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《以下引用(p471)》
全体主義的な社会では、個性は不要とされるか、むしろ害になるものとしてフタをしてしまうだろう。しかし、個性を認めない社会に変化や発展はない。もともと教育はつねに一人ひとりの「自分」から発して、これに変化を起こし、集団に伝播させ、そして、やがては大きな革新へと発展させるものである。
《引用終り》
有性生殖で増殖する種が繁栄を極めていることが、何より多様な個性を認めることが発展につながるということの証拠だと思います。
いろんなバリエーションを持つ社会、いろんなバリエーションを持つ個人は、様々な状況変化に対応する力を持っているのです。
バリエーションを持つことで発展してきたものの例として、思想では仏教、社会では江戸、教育では公文式が挙げられます。
《以下引用(p473)》
「障害」を個性とみる見方がある、と先に述べた。この人たちもまた、社会的に有意な力能をもつ「個人」でなければならないとするなら、障害は個性などではない。社会的な制約を受けることと個性は同じではない。じっさいには障害をもつがゆえに実社会ではさまざまな困難に出会い、いわれなき差別を受けているのである。日常生活や社会生活でさまざまな制約を受けていてもなお、教育の現場からも締め出されてしまうのだろうか。社会的個人として遇するとしても、その個人には障害があり、「社会のメンバーの一員」としてあつかわれない状況がある。個人には感情もあり、コンプレックスもあるのだ、という地点を出発点にしない教育は幻想ではないのか。
《引用終り》
才能と煩悩は本質的には同じものだと思いますし、個性と病気(障害)も本質的には同じものだと思います。障害と引き換えに得られた才能を見つけ、歴史に残る偉業を果たした人々はたくさんいるのです。
《以下引用(p474)》
塙保己一や本居春庭(宣長の長男。「係り結びの法則」など、国文法の研究に従事した。保己一同様、視力は失われていた)のような抜群の知力をしめした学者や、多くの善男善女の心を魅了する視覚障害をもったピアニスト、また、下半身が不自由なテニスプレイヤーもいる。この人たちの天才である所以はさまざま語られているが、忘れてならないのは、この人たちが学ぶ機会を想像もできないほど豊富に与えられてきた事実である。言うまでもないことだが、なにもしないで視覚の不自由なピアニストがコンクールで表彰の栄に浴するはずはないのである。
《引用終り》
深刻な障害であれ、強いコンプレックスを抱くような能力不足であれ、そこに「意味」を見つけて絶望や諦めから這い上がった者にだけ光は差し込みます。
オランダのスタディハウスの学習は、ディスカッションやプレゼンテーションを繰り返す中で、自他の得手不得手を認識し、グループ内で能力を相互補完できるようなコミュニケーション能力を身につけることを主眼としているようでした。
こういう人たちで構成される社会は、個々の得意分野を生かし合い、認め合い、様々な個性のバリエーションが強さにつながっていきます。しかも、個々の人々は、自分の存在する「意味」を見つけ、自覚し続けることができます。
教育は、そういう社会を目指すべきです。
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