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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自己を創造するー学年の枠をのりこえて」(p391〜561)の「子どもの可能性に向き合う教育」(p520〜561)を読みました。(小林教室収蔵

いよいよ最終章ということで、これまでのことが総括されている感じがあります。

《以下引用(p520)》
〈現場〉は子どもたちが必要とするものを必要なだけ与えることのできる〈指導の場〉であり、これにこたえて生徒がいどむ〈学習の場〉があってはじめて成り立つものなのだ。ここにあるのは、明日の成就に向かって必要とするものだけであり、大人がかってに考えた到達基準といったものなどが入りこむすき間はない。そこでは、指導者はつねに子どもたちが明日に向かって「ちょうどの学習」をおこなっているかどうかを確認しては、「ちょうどの学習」でない状態があれば「ちょうどにする学習」をおこなう〈学習×指導の場〉である。指導者は監督者ではない、観察者ではない。数学においては定義知(計算)を、国語においては経験知(読書)を、英語においては運用知(読解力)を突破口にする。そして、作業力に不足があるとみれば、どこにその原因があるかをじっさいに見さだめて、学習が順調にすすむ指導をおこない、理解力に不安定さがあるとみれば、どこにその原因があるかをじっさいに見さだめて、自学自習ができるにふさわしい理解力にまでみちびく。そして、みずからの学ぶ力を実感した子どもたちなら、当然、もっと学びたいという学習態度が形成できているはずなのに、これができないで、そこにたたずむ子がいれば、その子に、「やってみよう、やってみなければ、わからない」と言って、自分の力だけでできていることを証明してみせる指導をおこない、その生徒にふさわしいほんのちょっとの冒険を試みさせる。
《引用終り》

問題が提起され、自分で取り組んでは見るものの最終的には模範解答・解法が提示され、それを暗記する…その繰り返しも大切ではありますが、それに終始したのでは後ろ向きの人間にしか育たない。「冒険を試みさせる」というところに、公文式は学習塾ではないと言う所以があるのでした。

《インデックス》

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