「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。
前回「仏と衆生は平等」ということでしたが、次のような言葉も紹介されています。
《以下引用(p279)》
「衆生の身中の本来自性の理は仏と等しくして差別なし」(空海『秘蔵記』)と空海は言うが、人間は自性に迷うがゆえに生死の苦海に身を淪める。それでも覚者の眼には仏と衆生は平等と映っているのだから、それほど大きな違いがあるとは思えない。毛一筋ほどの違いであろうが、そのギャップを埋めるために覚者は身を削る努力を重ねてきたのだ。しかし私の努力が成仏を可能にすると考えてはならない。むしろ成仏を妨げているのは他でもない私なのだ。そして、この私と仏は並び立つことはできない。
《引用終わり》
この「私」を空海は「五蘊の仮我」と呼びました。
《以下引用(p279)》
しかし、成仏という言葉は誤解を招く恐れがある。というのも、文字通りに理解すれば、何らかの方法によって、これから仏に成るというような印象を与えるからで、実際は、そうではない。人間は本来仏なのだ。ただ、仮我あるいは煩悩でもって覆うが故に、身中の仏を顕出することができないだけなのだ。
衆生本来仏なり 纏うに煩悩を以てす
それしも除かば 衆生すなわち是れ仏
(『ヘーヴァジュラ・タントラ』)
《引用終わり》
「客塵煩悩」とか言いますね。
《以下引用(p280)》
即身成仏などと聞くと眉をひそめ、疑いのまなざしで見るけれども、生死即涅槃、煩悩即菩提という大乗仏教の基本理念を、方法論的、実践的に捉えなおしたものであり、われわれは成道への手掛かりとして身心があり、それに即して一歩を踏み出すしかないのだ。それを即身(即心というも同じ)に成仏するというが、われわれは如夢如幻の身体の内側に真理の身体としての仏身(法身)をすでに持っているということだ。「法身何(いず)くにか在る。遠からずして即ち身なり……法身と衆生の本性とは同じくこの本来寂静の理を得たり」(空海『性霊集』巻第八、『即身成仏義』)。
《引用終わり》
《インデックス》
前回「仏と衆生は平等」ということでしたが、次のような言葉も紹介されています。
《以下引用(p279)》
「衆生の身中の本来自性の理は仏と等しくして差別なし」(空海『秘蔵記』)と空海は言うが、人間は自性に迷うがゆえに生死の苦海に身を淪める。それでも覚者の眼には仏と衆生は平等と映っているのだから、それほど大きな違いがあるとは思えない。毛一筋ほどの違いであろうが、そのギャップを埋めるために覚者は身を削る努力を重ねてきたのだ。しかし私の努力が成仏を可能にすると考えてはならない。むしろ成仏を妨げているのは他でもない私なのだ。そして、この私と仏は並び立つことはできない。
《引用終わり》
この「私」を空海は「五蘊の仮我」と呼びました。
《以下引用(p279)》
しかし、成仏という言葉は誤解を招く恐れがある。というのも、文字通りに理解すれば、何らかの方法によって、これから仏に成るというような印象を与えるからで、実際は、そうではない。人間は本来仏なのだ。ただ、仮我あるいは煩悩でもって覆うが故に、身中の仏を顕出することができないだけなのだ。
衆生本来仏なり 纏うに煩悩を以てす
それしも除かば 衆生すなわち是れ仏
(『ヘーヴァジュラ・タントラ』)
《引用終わり》
「客塵煩悩」とか言いますね。
《以下引用(p280)》
即身成仏などと聞くと眉をひそめ、疑いのまなざしで見るけれども、生死即涅槃、煩悩即菩提という大乗仏教の基本理念を、方法論的、実践的に捉えなおしたものであり、われわれは成道への手掛かりとして身心があり、それに即して一歩を踏み出すしかないのだ。それを即身(即心というも同じ)に成仏するというが、われわれは如夢如幻の身体の内側に真理の身体としての仏身(法身)をすでに持っているということだ。「法身何(いず)くにか在る。遠からずして即ち身なり……法身と衆生の本性とは同じくこの本来寂静の理を得たり」(空海『性霊集』巻第八、『即身成仏義』)。
《引用終わり》
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