宗教に争いが絶えなかったことは周知の事実である。神の概念の数だけ宗教があるのだから避けられなかったというのが本当のところであろう。われわれはもう一度〈神〉を観念的、伝統的教義のリゴリズムを離れ、捉え直す時代に生きているようである。
《引用終わり》

この本は比較神秘学的な趣があって、実存主義とかキリスト教とかイスラームとか道教とか仏教とか…様々な神秘主義を俯瞰しています。それぞれの教えを重ね合わせていったときに共通項がはっきりと見えてきます。故に、これこそが宗教家の口から伝えられるべきことと思うのですが、少なくとも巷でもてはやされる有名な宗教家がこのようなことを説いているのを見たことがない…。

何とも勿体ないことです。

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