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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p272)》
われわれは歴史上、覚者はひとりであり、後世の人間が悟ることなどあり得ないと言ってきた。本当にそうであろうか。彼以外にも覚者は存在したのではないか。しかし、彼らの多くが、かつて悟りの内実と善良な人々が求める幸福の間にある余りにも大きな隔たり故に、一瞬、沈黙に入ろうとしたように、実際黙してしまったというのが本当のところではなかろうか。…
《引用終わり》

中村元氏の「龍樹」の一節を読んで、目からウロコというか、スッキリしたというか、批判・怒号・嘲笑を承知で言えば、悟りとはどんなものかが分かった気がしました。複雑怪奇な内容ではないので、覚者はひとりしか登場しえないというのは何とも不可解でした。ですから、可藤さんのこの指摘も、私としてはなるほどです。

そうであれば、覚者とは常識人からは嘲られるような人物になってしまい、「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る」ということになるわけです。いたとしても落語には登場するかもしれませんが、歴史に名を残すようなことは無いでしょう。

「善良な人々」が求める幸福とは世俗の世界のことであり、家族の幸せを祈るとか、夢が叶うことを祈るとか言えばきれいに聞こえるけれども、広い視点から考えた時、それは決して特別なことでも何でもない。覚者とは、そういった祈りとは全く無関係の存在であり、覚者やその像に手を合わせて祈るなどこれほど滑稽な光景はない。

この光景に絶句できるかどうかで、悟りの何たるかに気づいているかどうかが分かると言えます。

ただ、頭で分かるということと、実際にそう信じ込むということの間には険しい道のりがあると思います。

そこは弁えないと、世の中、教祖様だらけになってしまいます(笑)。

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