ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p280)》
だからこの地上に肉体を得て存在していることには限りない意味があるのだ。というよりは、その意味を知るためにわれわれは生まれている。つまり内なる真理の身体(法身)を知るまで生々死々は続くということだ。それ故、どんな理由があれ、短絡的に命を終りにしてはならないし、だれをも傷つけてはならない。即身にのみ成仏の可能性が与えられているからだ。
「法身何くにか在る。遠からずして即ち身なり(即身)」とは、仏身はわれわれの身体を離れてはないが、さりとて同じだとも言えない、不一不異の関係にあることを意味している。「仏身すなわちこれ衆生身、衆生身すなわちこれ仏身なり。不同にして同なり、不異にして異なり」(空海『即身成仏義』)。
《引用終わり》

「死んで仏になる」と、日本人は当たり前のように言います。浄土教の影響でしょう。しかし…

「仏になる」とは「悟りを開く」という意味のはずです。だとしたら、生きている段階で悟っていない人が、ただ絶命しただけで仏になれるはずがない…こんな単純な、当たり前な論理にどうしてみんな気付かないのか、いつも不思議に思います。

空海が「即身成仏」を提唱した真意は、「生きたままでも成仏できますよ」という意味ではなくて、「死亡してからは成仏できませんよ」ということなんじゃないか?

そもそも、宗教は生きている人間の救済を目指すべきものであり、生きている人間を修行に誘うものであるべきです。「死ねば救われる」という宗教に何の意味があるのか、今の自分には全くわかりません。

《以下引用(p280)》
このように仏身と衆生身の不一不異を説く密教が肉体を貶めたりするはずがない。かといって、単に容認しているのでもない。肉体の内側に真理の身体があることを知らず、生々死々するばかりで、今もって肉体の養いがすべてになっているところに問題があるとしたまでだ。密教は人間の高貴な可能性とそれへの絶対の信頼を説いてきた。ところがわれわれ人間は同じ生死の円環を巡るばかりで、一度としてその可能性を顧みたことがない。その結果、本来仏(神)であるにもかかわらず衆生にあまんじ、終には生の不条理を嘆くとは何という体たらく。実は、あなたを貶め、欺いてきたのは他ならぬあなた自身なのだ。

心すなわち仏なり
心はなれて仏なし
           (『ヘーヴァジュラ・タントラ』)
《引用終わり》

司馬遼太郎は「日本思想史上、密教的なものをもっともきらい、純粋に非密教的な場をつくりあげた親鸞」と書いていましたが、密教と浄土教が正反対であることが今やっと分かりました。

この本で紹介されている神秘主義は一貫して「大死一番」の考え方であり、「捨此往彼」の浄土教は完全に矛盾しています。

《インデックス》