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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p275)》
生まれてこの方、死がわれわれ人間の変わらぬパートナーであることを誰知らぬものはない。この果敢なき存在故に、人は幾度も悲しみの涙を流してきたのだ。これからもそうであるだろう。この点に関しては空海も同じだ。亡き弟子の智泉を偲び、「悲しい哉、悲しい哉。悲の中の悲なり。覚の朝には夢虎無く、悟の日には幻象無しと云ふと雖も、然れども猶夢夜の別、不覚の涙に忍びず」(空海『性霊集』巻第八)と一文を認めてもいる。

彼(彼女)は逝ってしまった。死者はもう何も応えてはくれない。遺体にとりすがり人は慟哭する。死はいずれの場合も、人間が経験する中で、最もリアリティをもって迫ってくる。とても「夢夜の別」などとは言えない。しかし、この違いが生と死に関する根本的な理解の相違から生じてくることにあなたは気づいているだろうか。
《引用終わり》

智泉は、空海の甥(空海の姉の子)で、十大弟子のひとり。十大弟子の中には、あの泰範もいるようです。

《以下引用(p276)》
それにしても、どうして空海は「夢夜の別」などと言うのだろう。これが彼の悟りの体験と切り離せないことは引用からも容易に理解できる。つまり、悟り(真智の覚)の体験を通して、これまで現実と思われていたものが非現実と化し、すべては如夢如幻と映る。死も例外ではない。そして、死が幻想ならば生も幻想なのだ。

私はこれまで悟り(覚醒の体験)を、われわれ人間にもっと近づけようとしてきた。そしてその体験は確かに人間が経験する最も貴重なものであるが、人間の浅薄な知識や驕りを根底から覆す文字通り希有な体験であることを確認しておかねばならない。何と言っても、生も死も幻想であるというのだから。…

「菩薩は一切の法に生を見ず死を見ず、彼此を見ず。尽虚空海ないし十方合して一相とす」(空海『一切経開題』)。

だからといって別離の悲しみがないというのではない。「悲が中の悲なり」と空海も言う。また、今まさに命果てようとする孤愁の人を看取りつつ、「いきしにのさかいはなれてすむみにもさらぬわかれのあるぞかなしき」と詠んだ女性もいた。生もなければ死もない、すべては本不生と知ってはいるが、やはりこの若い尼僧にとっても、今生の別離は忍びがたく哀しいのだ。しかし、死と対峙して死そのものの質がわれわれと全く違うのだ。
《引用終わり》

「若い尼僧」とは、良寛の愛弟子、貞心尼のようです。「いきしにの…」は、死を目前にした良寛に捧げたものとか。

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