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霜里ファームの有機農業が紹介されています。興味深いお話でした。
《以下引用(p457)》
くり返すが、教育の目標は学校や国がさだめる集団的な目標である。学校全体で取り組む課題意識を集中するためのものである。しかし、学習は生徒個々の可能性の実態にそくした「ちょうどの学習」をすすめるものであり、現場の指導はこの個性あふれる個人に対しなければならないものなのだ。だからこそ、公文氏は「21世紀は個人別教育の時代になる」と言ったのだ。個人別教育とは一人ひとりの学習の芽を生き生きとした生長に導くことを意味していたのである。
このように整理することにより、これまでの「学習指導要領」の堂々めぐりや、いつまでたっても成果の出ない「基礎基本の徹底」の位置づけが明確になる。おたがいが十分に遂行できなかった責任を他に転嫁することがなくなるはずである。
個性は克服すべきものではない。金子氏の農園はまるで里山だった。公文氏は「能力の低い者こそ、さきに進める」と言った。斉田先生は指導の結果、高進度学習者を数多く出す教室になった。社会的力能のために生徒は従属する存在ではないのだ。いまの教育がそうだからといって、いまの社会がそうだからといって、個性はそのままで発達の機縁となる、どうあろうと、よき種子なのだ。
《引用終り》
学校全体の経営に責任を持つ校長先生の視点、クラス全体の経営に責任を持つ担任の先生の視点は、文科省が各学校を見下ろすのと同じ方向性のような気がします。個々の子どもの個性を見上げ、伸ばしてあげようという視点とは、方向性が逆です。
教育者に求められる視点とは本来、後者の視点だけの筈です。しかしながら、文科省監督下の職員という立場では前者の視点をも持ち合わせなければいけないし、日々その葛藤に苦しまなければなりません。そして、どちらかを選ばねばならないという状況では、前者の視点を選ぶのが良きサラリーマンとしてのモラルです。
そう考えると、現体制下では、学校の先生は、教育者としての立場を全うできない構造上の欠陥があるということになります。この欠陥が顕在化しないように文科省が細心の配慮を行わなければいけないのですが、そんなことするわけがない…。
こんな状況の中で、個性を伸ばす教育を呼びかけても、個性(わがまま)を看過するのが関の山です。本当に、学校の先生は大変なお仕事だと思います。
《インデックス》
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