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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p270)》
無明とは心の本源を如実に知ることができない不覚であり、いわゆる無知とは違う。それどころか無明は豈図らんや、くさぐさの知識と情報をため込み、そこから果てしない言語ゲーム(戯論)を始める。「一切の言説は仮名にして実無く、但妄念に随って生じてくる」(『大乗起信論』)ことを知らないで、人は議論を戦わすが、宗教はむしろ言葉から離れるために言葉を利用するに過ぎない。それを「言に因って言を遣る」と言う。本来宗教は饒舌から沈黙に向かうものなのだ

心の本性は清浄であるにもかかわらず、「衆生はもろもろの妄想(妄心)のために浄心を迷覆せられ」(空海『秘密三昧耶仏戒儀』)、自ら造り出す虚妄の世界でひとり呻吟している(心性本浄、客塵煩悩)。われわれは真心(浄心)を妄心で覆うが故に、見るものことごとくが虚妄となり、一方、菩薩(仏)は妄心を捨てて真心でもって見るが故に、見るものすべてが真実となる。

諸の凡夫は、真を覆いて一向に虚妄を顕す
諸の菩薩は、妄を捨てて一向に真実を顕す
(『摂大乗論』「果断分」)

・・・
「雲霧日月を弊す。雲霧披れて日月を見るに、日月今更に生ずるにあらず。これは密教に本有を顕はすの喩なり」(空海『秘蔵記』)。
《引用終わり》

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