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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p283)》
これと関連して想起されるのは『理趣経』であるが、密教タントラの偏見と曲解の坩堝に思える問題に性愛(妙適清浄の句)がある。それに依れば、性愛に限らず、あらゆる現象はわれわれ人間が恣意的に付与した価値とは何のかかわりもなく、それ自体は清浄なものとして存在している(「一切の法は自性清浄なり」)。

例えば、若さというものに価値をおくと、老いを恐れ、いつまでも若くあろうとするだろう。しかしそれは現象に囚われて自己の本性を(自性)を見てとれないことから生じてくる妄執なのだ。本来のあなた(仏)は若くもなければ、老いるということもない。肉体はやがて老いてゆくが、あなたの本性は始めから若いとか老いるという区別の彼方にあるのだ。従って、厭い捨てるべきものも、また殊更しがみつくべきものもない。この中間に道があることを仏教はウペクシャー(upeksa)と言うが、あなたが新たに得るものもなければ、失うものも本当は何もないということだ。

性愛についても同じで、娥眉に惑って、六道・四生の愛輪をめぐる幻化のわれわれが、妄りに耽溺するばかりでは、それは煩悩以外の何でもない。だからといって抑圧し、妄りに菩提を得ようとするのでもない。耽溺と抑圧はいずれも幻の男女に眩著する(*)われわれの間違った対応の仕方であり、真実(自性)は両極の彼方にある。

自性を悟れば性愛は菩提となり、自性に迷えば性愛は煩悩となる。そして自性を悟ることと如実に自心を知ることは空海においては同じことなのだ。

(*)空海『秘蔵宝鑰』(「第六他縁大乗心」)
《引用終わり》

これに関しては、司馬遼太郎の文章も秀逸です。

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