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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「序章 『般若心経』概説」(p1〜50)の「5.文字般若」(p44〜49)を読みました。

『般若心経』の「経」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p3)》
経とは、ことばに表わし、文字に書き写したるを、心経というにあらず。この経は、即ち自心を指していうなり。文字に書きたるは文字般若なり。自心を離れて、外に文字にて書きたる経を求めなば、これ即ち愚痴の心なり。般若の智慧に背くなり。この愚痴の心を起こさず、本来空なることを悟れば、念々皆般若経なり。ただ口に説くばかりにて、心般若ならねば、隣の宝を数えるが如し。仏、この経を説きたまうことは、般若本覚の智慧を以て、一切の衆生をして、妄心・妄念を除き正さしめ、生死大海のこの岸を別れて、不生不滅の涅槃の彼岸に到らしめ、衆生をして、本心・本性を見せしめんがためなり。この故に、般若波羅蜜多心経と名づくるなり。
《引用終わり》

真如を言葉で表しきれるのかどうか、と問われれば答えはNoでしょうこれを離言真如と言いますが、これを頭に置いた上で、他に術もないので私たちは言葉で説明を試みます。これが依言真如これを井筒先生も説明を試みておられました

これは、因分可説・果分不可説とも言われます。密教は果分可説を主張し、言葉や仏像による表現を認めていますが、言葉や仏像をきっかけにして自心を見つめることが不可欠となっています。

微妙に表現は違いますが、同じことを言っているようです。

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