「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。
《以下引用(p277)》
ここで空海における解脱の問題を取り上げるのがいいだろう。「仏と衆生と同じ解脱の床に住す。此もなく彼もなく無二平等なり」(空海『吽字義』)と彼は言うが、仏と衆生が平等と知っているのは「慧眼」をもって観るものにそう映っているのであって、われわれがそうと知っているわけではない。それどころか解脱の床に臥しながら生死の夢を見ているのがわれわれ人間なのだ。
それはともかく、空海は『成唯識論』から「自心を観じて生死を解脱する」を引用している。古来、解脱の方法としていろいろ考えられてきたが、いずれも基本は自らの心を観察して、心源を覚る、いわば即心の道を辿るというものだ。この道から逸脱したとき宗教は最も危険な誇大妄想の狂気となる。
《引用終わり》
これが、幾度となく大きな悲劇を生んできました。
《以下引用(p278)》
即心の道が解脱へと繋がるプロセスを明らかにするためには、やはり『大乗起信論』の心(生滅心)と心性(心真如)の二つの概念を導入するのが分かりいいだろう。心(妄心)と心性(真心)の関係は波と大海に譬えられる。波は大海の上に様々な形をとって現われては消えるが、その源である大海は常に変わらず存在する。心とは心性を覆う波のようなものであり、一方、心性はどんなに心が騒ごうとも本来不生の心源である。「本不生はすなわち心の実際なり……本不生際といふは、心は虚空の如くにして不生不滅なり」(空海『秘蔵記』)。
《引用終わり》
これは、とても良い譬えだと思います。
《以下引用(p278)》
波のように生滅を繰り返す心ゆえに人間は生死に輪廻しているのだ。先に転生しているのは仮我であると言ったが、より厳密にいうと、仮我を構成している生滅心(妄心)であり、その意を汲んで輪廻の心とも言われる。「妄心流転するをすなわち衆生染汚の身となづけ、開発照悟するをすなわち諸仏の清浄法身と名づく」(空海『秘密三昧耶仏戒儀』)。しかし、始まりがあるものには終るということがある。この心(妄心)もそうなのだ。つまり心を観察して、去々として原初に入れば、心は自然に消える。心が消えれば仮我も消え、あなたは無我の大我(清浄法身)となって甦る。「心を安んじて内に住し流れを廻するを解脱と説く」(無著『大乗荘厳経論』述求品)。
《引用終わり》
《インデックス》
《以下引用(p277)》
ここで空海における解脱の問題を取り上げるのがいいだろう。「仏と衆生と同じ解脱の床に住す。此もなく彼もなく無二平等なり」(空海『吽字義』)と彼は言うが、仏と衆生が平等と知っているのは「慧眼」をもって観るものにそう映っているのであって、われわれがそうと知っているわけではない。それどころか解脱の床に臥しながら生死の夢を見ているのがわれわれ人間なのだ。
それはともかく、空海は『成唯識論』から「自心を観じて生死を解脱する」を引用している。古来、解脱の方法としていろいろ考えられてきたが、いずれも基本は自らの心を観察して、心源を覚る、いわば即心の道を辿るというものだ。この道から逸脱したとき宗教は最も危険な誇大妄想の狂気となる。
《引用終わり》
これが、幾度となく大きな悲劇を生んできました。
《以下引用(p278)》
即心の道が解脱へと繋がるプロセスを明らかにするためには、やはり『大乗起信論』の心(生滅心)と心性(心真如)の二つの概念を導入するのが分かりいいだろう。心(妄心)と心性(真心)の関係は波と大海に譬えられる。波は大海の上に様々な形をとって現われては消えるが、その源である大海は常に変わらず存在する。心とは心性を覆う波のようなものであり、一方、心性はどんなに心が騒ごうとも本来不生の心源である。「本不生はすなわち心の実際なり……本不生際といふは、心は虚空の如くにして不生不滅なり」(空海『秘蔵記』)。
《引用終わり》
これは、とても良い譬えだと思います。
《以下引用(p278)》
波のように生滅を繰り返す心ゆえに人間は生死に輪廻しているのだ。先に転生しているのは仮我であると言ったが、より厳密にいうと、仮我を構成している生滅心(妄心)であり、その意を汲んで輪廻の心とも言われる。「妄心流転するをすなわち衆生染汚の身となづけ、開発照悟するをすなわち諸仏の清浄法身と名づく」(空海『秘密三昧耶仏戒儀』)。しかし、始まりがあるものには終るということがある。この心(妄心)もそうなのだ。つまり心を観察して、去々として原初に入れば、心は自然に消える。心が消えれば仮我も消え、あなたは無我の大我(清浄法身)となって甦る。「心を安んじて内に住し流れを廻するを解脱と説く」(無著『大乗荘厳経論』述求品)。
《引用終わり》
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