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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自己を創造するー学年の枠をのりこえて」(p391〜561)の「子どもの可能性に向き合う教育」(p520〜561)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p532)》
…広井良典氏は『ケアを問いなおす』(1997)において、

ところが、現在の医療の展開をみると、一言で言えば、「あらゆる局面において、『サイエンスとしての医療』が、『ケアとしての医療』と思わぬかたちで出会い、”反転”を余儀なくされる」という局面が浸透しつつある。

と、述べている。
《引用終り》

本書には、高齢者医療、ターミナルケア等、具体的な解説がありますが、ここでは割愛。

《以下引用(p533)》
広井氏は、対象との切断や自然支配、統御、また、経験的、実証的な合理性を追求するサイエンスの発展の縦軸と、対象との共感や一体性、自然親和性、また、対象の個別性や主観性を重視する「ケア」の充実を横軸にして、「サイエンス」と「ケア」の分裂をシステマティックな視野のもとにおさめるマトリックスをえがいている。…しかし、どうか。生命の実態を概念で思いえがくことはできる。しかし、空転するあやうさがある。…最近の学校に配置されている学校カウンセラーが価値をもつのは、学校自体が生きて躍動する世界であればこそなのである。《引用終り》

学校での学習と、学校でのカウンセリングが強い連携を持っていなければ、学校カウンセラーはたまたま学校にいる医療カウンセラーに過ぎないのではないか?

《以下引用(p535)》
学習者は広い意味で時間とともに成長する主体者である。したがって、指導者はこの学習者の成長をつらぬく時間を見守ることになるわけで、学習する行為全体がケアする心に支えられていなければならない。もしそうであるとするなら、教育もまた、そこで学ぶ子どもたちをケアする行為として再構築しなければならないわけであり、対象とする科目に対してもまた、ケアの心でつつみこみ、人間の五感に発する人間的能力を土台にした学び方が要求されることになる。

子どもたちが真に学ぼうとするとき、これまでつちかった学力だけでなく、感覚、記憶、そして、それまでの自分の経験のすべてを出し切らないと達成できない、そういう局面に出くわす。そして、いわば、そこでの挑戦的な、自分を賭けた格闘のなかで、それを学び取っていく、この行為こそが人が学ぶ、ということである。これは従属的な姿勢のままで、与えられたことを従順に習得する行為だけで達成されるものではない。子どもが自学自習という学習経験をつみかさねていくことによって、はじめて得られるのである。けっして学力をつければいい、従順ならいい、まじめがいい、という世界のことではない。精神的能力だけでなく、身体的能力もふくめて、すべて全身全霊、かたむけてこそ、子どもの目のまえの世界は広がるのだ。
《引用終り》

面白い例があります。

《以下引用(p536)》
道でアメリカ人に道を問われたとする。語彙数一万の英語の得意な生徒はいとも簡単にわかりやすく道を教えた。中学生レベルの英語力の生徒は「パードン・ミー」を連発して、身振り手振りでなんとかその場を切りぬけた。英語の学力がなきにひとしい生徒は、やっとこさ相手の気持ちを察して目的地を聞き取ったが、道順を英語で教えることができない。ええい、めんどうだ、ぼくについてらっしゃいと、そのアメリカ人の道案内をみずから買って出た。さあ、どの生徒のコミュニケーション能力がもっともその外国人に感謝されたか。最後の生徒だろう。この生徒はこうしたアウトプットの場でいかに多くのものを学んだことだろう。しかし、これを見た指導者は、やはりこの生徒には語彙力、文法力など、基礎基本の学習が必要だと思うはずである。
《引用終り》

そうすれば、鬼に金棒ですね。

《以下引用(p537)》
基礎基本は、他流試合に敗れた人のもどる場所であり、他流試合に敗れた人のもどる場所であり、さらに流暢な英語力をものにしたい生徒のもどる場所であり、もっともしぜんな英語力を学習したいと思う人のもどる場所なのだ。教育がケアの性格をもつというのは、こうした基礎基本の学習の性格を思いえがいたうえでのことである。基礎基本を学ぶ場が、個人別の学習空間であり、自学自習の学びをする場所である理由もここにある。…

みずからの力不足を経験したかれらはしずかに自省をくり返して、自学自習の世界にもどっていく。その場が「基礎基本を学ぶ」場所である。剣術の修行者は、他流試合に敗れたら、どこへもどるのか。自己研鑽の道場へいくのである。武芸だけのことではない、スポーツの世界もそうだし、勉強の世界であっても、こと自己研鑽にかんしては同じことである。
《引用終り》

勉強の場合は、そこで「ケアとしての教育」が行われることになります。

《以下引用(p537)》
ムダな部分をそぎおとして、基礎基本だけを自学自習できる教材が「ケアとしての教育」には不可欠のものになる。しかも、学年という枠をとっぱらった無学年制の教材を用意するのだ。生徒は自己の能力に合わせて学年を越えて学習することもできるし、自分の学年以下のところにもどって学ぶこともできる。学習方法は自学自習である。学力のつき具合がはっきりわかるし、効果的でもある。学習しにくくなったら、自分の弱点を補強するために復習もできる。
《引用終り》

それが公文式の教材、ということになります。

《インデックス》

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