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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「序章 『般若心経』概説」(p1〜50)の「3.波羅蜜多」(p24〜41)を読みました。

『般若心経』の「波羅蜜多」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p2)》
波羅蜜多とは、彼岸に到るという意なり。彼岸とは、かの岸と読めり。凡夫は迷える故に、生死の苦界を渡ることを知らず、生死流転するを此岸というなり。此岸とは、この岸と読めり。仏・菩薩は、般若の智慧によって、一切の諸法は皆空にして、元より生じもせず、滅しもせずという道理を悟って、般若の船に乗りて、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到るを、彼岸というなり。即ち涅槃は、生ぜず滅せずという義なり。ここに到るを極楽というなり。およそ人間の種々無量の苦を受くることは、生死の二つによってなり。生を願うては楽を好み、死を厭いては苦を受くる。楽しみを求めてもあたわざれば、楽しみも苦しみとなる。さるほどに、般若の智慧を以て、自心は元より空にして、生ぜず滅せず、畢竟、空なりと悟れば、生死を厭うべきこともなく、苦もなく、楽もなし。これを真の極楽というなり。ここに到るを、彼岸に到るというなり。到ると言えば、田舎より京へ上るようなことにあらず。一念生ぜざれば、その立処即ち西方極楽なり。あるいは、自心の外に極楽を求めなば、いよいよ遠く、十万億土を隔てて、終に到ることあらわず。自心即ち仏なることを悟れば、阿弥陀を願うに及ばず。自心の外に浄土なし。かくいうとも、また求むべからず。自惑を以て自心を求むる道理なきによってなり。たとえば、我が目にて我が目を見ざるが如し。たとえば、宝を手に持ちながら、失えりと思うは、迷うが故なり。自心元来仏なるを、外に尋ね、あるいは、自心の上において求むるは、失わざる宝を失なえりと思うが如し。ただ尋ねず、求めず、捨てず、取らざれば、自ずから仏の心に叶うなり。
《引用終わり》

一休さん、なかなか説明うまいなと思いながら書写しました。この節を一言で言えば、波羅蜜多はこちらの岸からあちらの岸に渡るようなことだと例えてはいるけれどもどこか別な場所に行くことではないよ、ということです。「田舎より京へ上るようなことにあらず」というのは笑う処だと思います。なかなか面白い。

つい先日、浄土教に関する疑問を書きましたが、それに対する回答のような内容が書いてありました。

《以下引用(p31)》
次に一休が仏と浄土(仏土)をどう考えていたかに進みましょう。彼岸とは生滅(生死)を越えた不生不滅(不生不死)の「涅槃の岸」という意味でしたが、明らかに彼は、浄土教を信奉する人々を意識して、「涅槃は、生ぜず滅せずという義なり。ここに到るを極楽」としましたが、聖道・浄土の二門について言えば、大心(本心・仏心)に重点をおけば聖道門、小心(妄心・人心)に重点をおけば浄土門ということになるでしょう。しかし、聖道門であれ、浄土門であれ、私たちは先ず我が小さき心を尽くし、般若の智慧で以て心は元より不生不滅、畢竟、空なりと悟れば、そこは願わずとも彼岸(浄土・極楽)となる。一休が「真の極楽」を「苦もなく、楽もなし」と言い切ったところに、彼(仏教)が目指す悟りの境地(涅槃の境地)が垣間見えてきます。つまり、ただ苦を厭い、楽を願う幸せは真の幸福(至福)には繋がらないということです。
《引用終わり》

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