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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p273)》
一心(心源)の上に様々な心が立ち現れてくると、その心にとってのみ意味を持つ世界がいくつも現れてくる(「心と縁と合すれば、すなわち三種の世間、三千の相、みな心より起こる」空海『十住心』「第八一道無為心」)。これをわれわれ人間は世界そのものを見ているのではなく、見るものの心によって世界は様々に見えてくると言えば、少しは分かりいいかも知れない。
《引用終わり》

幻影に翻弄される喩えとして、「月華の比喩」が引用されています。

《以下引用(p274)》
その比喩としてしばしば夢が引き合いに出される。確かに夢は心が投影したものであるが、さて、それを現実にまで敷衍して理解しようとしても容易に頷けないであろう。同じことは「識の所縁は唯だ識の所現なり」(解深密経)にも言える。これは瞑想の状態の中で現れてくる幻影について言われたものであるから同じ難点がある。ただ、夢がもつ普遍的な事実はどんな夢も覚めれば消えてないということである。
《引用終わり》

これは唯識と関係がありそうなので、リンクを張っておきます。

《以下引用(p274)》
この事実をふまえ、何故、夢が比喩として用いられてきたかをもう少し考えてみよう。それには『十住心論』から「無明の法性に法(のっと)りて一切の法を生ずというべし。眠法の心に法りてすなわち一切の夢事あるが如し」を取り上げるのがいいだろう。眠りにつくと、脈絡のない夢が妄りに現れるように、眠りこけた不覚の心(無明の心)からあらゆる幻想(一切の法)がまるで鏡に映し出されるように次々と現れてくる。それを実在するものと考えている限り、真実は決して見えてこない。むしろ幻想はいつか消えなければならないのだが、それは心の鏡が消え、もう心ではなくなる、心の本源に辿り着いたときなのだ。「一切の万法はみな心より生ず、心もし生ぜずんばなんぞ万法あらん」(空海『一切経開題』)。不覚の心から夢の如き事象が連綿と現れてくるが、その心が消えるとあなたは目覚め、これまで現実と思われたものが非現実となって、今や全く新しい現実を目の当りにしている。月影ではなく月そのものを見ているのだ。

夢から覚めれば夢が消えるように、いわゆる現実(大夢)から目覚めるとき(大覚)、現実は消え、たちどころに真実は瞭々と顕れるというのが宗教的覚醒(悟り)の体験なのだ。しかも、それは人間が本来有している美(徳)が顕れたに過ぎない。「法爾の荘厳、豁然として円かに現はれ、本有の万徳、森羅として頓に証せん」(空海『性霊集』巻第七)。

「目覚の状態は夢の延長である」シャンカラが言ったように、目覚めの状態から更に目覚めることができたならば、共同幻想は続いていくだろうが、あなたにおいてその夢は消える。「有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す」(『十牛図』)。以上のような理由から「この世は夢の如し」と言われてきたのだ。
《引用終わり》

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